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第2章 魔導帝国の陰謀

水の呪い3

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 防戦気味に敵の猛攻に対処していた王の耳元を、その場には不釣り合いな涼やかな風が撫でた。レクシリアの言伝が届いたのだ。
(思っていたよりも早い。これは僥倖だな)
 きっかりと矢の倍の速度で駆けて来たのだという風の乙女の言葉は、恐らく事実だ。王には絶対に不可能な技だが、レクシリアならばそれくらいの調整はやってのける。それさえ判れば、後は王宮からここまでの距離を考慮し、矢が到達するおおよその時間を予想して動くだけである。
「さっきから押される一方じゃあないか! まさかもうバテたなんてつまらねぇこと言うんじゃあないだろうな!」
 そう叫びながら女が繰り出した重い一撃をなんとか剣でいなした王は、そのまま横に跳び退って彼女から距離を取った。
「あまり馬鹿にして貰っては困るな。この程度で参るような鍛錬はしていない。……それに、勝負はここからだとも」
「ほお? まだ何か見せてくれるって?」
 王の言葉に、女が嬉しそうな表情を見せる。そんな敵の様子に、王も余裕を窺わせる笑みを返してみせた。
 とは言え、息ひとつ上がっていない女に対し、王の方は確実に疲労が蓄積していた。エトランジェたる女の種族までは判らないが、人間よりも上位に座す種であることは間違いないだろう。種族の差というのは、努力でどうなるものではない。その上、彼女の持つ水の呪いは、王にとっては天敵のようなものである。極限魔法クラスの魔法を使えば戦況も変わるのだろうが、高威力の火霊魔法は広範囲に影響を及ぼすものばかりだ。それこそ、先程の水の呪いを打ち破ったときのように遥か上空に向けて放つでもない限り、あたり一面の地形を大きく変えてしまうだろう。特に王が操る火霊魔法は、とにかく調整が利かない。故に王は、可能な限り自国の領土でこの手段は取りたくないと考えていた。
 こういった制限のある中、上位種を相手に王がここまでの善戦を見せているのは、奇跡のようなものである。
 しかし、さすがの王もこのような戦い方を続けるのには限界があった。表情こそ余裕のある様子を保っているものの、息は上がり、汗がとめどなく溢れてくる。女の連撃を捌き続けたせいか、剣を握る手にも痺れが出始めてきた。
(これでは矢が届くまで保たんか。……潮時だな)
 呼吸を落ち着けるように大きく息を吐き出した王が、剣を右脇に構える。そして彼は、朗々たる声を紡ぎ始めた。
「命育む大地よ 命燃やす炎よ 我が声を聞け 我が願いに応えよ 灼熱と堅牢の息吹を以て 我にひとときの力を与えん! ――“炎砂の剣鎧ケルパ・ウェイク”!」
 詠唱し、王が大地を蹴る。それは、相手の猛攻を捌くことに徹していた王が攻撃に転じた瞬間だった。
 これまでよりも遥かに機敏な動きで、王が女の喉元へ刃を突き立てようと剣を繰り出す。それを己の爪で防ごうとした女は、しかし王の剣に触れた瞬間に僅かに眉を顰めた。だがそれも一瞬のことで、やはり力づくで刃を弾いた彼女が、もう片方の爪を王の腹に埋めんと腕を振る。
 女の爪は、これまでの王であれば確かに対処しきれない速度で王を襲ったが、彼はそれを躱すでもなく受け流すでもなく、すぐさま翻した剣で受け止めてみせた。
「……へぇ」
 にやりと笑った女が、剣に止められた腕に力を込める。空いている方の腕で追撃をしないということは、力比べをするつもりなのだろう。
(っ、これでも、足りんか……!)
