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◇一章・後編【禍群襲来】
一章……(三十ニ)【決死】
しおりを挟む漣の起こる、現と夢の境。
たちまち淀み始めた水面に映される光景。
思えば、これは自分の記憶。
『――それが、お兄ちゃんの答えなんだ。
お兄ちゃん、すこしは“おもしろい”ほうの人だって思ったけど。だったらね、ココミもうすこしだけ考えをあらためようかな~?』
『…………』
『おもしろくて、ばかげてるよ』
『俺は……そんな人間だから、さ』
『リンリお兄ちゃん。すこやかなる日々は、いつまでもは続かないよ。そんなままの人間は、ぜったいに破綻する。たえきれなくなって、すりきれて、つぶれておわる――』
『……俺は強くは無いからさ。強く変わることもできないからさ。俺がもしピンチに陥ったら、躓いて転びそうになった、その時が来たとしたら……』
――脳裏に、記憶が過ぎる。
水面に波紋が広がり、場面が流れる。
『かんむりょう……。
知らないうちに、成長しちゃってさぁー』
『サシギさんのことか?』
『あはは……は。あの娘も、いつかココミをおいて飛び立って行っちゃうのかな……?』
『ココミちゃんは、キミを残してサシギさんに飛び立たれたら……。いや。サシギさんに限らず、誰かがキミを置いて行ったら。寂しいのか?』
敢えて“あたりまえ”の事を質問した。
飛び立つ。とは即ち『お別れ』の意だろうか。
もしや鳥の姿になるサシギは、普通の人間よりも短命という事情があったり。逆に、ココミが見た目よりも長命という可能性もある。
手持ちの情報では事情は伺い知れないし。ハクシの過去を探るのを躊躇ったように。相手から話してくれないなら訊こうとはしないが、何か事情があることは確実であって。ココミはそれら事情を見越して、ついサシギの成長で感傷に浸ってしまったと。
そう解釈すると、腑に落ちる部分が多い。
『……さびしい? おかしなこと言わないでよ。
もうココミは背負わない。とぉーくに、ココミには背負いきれてない。このごろは、もうながめるだけにしてる。過ぎさっていって、あわぶくみたいに消えていくのを。もう、ながめるだけ……』
『寂しくなくはない、から……?
それ以上、寂しく感じないように。寂しさ以外を感じないように。眺めるだけにした?』
ハクシもそうであったが。
同様に、ココミも誰かに先立たれたのか。
誰かを看取ったのだろうか。お別れをしたのか。
口ぶりからすると。それは一人だけにとどまらず何人も何度も。『悲しみ』という感情の在庫が切れてしまう程。『寂しさ』しか感じなくなる程。それ故にこんなにまで達観してしまっている、と。
『お兄ちゃん、えんりょって知らないのー?
人の内幕に平気でふみこんでくるんだね』
『嫌だったなら、止める。もう訊かないから』
『んー。きいてもいいよ。答えるかは、わからないけどね。きかれたら応じるかは考える。それすらも止めたらココミは、ココミじゃなくなるの』
『…………』
『あはは、それとー。
高いとこからながめてるココミと目があう、そんなおかしな変わりものさんなら。ひまつぶしにつきあうのも悪くないかもね』
『えーと、ちょとその早熟な価値観は難しくて俺には理解できないけど……。だったら。今度、時間有るときとかに俺も一緒に屋根に登ってみて、同じ景色を眺めてみようかな。ココミちゃんの隣に腰掛けてみてさ。そこで訊くよ』
『もー。ふざけたことを言わないで。
ココミ、怒っちゃうよ? かじっちゃうよ?』
『えぇ? 怒らせる要素あったなら、ごめんな。
ただ、誰かが背負う荷物を重そうにしてたら。ずっとは無理でも、一緒に歩ける間は傍らに行って。俺にも荷物を背負わせてもらいたいんだ。その間、少しだけでも誰かの肩の荷が軽くなるだろ?』
傲慢な押し付けだとしても。やはり。
悲しそうだったり、寂しそうな顔をする人間を放っておく事ができない。自分は不器用な人間だ。
その不器用さは短所であるけど、疑いようのない長所でもあると。誇りたい。
『むー。ほんとうに、ばかげてるよ!
