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◇一章・前編【系統導巫】

断片……(二)  【倫理】

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 ――在りし日の記憶の中。食卓を挟んで対面している初老の男が、唐突に語り出した。

『――突然だが、面白い話をしよう。
生物の存在意義は、いかにして“系”を次の“個”に受け継いで行くか。いかに系を途絶えさせないか。いかに効率良く最適化し優秀な個を残して行くか。突き詰めてしまえば、それだけだと言える。そうデザインされている。当たり前の話だろう……? そうしなければ種は種として絶滅してしまうのだからな』

「…………」

『――だが、その、生物としての意義。
それを優先し、自らを犠牲にする事。本当にそれは正しいのだろうか? 逆に、正しく無いのならば間違っているのだろうか? そんな観点より、私は“人とは”何かを。人を人足らしめる社会性とは、倫理とは? 今日はそういった事を語りたいと思う!』

「…………」

『――ある昆虫は、種を残す為にオスがメスと交尾した後に、自ら進んでそのメスに食われるという行動を取る。合理的だ。役目を終えたオスがメスの産卵に必要な養分となるとは実に合理的。そのプロセス、それはその種が自然界で生存して行く為に培われていった遺伝子レベルでプログラムされた習性である。が、極稀にそれに逆らい、交尾で身体の繋がったままのメスを“逆に食い殺して”生存するオスの個体が現れる。おかしな話だろう?』

「…………」

『――ここで論点になるのは、オスは自らがその後も“個体”として生き残る為に、本来何よりも優先すべき筈の“次代の命”を宿したメスを食い殺してしまったというところだろう。そういった自己犠牲的な習性を取る虫は、意外とオスが生存してしまう事がある。メスがたまたま満腹であったり、メスの不意を突いて逃げ出したりする事でな。これらは単に、オスの運が良かったという話であって終わりだ。しかし交尾を終えたメスを食い殺すといった行動に限っては、虫は自らの種を残すという“系”としての存在意義を真っ向から否定している』

「…………」

『いわば、その個体は、系より個を取ったのだ。生物としての意義より、個として生きる道を選択してしまったんだ。無論、偶発的な事象であり。昆虫の感情なんてものは無いのかも知れない。複数の要因が重なった偶然だろう。しかし、さながらプログラムに発生したバグのようだ。ハハッ虫だけにバグだ。普通におかしな話だが、そのオスが仮に、自らの意志で行動を選択していたとしたら。そのオスは“愚か”だろうか……? ではいったい何様が“愚か”と定義出来るというのだ……?』

「…………」

『誰も、何様も。自らの為に生存したオスを愚かかどうか答えてはいけない。意見を言うのは構わないが、勝手な判断や見方で正解を語るのはとてもおこがましい事だな。或いは虫に対して、いや虫だけに限らず他の生命に対して傲り高ぶる人間こそ愚かしい。けれど他の生命の在り方、それを客観的かつ思想的に論じる事ができる唯一の生命が人であると十八世紀後半の哲学者【ナン・チャラー】が定義した』

「…………」

『さて、ここで見方をかえてみよう。
その【『愚か』と虫を論じる、愚かな人間】の定義をふまえて。彼は後年に更に捉えた。私達人間の主観的な立場から、その論理的な志向性を提唱するとしたならば。彼、哲学者【ナン・チャラー】はこうも言葉を残している。我々は鳥籠の――』

「――!!」

 ドン! と、食卓が叩かれた。

『――ほぅ何だと? 朝食中にニュースを見ながら人の目の前で勝手に自分の授業を始めるなと? 今の話はいったい誰に対して語っているのか? 授業の予行練習か何かに付き合わされる息子の身になれ? ほうほう……というか朝っぱらから、かなり迷惑だと?』

「…………」

『まったく酷い息子も居たものだ。人の心が解らないのか、おまえは? ……そんなことを息子に言われたら、流石に堪える。私のメレンゲより柔らかいと自負している精神も傷付くというものだぞ!』