 両腕で剣を握っているにも関わらず、女の腕ひとつに押され始めた王は僅かに顔を顰めた。そして、両腕に更に力を込めて叫ぶ。
「三倍だ!」
 途端、王の膂力が増し、彼は見事に敵の爪を弾き返した。そして、そのまま返す刃で女の腹を狙う。鱗に覆われた箇所に刃が通らないことは判っていたので、鱗がない可能性がある場所を選んだのだ。服の内側がどうなっているかは判らないが、仮に鱗がなければ致命傷になったであろう。しかし渾身の一撃は、女が咄嗟に後ろに跳び退ったため、その腹を浅く切り裂くに終わってしまった。だが、僅かに散った血液を見るに、やはり彼女の鱗が覆える場所には限りがあるようだ。
「……身体強化魔法か。そんなものまで使えるとはな。アンタは魔法に関しちゃ相当不器用だって聞いてたが、存外器用な真似をするじゃあないか」
「それはまた、不名誉な噂が流れているようだな」
 そう言って笑ってみせた王だったが、ヒトならざる彼女の言っていることは正しい。身体強化魔法は、熟練者ならば必要な瞬間に必要な箇所のみを強化することも可能な魔法であるが、王はその切り替えを瞬時に行うことができないため、結果的に継続的な全身強化をせざるを得ない。その上、地霊魔法の適性が高くはない王にとっては、地霊魔法と火霊魔法を複合して扱うこの魔法による魔力消費は著しく大きいのだ。
「三倍ってこたぁ、通常時の三倍の力を発揮できるってところか? いや、力だけじゃあなくて速度も増してるな。だけどお前、三倍で動けるってぇ判ったなら、こっちもそれに合わせて調整するだけだぞ?」
「構わんよ。三倍ならば、お前の動きに対処し切ることもできよう」
 事実、王の目は彼女の出す攻撃の全てを見切ることはできていた。だがそれに、人間の身体の反応速度が追いつかない。ならば、一時的に人間としての限界を取り払ってやれば良い話である。そしてそれを実現させるのが、身体強化魔法であった。
「言うじゃあないか!」
 そう咆えた女が、再び王へと肉薄する。その後は、ひたすら剣と爪、そして炎と水のぶつかり合いだった。常人の目では追えないほどの速度で繰り出される攻撃を互いに捌き、そして反撃に転じる。相手によって逸らされた一撃は大地を抉り、戦場となった地にいくつもの爪痕を残していった。
 激しい戦闘は、一見すると互いの力が拮抗しているように見えたが、その実徐々に押され始めているのは身体強化を施している王の方であった。通常時の三倍に至る強化を行っても尚、異形たる女の純粋な身体能力に届いていないのだ。
(なんの異形かは知らんが、相当な上位種と見える)
 だがそれでも、かつて偶然出会ったあのドラゴンに感じた畏怖のようなものはない。それはすなわち、王にも勝機があるということだ。そして、王にはその勝機を手繰り寄せる自信があった。
 再び吹いた風が、柔く頬を撫でる。風の乙女による合図だ。そしてそれは、王が想定していたタイミングで訪れた。
 王が視線を向けた先。異形の女の向こう側。夕陽を背に受けて飛来する一矢が、炎と水の衣を脱ぎ捨てその姿を露わにする。
 王の目がそれを捉えた瞬間、地霊と火霊が色濃く王の全身を駆け巡った。王は何も指示していないし、しようともしていない。だが、彼にはそれが可能だった。
 それは、ヒトの身では決して至ることのできぬ境地。精霊そのものを統べることでしか到達できない極み。だからこそ、女はその可能性を一切考慮しておらず、そしてそれこそが決定打になった。
 首都にてレクシリアが放った矢が姿を見せたその瞬間、これまでよりも遥かに速く重い一撃が、女を襲った。ほとんど考える暇など存在しない中、その一撃に対して迷いなく回避行動が取れたのは、彼女の戦士としての本能のなせる業なのだろう。
 彼女は著しく優れた戦士であるが故に、王の一撃を受け切れないことを瞬間的に悟ったのだ。恐らく、今の刃が彼女に到達していたならば、勝負は決まっていた。それほどまでに、磨き抜かれた必殺の技であった。
 だが、当たらなければそれまでだ。確かに優れた攻撃ではあったが、女の虚を突く形だったからこそ通用した技でもある。更に速く強く動けるというのならば、女の方もそう心得て対処すれば良いだけなのだ。だからこそ、驚きはしたものの、彼女が焦ることはなく慄くこともない。