そうしたら。その後、お兄ちゃんの死体がココミの荷物にくわわるでしょ? ばかげてる。ほんまつてんとー! そんなこともわからないの?』
『いやいや、なんで俺が死体に……』
『それに、良い? お兄ちゃんに荷物もってもらうほどココミは落ちぶれてないからねっもう。お兄ちゃんに持たせられる軽いもの一つもないから。くだらないおせっかいするくらいなら、ココミの不要になった物をせんべつにあげるから。お兄ちゃん、ふゆかいだから。めざわりだから。おねがい、ココミの先に進んで行ってくれない?』
『……うわー、酷すぎる――』
『のこすほうは、ずっとのこされるほうのこと。
どれくらい、わかるっていうの――』
――脳裏に、記憶が過ぎて行った。
記憶は、さながら水に浮かべた紙のように。
そこに書き込まれた墨の文字が、水分に滲んでいってしまうように。徐々に不鮮明になっている。
それを自覚せぬまま、意識は浮上する。
◇◇◇
「――あれ、俺は……痛ッ! 痛っっ~」
白昼夢の如き意識の混濁から覚めると、頭痛。
何故か低木の茂みに、仰向けとなっていた。
「どういう状況だ、これは……?」
頭痛を押し退けて、四顧する。
だが自分の直前までの記憶と、繋がらない。
確か、皆と、兎を、探しに。その時、確か。
統巫屋に、逃げろと、皆を行かせて。
そうして、アレに遭遇し、ケンタイが……。
……その。遭遇したアレ、とは――?
「――そうだ、鼠だっ!」
言うならば、心胆乖離の瀬戸際。
離ればなれと散りつつあった思考に、覚ました意識を軸とし繋ぎ止め、成り立たせた。
これは『熱に浮かされるよう』とでも準えるだろうか。ぼんやりする頭は、常に気を張らねば溶けてしまいそうであり。正体のわからない焦燥感と共に恐怖を抱かずにはいられない。
まだ自分は自分を保っているけれど。
「ここは何処……森の中だな。……大自然」
現在地は、靄が増した深い森の中。
判断できることは『鼠』も『自分』も終わっていないこと。今回の『一件』は依然として『終わってなどいない』こと。よって油断できない。
リンリは勢いを付けて低木から降りる。
すると、
「あッ痛ッ……ぐッ! 足捻ってるぞコレ。
それに、腰も鈍く痛むし……。どうして……?
……って。あぁ、思い出したぞっ!」
痛みを引き金として、思い出した。
鼠を“どうにかする”為にやった行動を。
――リンリは注連縄を手解き。崖ぎりぎりの位置で囲いの形に組み合わせた。そこは領域の『西北西』端部分、すぐ側の斜面の先には崖があり。崖の先は、統巫屋の領の外側で……。
鼠をそこまで誘き寄せて、囲いの内に入った際を見計らい縄を引き。どの足でも構わないので、張った縄に鼠の足を引っ掛けて転倒させる。もし転倒までいかなくとも、体幹の均衡を崩せれば「いける」かもと。あぁそんな狙いだった。
つまり。即席の、策とも言えない考え。
しかし、知識や条件からの発想だ。
鼠の骨格では、あの体幹では、傾斜で前のめりに移動が苦手の筈で。加えて小動物程度なら丸呑みできるほどの巨体。自重による四足への負担は、通常の鼠の比ではないだろう。ケンタイの奮闘によって弱っているし、誘引作用の発香筒まである。
試してみるだけの条件は揃っていたから。
――そうして、発香筒の紐を引き。
鼠が迫ったところで、発香筒を傾斜に向かって放り投げて。誘引に従い真っ直ぐ進んで行くだろう鼠の経路からさっと避けて、縄を引いてみた。
そこまで、上手くいった……!
――そこまでは、本当に上手く事が運んだ。
鼠の前足に縄が引っ掛かり、体幹が崩れ。前足を抜けた縄は、後ろ足に“巻き付いた”のだから。
リンリの思惑通りに鼠は転倒し、そのままの勢いで傾斜を転がっていったのだから。
――つい口から「やったか!」と声を出した。
すると、どうだろう。鼠に巻き付いた縄はその巨体の重量を繋がっている先に伝えた。
リンリの寄り掛かった木の幹。そこに巻かれた注連縄に、鼠の重量が伝わってしまったようだ。
その際は、何が起きたか混乱したが。客観的に状況を整理すれば単純。鼠ばかりに気を取られた結果の見落とし、不注意であって。
鼠の重量に負けた木の幹が折れて、余計な言葉を発したリンリの背中に衝突。
――転がって行く鼠を追うように。自分も。
鼠から少し遅れて、リンリも不本意に身を投げて急傾斜を転がってしまった。
後は、回転する視界の世界。混乱する思考の渦。鼠と仲良くご一緒に。崖の下へと真っ逆さまの無様な落下オチ。あぁ……思惑は成功であり大失敗。
また危うく人生が終わるところだ……。
幸いなことに、低木に落ちて助かったが。
とはいえ、見上げる高さの崖には登れない。
もう統巫屋には帰れない。方法が“無い”から。
例えば崖づたいに領域の外周を進み、集落の人間が普段利用するという『南側』の山道。統巫屋へと続く参道まで行ければ。戻れるのでは?
