上 下
54 / 76
◇一章・後編【禍群襲来】

一章……(ニ十六)【厄至】

しおりを挟む


 ――ハクシが舞っている。
 彼女と自分リンリ出逢であった懐かしき彼の滝、その滝の水飛沫と水霧を背景にして。
 まだ早朝。払暁ふつぎょう鶏鳴とりなきき、有り明け刻。
 日輪が射し込む手前、遠方の山岳山相が朱色に染まりつつある際、彼女は負けじと輝いていた。

 彼女の羽衣ユリカゴ神事まつりの時とは異なり。足元で。大地に弧を描き、煌り煌り廻っておる。
 此度は神様に向け奉るものではなく。統巫屋ここの土地に対して、願いを届けるもの故に。

 彼女は、

「――揺籃ようらん御守おもり、うつろなかご
かくして、ひとり、かたりつぐ。らくよう、かねて、かさねて、ほだし。ひとり、ひどり、ひとえにひどみ。ひとことのこし、ヒトバライ――」

 舞の振り付けの中で、言ノ葉を紡いで唄う。
 意味は理解叶わぬが、流麗な唄であった。
 そしてどうにも、もの悲しい旋律の唄。

「――何時いついついついつ……?
嗚呼、一割いつわり、いつわり、何時終いつおわるる……?
ひとりのこり、ひとりのこし、ひとをのこし、ひとみのこし、ひとにのこし、いつおわる。いつおれる。いつまでおられる、ヒトシレズ……。
嗚呼、所懐無情なりし、ヒトバシラ……。
無常無仰なりし、ヒトノサガ……」

 ――拍手かしわでを打ち、羽衣ユリカゴの煌めきが弾ける。
辺りに降り注いだ光の粒子は、吸い寄せられるように小刀エムシに集い。その刀身に淡い光明を纏わせた。

 それで終わりか。

 辺りには、静寂が戻る。

 ひとしきりの舞と唄が済んだのか。

「あの、ちょっと歌詞が不穏じゃなかったか?」

 つい無粋に、こぼした一言。

「――――」

 ハクシから咎めるような視線。

「なんでもないです。邪魔してすいません!」

 邪魔してはならないと。リンリは小さくなる。

「…………」

 舞の足運びを止め、口を閉ざしたまま。
身体の前で小刀エムシを横に構えるハクシ。

 そうして次に何をするかと思えば、

「――えぃっ!」

「ハクシ……? ああ、おいっ!」

 まさかの行動。制止の間さえも無く。
ハクシは自身の左掌に小刀エムシを突き立てたのだ。

 目を逸らすリンリ。
 しかしそういえば前にハクシから、小刀これは『なにかを直接“切って傷つける”為の物ではない』とちゃんと説明されていたか。

 一人で勝手に焦ってしまった。
リンリは内心で安堵し、視線を戻す。

「えっハクシ!? お前、その手は……っ?!」

 すると、間髪を入れず驚愕がやってきた。

 視線を戻すと、ハクシの左腕は変容していた。
言わば獣の前足。肘の先から黒い毛皮に包まれ、指は短くなり鋭利な爪が生え、掌には肉球まである。
 紅葉の如き形になった掌を、不思議そうに閉じたり開いたりしてみる彼女。人としての片腕を失ったというのに、あまり意に介していないご様子。

「ハクシ、様? 大丈夫なのか、それは」

 おそるおそる訊いてみる。

「術の反動……。かな? 案ずる事は無い。
意図的に不安定にした力で身体が変質しただけ。人の身、われからだを歪め、この左腕は現在、彼ノ者の在り方に偏っている。……だからね。エムシを介さずとも多少ならこの腕を使ってぇ!」

 彼女は勢いつけて、獣の前足で大地に押印。
地面に己の『肉球』の跡を残した。

 ――ドクンッ、と。

 瞬間、空間が震える。領域、全域が鼓動す。
遠くで鳥が飛び立って行く。体感的で実態の伴わないものではなく。実際に揺れていたのだろうか。

「おっとっと。なんかフラッと」

「今し方、統巫屋ここの。この領域のきざはしを、周囲より可能な限りで高くした故に。その影響」

「ヒノアサメさんに求められていたやつ……」

「是だ。普段は小動物程度なら出入りできるように調整しているが。もう此より、この領域には統巫か、或いは我の【系統導巫の印】がなければ侵入する事叶わず。……ここから出て行く存在には関わらないものだけどね?」

「ん、本当に? 抜け穴とかない?
地下何メートルと掘り進んだら、開通しない?」

 言って。リンリは唾を飲み込み、喉を鳴らす。

 ――座右の銘の一つは『石橋を叩いて渡る。いや強く叩いてから渡ろう。橋の耐久性が保証されている上で渡ろうよ。でも本心では、落下の可能性ある石橋なんて渡りたくないです勘弁してください』だ。そんな情けない臆病風な男である。