 そして、そんなことは王も十二分に承知していた。

 女が王の一撃を躱した瞬間、彼女の腰につけられている飾り紐が大きく外に揺れる。そしてそのタイミングを狙ったかのように、背後から橙色に輝く矢が駆け抜けた。
「っ!?」
 女が僅かに目を見開く中、大地の息吹を存分に纏った一矢が、飾り紐の先にある石を貫く。
「……私の、勝ちだ」
 王が笑みを深めると同時に、パキン、と軽い音を立てて、水の色を湛える石にひびが入る。そして直後、それは弾けるようにして砕け散った。同時に、女が纏っていた水の気配が霧散する。呪いと守護の根源たる石が砕けたことにより、彼女の矛と盾を担っていた水の守りが効力を失ったのだ。
 そしてその好機を逃すまいと、火霊がぶわりと炎を膨らませ、彼女に襲い掛かる。だが、
「待て!」
 突然の制止に、火霊は一瞬戸惑ったように揺らいだが、命に従ってすぐさま炎を収めた。そんな王の行動に、女が目を細める。
「なんだ、止めちまって良かったのか? 最後のチャンスだったかもしれないぞ?」
 不敵に笑って見せた彼女に、しかし王はきょとんとしたような表情をして首を傾げて見せた。
「さて。私には貴公に危害を加える必要がなくなってしまったのだから、火霊の暴走を止めるのは当然のことだと思うのだが」
「あぁ? 水の守りがなくなったアタシは取るに足らないってか? こちとらまだまだれるし、寧ろこれでようやっと面倒なしがらみなしに楽しめるんだが?」
「何を言う。貴公の強さであれば、水の加護がなくとも十分脅威であろうよ。だが、以上、ここは互いに痛み分けということで手を打つべきではないだろうか。貴公とて、万全ではない私と手合せするのは不本意だろう?」
 にこりと微笑んだ王に、女は顔を顰めた後、盛大に舌打ちをした。
「ったく、食えない野郎だ。まあ、そういうことにしておいてやるよ。実際、本気を出せないアンタと戦っても面白味に欠けるしな」
 構えを解き、異形の腕を元の人と同じそれに戻して、がしがしと後頭を掻いた女に、王も剣を収める。そして王は、やれやれ疲れたと言って、どかりと地べたに腰を下ろした。
 彼女が純粋な敵ではないということは、先の会話で彼女自身が教えてくれたことだ。いわば傭兵のような立場で、帝国側から依頼されて王の足止めを請け負ったのだろう。そして、わざわざそれを教えてきたことから、彼女自身、この戦闘に乗り気な訳ではないということが窺える。更に彼女は、備品を貸しだされている以上は依頼をこなす、と言った。裏を返せば、その備品がなくなれば依頼を反故にしても良いということだ。果たしてそれが傭兵として正しい姿かどうかは判らないが、少なくとも彼女はそう考えているのである。
 つまり王は、現状に不満しかないから備品を壊してさっさとこの戦闘を白紙にしてしまえと、そう要求されていたのだ。そしてその意図をきちんと汲み取った王は、だからこそ彼女自身ではなく、呪具を破壊することに注力したのである。
「しっかしとんでもない王様だな。一体いつこの作戦を考えついて、どこからが布石だったんだ? あの三倍だとか叫んだのは、間違いなくわざとだよな。あそこでああ言うことで、強化の度合いを変えるためには精霊に対する明確な意思表明が必要だって印象付けたんだろう? 最後の攻撃に繋がる布石ってやつだな。そんでもって、五倍は強化したんだろう最後の攻撃は、アタシの体勢を崩す役目のほかに、矢の存在をこっちに気取らせない役も担ってたってところか。しかし変だな。アンタが矢を放った様子は見られなかったが、まさかアタシの目ですら追えないほどの速度で動いたってか?」
 地面に座って息を整えている王の目の前に、女がどかっと座り込む。どこかきらきらした表情で見てくる彼女の目は、判りやすく期待に満ちている。
「いや、残念ながら、私の動きが貴公の動体視力を上回ることは万にひとつもないだろう。なに、簡単な話だ。ちょっとした小技を使って、指定した場所に遠くから矢を放って貰ったのだよ。私はそれが水の守りに当たるよう、タイミングを合わせただけに過ぎん。」
「……なるほどなぁ。アタシはアンタのことを人間だと思ってたが、アンタもまたヒトならざるものだったってぇ訳か」