いや、それは叶わない。領域内へと侵入する『証』をリンリは持っていないから。なら安全地帯まで逃げて、待機していれば良いとも考えるが。
既に思考が定まらなくなりつつあり、リンリはそれを自覚してしまっている。自分にとっては汚染された空気。この環境で、そう長いこと精神と身体が無事でいられる保証は無い。
「――あぁ、ここは本当の異世界。
統巫屋《あそこ》の外の世界で……それで……」
ということは、
「……約束。皆との約束、守れなかった。
守れそうにない。て、ことか……ハハ……」
皆を裏切ってしまった。……ということ。
穢不慣。空気中に満ちる毒の如き穢。そんな穢が身体の許容を越えてしまい発症する病。
一度発症すれば、異成り立ち世の者にとっては、体内で穢を自浄できぬ者にとっては不治の病。それは精神を侵し、神経を壊し。身体を衰弱させ、末に逃れられぬ死に至らしめる運命。
――リンリの運命の帳。
「……くっ。……皆、ごめん……」
急速に死の運命が迫ってしまった。
こんな筈ではなかったのにと、呆然自失《ぼうぜんじしつ》となり意識と記憶が再び混濁し始める――。
『はて。リンリ殿、私の弓を触りたいと?
もっと良ければ、弓術を教えて欲しいと?
それは、私でよろしいのですか……?』
『ふふ、仕方ありませんね。
それでは、凡世覆軍の一件が無事に一段落いたしましたら……どこかで暇を作りましょう』
『構いませんよ。私の個人的な、働き者のリンリ殿へのご褒美。とでも思って下さいませ――』
――サシギを裏切った。
『感謝するのじゃ。ありがとう、とな。
そして、これからも。儂は、お主に構ってもらうつもりじゃから。……ぬ、間違えた。儂は、お主に構ってやるつもりじゃからの。ふらふらと何処にも行くでないぞ。よいか、よいな?』
『なんじゃ。躊躇うでない。心配ならば、お主は腕を伸ばしておれば良いのじゃ。儂の返礼の番。儂から今度はお主の手を繋いでやるからにのぅ! ほれ、手を出すのじゃ! ほれ、ほれ――!』
――シルシを裏切った。
『あのクソ餓鬼。あいや、シルシと付き合えるお前さんなら、サシギとも上手くやれるだろ。テメェの成長と共に。お前さんは、ここの皆から掛け替えのない存在に成ってやれ。そうすれば、統巫屋じたいに認められるんじゃあねェか……?』
『だからよォ、なんだ。この後、オヤジに“もしも”の事があったとしたら……。そん時は、お前さん。後は頼んだって話だ。オイッわかったかよ、クソオヤジのケンタイの一人息子よォ!!』
――ケンタイを裏切った。
『其方は統巫屋に居ると約束した。
故に理由が有っても、否だ。居なくなるなら、その前に申せ。我とお別れをしてから去れ。お願い。絶対に……勝手には居なくならないでね……』
『……わかった。ハクシ、大丈夫だ。俺は無責任に勝手に居なくならないし、絶対にそんな無謀な自殺行為なんてしないから。約束する――』
――ハクシを裏切った。
そんな事実の数々は、堪え難い苦痛で。
リンリの精神の要が、拠り所が、挫けた。
「は……ハハ、ハ……ハハハ……」
様々な感情がごちゃ混ぜとなり、腰を落として渇いた笑い声をあげるリンリ。瞳や鼻から液体が流れていく。視界が朧気になり、目蓋が閉じてゆく。
張った気を緩めたばかりに、精神の方の限界が著しく迫っていた。もう再起不能も近い。
「ハハ……っん……?」
呆然自失の最中、そう遠くない距離よりの音。
びしゃびしゃと、地面に液体が零れるような音。
思考も放棄したまま。腹這いで前進し。
目前の林に首を入れ、音の正体を確かめる。
探ってみれば、その先で、
――禍鼠が、赤黒いものを嘔吐していた。
「ぁ……」
幸運にも、感知されず。事なきを得る。
それから禍鼠は身体を震わせると、背を向け。
森の深靄に姿を暈しながら進んで行ってしまう。
――放置された吐瀉物の中には、獣の亡骸のような肉片と、白い毛皮の残骸が見て取れた。