「それなる方法で、開通してなるものか」

 少し呆れ顔で、渇いた笑いを返すハクシ。

「其方は心配性だ。……で、えっとね」

 彼女は、獣の前足を背中側に隠し。
心配そうな表情にかえて言葉を続けるのだ。

「そのね。我は、力を使ったのだが。
りんり、此度は苦しくなかった……かな?」

「今回はぜんぜん平気だったな。
なんでだろう……。いや、あの。もしやそのアニマルな感じになっちゃった“左腕”って俺の為に。ハクシが俺に配慮した結果だったりしないよな?」

 曰く『媒体』と称した小刀エムシを何故、ハクシは自身の掌に突き立てたのか。いささかなりの疑問を抱いたが、よもやと。リンリは目を細めて訝る。

「――あぅ!?」

 その反応。まさか本当に、図星か。
尻尾と身体を跳ねさせ「あぅ」と。解り易い。

「おーい。ハクシ、様?」

「この程度。直に戻るとも。
エムシを介さずに権能を行使し、直接土地に語り掛けた。手段として身体に負荷を掛けたのは否定しないが。無理したうちにも入らぬ……だから、うん。大丈夫だよ」

「やめてくれ。行為は嬉しいけども。ハクシは身体を大切にして、無理しないでくれ。明後日には『ぼんなんとか』の危険な鼠の群れが到着するんだろ。俺のせいで、もしものことがあったら。そう考えると怖くて堪らない。耐えられない!」

 ハクシの隠した腕を、前に引っ張るリンリ。
毛皮が滑って、思いのほか強く引いてしまった。

「――りんりぃ、うぁぅ?!」

 腕を引かれた彼女は、驚いてか。
力を掛けられた方向に足を縺れさせて転ぶ。
 反射的に彼女を庇い、共にリンリも転んだ。

「……ぁぅ」

「いてて。悪い。何やってるんだろ俺」

『身体を大切に』と告げたのに、転ばせるとは。
なんたることか。言動に行動が伴っていない。
 格好悪い。情けない。恥ずかしい。
 彼女に申し訳ない。気が咎める。

「ぅ……ぁ系統導巫が、押し倒されるとは」

「『押し倒し』ては、いないだろこれ」

 顔を見合わせる。

「ぅ……そっか。引き倒されるとは」

「言い直さなくても……」

 ハクシは顔に赤みがさしていて。
さすがにここまでくると気恥ずかしいのだろう。
 彼女の声は控えめだ。

「はぁ。俺はいつまで経っても、変われないなぁ」

 自虐的に溜め息を吐いて、

「――ぃ否、そう卑下するでない」

 獣の前足で、リンリは鼻先を叩かれた。

「――其方は、それで良い。
他者を労れて、己の要領で精一杯生きて、己の弱さと向き合っている。環境に悲観しても奮起し、統巫屋にただ甘えるでもなく、立ち上がった。……りんりはそれで良い。人の良さとは、些細なものの積み上げた結果。其を示すことではないのかなと、うん。我は思うよ」

「そうか。そういうのは、
自分じゃ、なかなか解らない部分だ……」

 だからこそシルシや子供達に、同様の意味を含ませた言葉を送られてリンリは意表をつかれた。それで堪え切れずに泣いてしまった。大人の男がだらしなく、カッコ悪く。しかし、泣いたことで取り戻せた情緒は無意味ではなくて。より、まだ『生きる』活力となった。

「りんりは、りんり自身が思っているよりも。
ずっと。周囲にとって好もしい人間であろう。善き人であろう。そう、統巫屋と我が保証しよう!」

「……ははっ」

「裸で襲ってくる狼藉者でなくて良かった」

「……はは。その過去には触れないでくれ」

 腕の中の彼女を感じる。可憐で、儚げな、軽く柔らかい身体を感じる。その温もりを、息遣いを、心音を感じる。ずっとこうしていたい。
 出逢いを想起した。邂逅の言ノ葉を追懐した。
その優しさを、その愛らしさを回顧した。

「故にこそ、我は其方に配慮した。
我の自己満足にして、押し付けだ。気にするな」

「ごめん。ありがとうな」

「……りんり」

 彼女の獣の前足を撫でるリンリ。

「今のうち。直接、伝えたい――」

 彼女の肩に方手を添えて、上体を起こす。

「……りんりぃ……何を?」

「――重ねて、ありがとうって。
出会えて良かったって。伝えておかないと。
統巫屋の皆、使従の皆、そしてハクシ様。
皆、大好きでした。お世話になりましたって」

 リンリは頬に肉球を押し付けられる。

「否。其方、そんな言い回しをするでない。
……まるで、お別れみたいだよっ!」

 肉球は気持ち良いが、鋭い爪が頬に刺さってる。

「確かに、めちゃくちゃ死亡フラグっぽい。
ならもう少しだけ、今のままで構わないかな?」

「是だ」

大人気無おとなげなく、ぐちゃぐちゃの俺の顔見られるの恥ずかしいから。身体を、もうちょいとだけ寄せて構わないかな……?」

「えぇ? ぜ、是と……する」

 リンリは彼女の身を抱き締める。強く優しく。
 後悔はしないから。恥ずかしくも力をこめる。腕の中の大切な宝物を壊さないように注意して。
 人生で誰にもされたことのない行為だ。自分からした経験も同様であり。必要な時に、必要な人にさえしてあげられなかった抱擁だ。それをした。