 納得したふうな女の言葉に、王は心外だというような表情をしてみせた。
「何を言う。私はれっきとした人間だ。そもそも今回のこれは、貴公が水の守りを見えるところに身に着けてくれたお陰でやりやすかっただけだ。服の中などに隠されていたならば、もう少し手間取ったとも」
「手間取ったって表現をするあたりが、本当に食えない男だな。アンタみたいなのが人間であって堪るかよ」
 少々呆れた顔をして、女は王を見た。手間取る、ということは、つまり可能ではあるということである。
「大体、人間は明確な命令なしに精霊を意のままに操ることなんてできやしない。事前に細かく指令を下していたんなら別だろうが、アンタはそういう器用なことができるタイプじゃないんだろう?」
「さて、どうだろうな」
 答える気がない様子の王に、女はやはり呆れたような顔をした。
「やってることが人間の領域を超えてるっつってんだよ」
「そうは言うが、人間なのだから仕方がない」
 あっけらかんと言ってのけた王に、女は勝手に言っていろと息を吐いた。
「そんなことより、貴公、名はなんと言うのだ? これほどまでに優れた戦士にはそうそう出会うことなどあるまい。是非名を教えて貰いたい」
「それを教えてアタシに何の得があるってんだ」
 面倒くさそうに言った彼女に、しかし王は食い下がる。
「それでは、私の身体が空いたときに再戦することを約束しよう。勿論、然るべき場所を用意する。今回は、私にしても貴公にしても不完全燃焼が目立つからな。今度こそ、互いに本気で手合わせをしようではないか」
「よっしゃ乗った!」
 王の提案に、間髪入れずに女が片膝を打つ。そして彼女は、王に向かって嫣然と微笑んだ。
「アタシの名前は蘇芳。あちこちを放浪するのが趣味の傭兵崩れみたいなもんだ。こう見えても、アンタみたいなひよっこよりも三百は多く生きている」
「スオウ殿か。よろしく頼む」
 浅くではあるが会釈をした王に、蘇芳は一瞬だけ驚いた顔をした。赤の王は気さくな人柄だと聞いていたが、目下の、それも先ほどまで敵対していた相手に対して、こうも簡単に頭を下げるとは思っていなかったのだ。
「変だ変だとは聞いてたが、本当に変な王様だなぁ」
「私に関する噂は、随分と不名誉なものが多いと見える」
 そう言って笑ってみせた王に、蘇芳はやはり呆れた顔をした後、すっと真顔になって王を見つめた。
「しかし、王様よ。アンタこんなところで悠長に休んでて良いのか? 判ってると思うが、アタシが請け負ったのはアンタを消耗させて足止めすることだ。その役目は十全に果たせたと自負してる。ってぇことは、今頃帝国の連中は思惑通りに事を進めている筈だぞ」
「だろうな。だが、貴公にこっぴどくやられた火山がまだ息を吹き返しておらん。場合によっては更に炎をつぎ込む必要がある以上、私がここを離れる訳にはいくまいよ。なにせ相当に魔力を削られてしまったからな、離れた場所に対して魔法を使うのはできれば避けたいところだ」
「つまり、やろうと思えば、遠く離れた地にいても火山を復帰させるほどの大規模な火霊魔法が使えるってことじゃあないか。リアンジュナイルの国王ってのは、皆こうも規格外なのかねぇ」
 蘇芳の言葉に、王は黙って微笑みを返すだけだった。
「だが、アンタがここを離れられないとなると、ますます連中の計画通りだろうな。奴らが何を狙っているのかまでは知らないが、まずいんじゃあないのか?」
 蘇芳に指摘され、真っ先に浮かぶのはあの少年の顔だ。恐らく、帝国の狙いは今回もまた、エインストラたる少年だと予想される。そして、彼を攫う上で最も厄介な障害となるのが赤の王であると踏んだのだろう。よって、王がこの地で足止めを食らうのは、好ましい事態ではない。
 王宮で非常事態の第一報を受けたときから、もう随分と時間が経っている。もしかすると既に手遅れかもしれないが、それでも王はすぐさま金の国へ向かうべきだろう。
 だが、王はそうしようとはしなかった。
 そして、王の返答を待つように黙って見つめてくる蘇芳に、ゆるりと微笑みを返す。
「そうだな。何も私が常に傍にいて守ってやることだけが全てではないと、そう言っておこうか」
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