「…………」

『あぁこの頃、息子が冷たいな。遅れて来た反抗期だろうか。仮にもし息子ではなく娘だったなら、父親をもっと優しく扱ってくれたのだろうか。父親を尊敬してくれただろうか。いつまでも一緒にお風呂とか入ってくれただろうか。きっとそうに違いない。よし! 今からでも遅くないぞ。お前は将来、タイムマシンとかを作る偉大な人物になるんだ。そいでお前は、お前が産まれる前に戻って。何かしらの方法で父親に優しい女子になってこい! わたしは娘が欲しかった。もう一度言おう、わたしは娘が欲しかったっ!』

「…………」

『しかし仮定の話でも。それは残酷な事か。
それが成功してしまった場合。女になったお前は果たして、お前自身といえるのだろうかという問題が発生するのだ。世界に男と女のお前が二人発生するのならそれはソレ。あえてタイムパラドクス的なヤツを考えないものとしても。おそらく物理的な要因により、過去を変えた現在の男のお前は消滅し、女のお前にシフトすると考えられる。けれど、男のお前の意識や記憶や来歴という情報は、シフトした世界でエネルギーとしては残り、女になったお前に引き継がれるとすると。だとすれば。二十世紀後半のアメリカの哲学者が考案した思考実験で、同じ記憶と身体を持った複製された人間が本人と言えるかどうかというものがあってだな。その思考実験に当て嵌められそうだ。すると――』

「…………!!」

 再び。ドン! と、食卓が叩かれた。

『――まったく。人の話を遮るものではないぞ。お前を育てた親の顔を見てみたい気分だ。いや、その親がわたしなのだが。まあいいか。倫理りんり。お前の名前は人としての道、道徳。他人への優しさと慈しみの心。正しさと善意。モラルや倫理観。そういった大切なものをちゃんと持って欲しいと願って付けた名前なのだ! だからこそ、こうやって些細な時間で有意義な私の講義を無料で聴かせてやってるんだぞっ! 感謝するんだな、ハッハッハッ!』

「――!  ――?」

『――ん? 時間は大丈夫なのか、だと?
そう言われると……おおっと、こんな時間か。お前のせいで、朝早くからずいぶんと長いこと話し込んでしまったようだ。あぁまったく。なんとも手間のかかる息子を持ってしまったものだよ、わたしは!』

「…………」

『仕方ない、お前に宿題を出すとしよう。
これは私の生徒達にも出そうとしてる課題でな。では【ナン・チャラーと虫の定義】あの話を最後まで聞いたと仮定して、だ――』

「…………」

『――今のお前は重症で、医者から“このままだと死ぬ”と宣告されたとしよう。ただし、やりようによっては手術で大幅な延命が可能かも知れない。それこそ僅かな自由とリスクを引き換えにし、人並みに生きる事が可能となるとする』

「――?」

『――しかし、お前が自分の“個”を優先して延命の為の手術をすると、事故で運ばれてきた急患の妊婦が治療を受けられない。彼女はその腹の子共々に死ぬ。けれど、お前も早く手術を受けられないと死んでしまう。妊婦に意識は無く、医師はお前に“どちらの命を優先するか”重要な選択を迫った。そういった設定だ!』

「――ッ!」

『え、わたしの設定が雑だと? 医者はそんな無責任なこと言わない? 患者に選択を押し付ける医者とか意味不明? 例えば一つしかないウイルスのワクチンを自分で使用するか、他人に移譲するかの説明のほうがわかり易い……? ほぅなるほど、ナイスアイデアだ。生徒に出題するときはそうしよう!』

「…………」

『話しは戻るぞ。さて、お前はその場で“急患の妊婦”と“自分”どちらの身を取るか選択をしなければならなくなったわけだ。大変だな!』

「…………」

『その状況で。例えば、自身を取るとする。
それは個として正しい判断だろう。妊婦を治療しても彼女や子供が助かるとも限らないしな。自身を切り捨てられる事は英断であり、同時に無責任な愚行だ。死んで良い人間は居ないし、お前は何処かでは必ず必要とされている人間だ。それに、失念してはならない。“お前を大切に思う”人間が、家族が居るのだからな……』