「りんりぃっ、こんな、抱擁なんて……ぁぅぅ」

「あの時、俺がこうできれば……。
結果は変わったのかな? そう思うんだ」

「其方、それは……何のこと?」

「行方不明になって、湖に浮かんでた妹のこと」

「…………」

「妹の後を追って、崖から身投げた親父のこと」

「…………」

「いや、なんでもない……」

 言う必要の無い事を口にしてしまったリンリ。
 聴いてしまって、身体を強張らせるハクシ。

「人の根元的な恐怖は、喪失なり――」

「――喪失か。そうかもな」

 ハクシは、静かに語る。
或いは、そう。“もしも”『喪失それ』を遠ざける手段があるとしたら。そんな言ノ葉の後に、問い掛けを行うやり取りの……はずだったやも知れぬ。

「我は――」

「俺は――」

 一陣の強き風が吹き、静寂を拐ってしまう。

「(――りんりぃ。
我は、喪失が怖い……だからね)」

「(――ハクシ様。
俺は、喪失は怖い……それでも)」

 対の吐露は、ほんの瀬戸際で届かなかった。
あとほんの少しのところで、違えてしまった。

 ――風が吹き去ると同じく、朝を報せる鐘の音が鳴り初めた。
 よって、もう一言を伝え告げること叶わず。二人の抱擁はそこで離れてしまったのだから。



◇◇◇



 ――統巫屋の門の前で、筆と木札を持ち。
通過して行く者達の記録を取るリンリ。
 見知った顔も有れば、知らぬ顔も交じる。
来る厄災に備えて。皆々、安全が保証された統巫屋ここに避難してきているのだ。

 本来であれば避難が完了した後に、ハクシが早朝のあれを行う手筈であったが。そう万事予定通りにはいかぬものだろう。
 寝たきりの老体やら、病人やら、妊婦やらを家族に持つ者達の移動が思うようには進まず。厄災の到来まで二日と迫ったところで、ようやっと最後の者達を迎えるに至ったのだった。

 ハクシが簡易的な『通行の印』として拵えた、『草の編み飾り』を記録と共に回収して行く。
 回収して直ぐに、焚き火にくべて処理。
 些か、もったいないが。仕方ない。

 あと飾りは三つ。三人分の回収で完了。
けれど、後の三人が見当たらないではないか?

 そう思いきや。腰が曲がり、杖をついたひょろ長い老人が門の先へと進むと。彼を後ろから介抱していた三人の小さな背丈が現れる。

「兄ちゃん、ほらよ!」

 もう顔馴染みの、坊主頭をした元気な男の子。
熱い志を持つ、将来期待の兄貴分だ。

「はいっ、どうぞっ!」

 こちらも馴染みの子。中性的な、どちらかというと女の子っぽい、実のところ男の子だ。

「わたしで、さいごです。これあげる」

 いつもの顔ぶれの三人目。
愛玩動物だろう兎を抱えた、長髪の童女である。

「ひい、ふむ、みい。よし、皆。通っていいぞ。
そうだな。時間があれば、後でまたデザートでも作ってご馳走してあげよう!」

「さすが兄ちゃん!」

「うん、たのしみだねー」

「わくわく、です」

 三人は手を繋いで、門の先に進んで行った。

 集落の人数分配られた草の編み飾り。
『通行の印』はしっかりと回収できた。
草が枯れてしまえば、その効力を失うらしいが。
リンリは手抜かりなく焼却しておく。

「明後日、か……」

 ――明後日の今頃は、どうなっているのか。
傾いた日輪を眺めてから、目蓋を閉じる。
 暗闇の中でも尚、目蓋の裏に焼き付いた日輪の形は残り続け。此方でも彼方でも、変わらず天に昇っていた日の丸に、故郷への焦がれを抱く。
 そうして明明後日も、皆と共に。誰一人として欠ける事などなく、日輪を拝むことは叶うか。

 目蓋を閉じたまま、門の前で立っていた。

「――急患じゃー!」

「――へえっ!? ぐはぁッ!!」

 リンリは、ぼけっとしていたものだから。
ケンタイを乗せた、シルシと筋肉野郎が運ぶ担架に衝突してしまうとは……。

 ――暗転し。リンリの追憶は、厄に至る。 
しおりを挟む

処理中です...