「まる、わた……?」
リンリは林を抜け、鼠の吐瀉物に近付く。
「こ、れは……これ……っ!」
きっと『驚愕』とはこんな時の言葉か。
なんと獣の亡骸の付近に、何処かで見慣れた『証』が混じっているでないか。吐瀉物にまみれていようが構わずに、直ぐさまに拾い上げて確信する。これがあれば、帰ることができるのだ。
「……ハ、ははっ……。まだ、だ……っ!」
――希望を握り締め、立ち上がる。
「まだ、俺は、終わってない、んだなっ。
だったら、諦められない。簡単には、死ねない。
抗うんだ、少しでも多く。精一杯にぃ!」
――第二の故郷に帰る方法は、掴んだ。
気を張り直し、精神の瓦解を食い止める。
頬を数度叩いて、精神を奮い立たせる。
「……あぁ、でも選ばなきゃいけない、か」
――ところが、手放しで喜んでいられない。
それと、もう一つを発見してしまったから。
発香筒。すでに誘引作用の煙が消えてしまってはいるが、吐瀉物の中には発香筒までもが混じっていたのだ。『証』と共に拾い上げてみれば、その際の振動で僅かに煙が昇った。まだ利用できる可能性がある。強く振れば使用できるかも知れない。
「逃げれば、まだ、俺は生きれる……。
あぁ、あぁでも。鼠も……逃げる、よな?」
希望を手にしたが、逃げて良いのか?
自分が逃げ帰るとすると、こんな外れた場所で見失う事となる鼠は……同じく逃げてしまう。
「……俺は、浅はかな考えで行動した。
ケンタイさんは、だから、あそこまで鼠を始末しようとしたのか。考えが及ばなかった――」
事前に目を通した巻物の内容から、
『――逃がしてしまえば一匹の腹から自己複製し、同様の厄災が再び無秩序に増え始めてしまうことを意味する。これは厄介だ』
『よって禍淵、凡世覆軍の鼠。これを真の意味で此土より祓い浄める為には、特殊な環境下で『群れ』全個体と『親玉の雌』をほぼ同時に、散り散りに逃げる暇も与えずに殲滅しなければならない』
『一匹でも逃せば、全ての意味が無くなる――』
鼠を行かせてはいけないと、知っている。
「――選択に迫られてるな、俺は」
深く息を吸い上げ。深く息を吐く。
「……この瞬間から、少しの間で構わない。
俺は、俺の物語の『主人公』になってやる。それに相応しい責任と勇気と運命やらが欲しいな」
選択。けして二択ではなく、
自分が『どうしたいか』で決める。
「何で、生きてるか、じゃないんだ……。
どうやって生きて、輝いたかが人の価値だ。
俺は活きる。生き残れなくても、行く。大切な場所の皆に、後々また厄災が振り掛かる事が無いようにさ。決着をつける……。つけなきゃいけないんだろう、あの化け鼠と……!!」
選択が正解か誤りかどうか。気にしない。
誤りはない。自分が選んだものが、真実だ。
「ということで。……俺は、やる。
ケンタイさん、親父、見守ってくれ……。
息子の晴れの舞台、独り立ちの出発を……!!」
リンリは発香筒を激しく振る。
「死ぬつもりはない。俺はもう、簡単に自分を蔑ろにはしないから。死にたくはないから。皆を悲しませたくないから。生存の可能性は放棄しない」
筒から煙が立ち昇り始めた。
「ハクシ達の要る『北側』まで鼠を連れていけば良いんだろ? 殺されないように、俺の命が持つ間に。大丈夫、余裕だ。一匹だけ群れから離れた迷子の案内とか、俺には余裕な仕事だ……!」
――けれど、その認識は甘かった。
ほんの数秒後に思い知らされる事となる。
「…………え」
鼠。鼠鼠。鼠鼠鼠。鼠鼠鼠鼠鼠。
「うそ……だろぉ」
大地を染めあげて向かってくる褐色の波。
蠢動し合い、鼓動し合い、跳躍し合う鼠。
全てを賭けた、決死の逃走劇が始まった。
応援ありがとうございます!
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