「…………」

『反対に、妊婦の治療を優先してもらう。
自らの子でなくても、自らを犠牲に次代の命を繋ぐというのは立派に生物としての存在意義を果たしたといえるだろう。それも正しい判断だ。単純に命の数を取ったとも言い換えられるが……ある種の“意義のある自己犠牲”は、一つの生命の答えだろうな……』

「…………」

『これは、二択では無い。模範解答も無い。正解も正しさも客観性の中には存在せず、本当の答えはお前自身にしか解らない。お前が出した答えがその場の正解なんだ。世界はその瞬間、お前の主観で“観測されている”物語だと仮定しろ。結果、当然に後悔をするだろう。選択が過ちではないかと疑いもするだろう。しかしお前の選択を、お前自身が意味の無いものにしないために。お前自身が最後まで、その選択を信じてやるんだ! わかったか?』

「…………」

『おい。倫理、しっかり聴いていたか?
良いいこと言ってたのだぞ、聴いていたか?』

「…………」

『……それ、食べないなら頂こう!』

「――ッ!?」

 ……また人の都合を無視して、相当な変わり者である父親が一人で語り続けてると思ったら。不意の隙を突かれて皿からオカズを摘ままれてしまったリンリ。それに抗議しようとするが、既に奪われたオカズは父親の口の中だった。

『――んでは、行ってくるぞ。今日も遅くなるからな。適当に栄養が有るものでも食べておけ。ということで、さぁ未来に向かって毎日頑張れ! 浪人生!』

 見送る暇もなく、玄関扉が閉められる。
リンリは「朝から騒々しい男だ」と、心の中で愚痴を溢し、小皿に残った豆腐を口に運んだ。

 ――教師をしていたリンリの父は、たまに時間が合うとそうやって小難しい事を、一方的に意味も無くよく語ってきていた。
 まあ、所詮は妻に逃げられた初老の男の言葉。それもかなりの変人の分類の。リンリはそれが煩わしく。また、あまり好きでもなかったが。皮肉にも頭の中に残った父親の言葉の数々は、何時も“ここぞ”という時に道を指し示してくれた。



 ◇◇◇



 ――大嫌い……だった。あの男。自分の父親の最期が、どれ程にどうしようもなくて、無様で、耐え難い、最低なものであったかがリンリの脳裏を過ぎ去る。

『あの……鈴隣すずどなり先生のこと。
本当に、心からお悔やみ申し上げます……』

 年下の知人が肩を貸してくれた。

「…………」

 けれど、貸された肩を払いのけてしまう。
とても他人に気を回せる心情でなかったから。

 リンリは裏切られたのだ。唯一の肉親に。
いったい当時に、どれほどの幻滅や失望や落胆の感情を抱いたことか。

『先生は、本当に素晴らしい先生でした』

 何一つの気休めにもならない言葉。

「……素晴らしい、先生。だと? どこが……?」

 唯一の肉親を無くし、果てしない絶望と失意に押し潰された。その日のその夜、激しい雨に降られながら、言葉にできないどうしようもない憤りを強く深く嘆いた。あの夜から、あの時から全てが止まってしまったのだ……。

『……先生は、いつも先輩のことを――』

 もう止めてくれと、リンリは知人を睨んだ。

「どうして。…………どう、して……だ?」

 あての無い、問い詰めが彷徨う。

 ――自分リンリは、止まってしまった。
未来から、現状から、自分自身から。

『先輩……これ以上、かける言葉もありません。
すいません……』

 知人はリンリを置いて去って行く。

「……親父が……自殺なんて……。
どうして。何でだよ……何でなんだよ!」

 事のあらまし。肉親との死別。

 ――起因たる過去。身内の不幸。これは実によくありふれた。悲しい過去だった。

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