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最終章 伝説の最果てで蝶が舞う
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先ほどまでの真っ白な空間とはまるで違う、奇妙に薄暗くて、ところどころに歪みのようなものが見られる場所だ。
初めて見るその場所を、鏡哉はよく知っていた。
ああ、そうだ。ここはあの子の心の中だ。あの子の奥底の、閉じられた空間だ。
思わず立ち止まりかけたその脚を、しかし鏡哉は無理矢理動かした。そのまま、ずっと同じ景色が続いていく空間を、ただひたすらに歩み続ける。その足が一歩を踏むごとに、鏡哉の曖昧な姿は人の形をしていたあの頃へと戻っていき、そしてそれに呼応するように、鏡哉の中に失われた記憶たちが蘇ってくる。
自分が何なのか。どうして生まれ、何の為に生き続けたのか。
まるで泡が浮上するように次から次へと押し寄せる記憶たちが、どうしようもなく鏡哉を苛む。そのひとつひとつが零れて溢れ、鏡哉の胸の奥に鉛のように溜まっていく。きっと、本当は今すぐにでもこの脚を止めて、引き返すべきなのだ。それが自分に課された使命で、それだけが自分の存在意義だった。
けれど、
けれど、それでも鏡哉の脳裏に焼き付いているのは、燃えるようなあの炎だから。
引き返せと叫ぶ心を無視して、鏡哉は前へと進む。歪んだ世界を歩いていく。
そうやって、どれだけ歩いただろうか。ふと鏡哉は、自分の身体が何か膜のようなものをぬるりと抜けたような感覚を覚えた。そしてその直後、進む先に人影があることに気づく。
鏡哉の行く手を遮るようにして立っているその人は、鏡哉と同じ姿をしていた。いや、違う。とても似ているけれど、それは鏡哉ではない。
「……アレクサンドラ」
ぽつりと落ちた鏡哉の声に、人影――アレクサンドラが、驚いたような顔をして、それから、怒ったような泣き出しそうな、不思議な表情を浮かべた。
「全て思い出したんだな、鏡哉」
アレクサンドラの言葉に、鏡哉が頷く。
「僕は鏡哉。ちようを愛するために生まれた、ただの人格のひとつ。僕の役目は、無条件にあの子を愛し、何があってもあの子の傍にいてあげること。……でも、あの日ちようにちようの全部を明け渡されて、僕は耐えられなかったんだね。だから、アレクサンドラが僕の記憶の整理をしてくれていたんでしょう? ありがとう。たくさん迷惑を掛けて、ごめんね」
そう言った鏡哉が、申し訳なさそうな顔をしてアレクサンドラを見た。
そう、本来の鏡哉は、こうしてきちんと感情を表情に出すことができる存在だった。作り物じみた笑顔で他人と壁を作るような存在ではなかった。そんな有様では、ちようを愛することなんてできないから。
だが、あの日ちように全てを押し付けられてから、鏡哉は自分とちようを混同し、ちようの経験を全て自分のものだと誤認した結果、外からの刺激に耐えられるようにと、殻に閉じこもってしまったのだ。けれど、それももう終わりだ。鏡哉は自分を認識した。だから、上辺だけの笑顔で身を守る必要はもうない。
「……鏡哉は、少しだけ変わったな。前はもっと朗らかに笑っていたように記憶している」
そう言ったアレクサンドラは、何かから逃げているようだった。まるで、本題を口に出すのを厭い、無理矢理に適当な話題を捻り出しているかのようだ。
「そうだね。長い間ちようとして生きてきたから、僕自身も影響を受けてしまったんだと思う。でも、間違いなく僕は僕だよ」
穏やかな声に、アレクサンドラは少し押し黙ってから、再び口を開いた。
「ちようは、……その姿は、今、安定していないんだろう? ちようは大丈夫なのか? 私たちはウロに捕まったあとから、あまり記憶がないんだ。こうしてお前を前にして、ようやく何が起こったのか、なんとなく判るようにはなったんだが……」
アレクサンドラにしては珍しく、あまり秩序だっていない問いだ。だが、鏡哉はそれを指摘することはせず、ただその質問に答えを返す。
「多分、記憶がないのは、ウロがアレクサンドラたちを閉じ込めていたからだと思う。壁を作って遮断した、みたいな感じなのかな。ごめんね、僕も上手く説明できないんだけど、そういうことなんだと思うんだ。僕を見て僕に起こったことがなんとなく判ったのは、ウロが作った壁を僕が越えたから、じゃないかな」
「壁を越える?」
「エインストラは、境界を越えることができる生き物だから」
そう言った鏡哉は、どこか寂しそうな顔をしていた。それに気づかないふりをして、アレクサンドラは会話を続ける。
「……お前が境界を越えると、どうして私たちにお前の体験が伝わるんだ?」
「僕たちは、元々ひとつだったから。今は分かれてしまっているけど、それでも、仕切りを外せば伝わってしまうものもあるんだと思う」
僕も感覚的になんとなくそう感じるってだけなんだけど、と静かに答えた鏡哉に、アレクサンドラは鏡哉を見て、そして、くしゃりと顔を歪めた。
「…………私には、境界がどうこうだとか、そういうことは一切判らない」
「……うん」
「私たちは、ひとつなのに」
「……うん、そうだね。ずっと、そうだったね」
でも今は違うのだ、と。言外にそう伝える鏡哉に、アレクサンドラが鏡哉の腕を掴む。縋るようなその顔に、しかし鏡哉は、悲しさの滲む顔で、それでも穏やかに言葉を落とす。
「こうやってアレクサンドラと話して判ったよ。やっぱり、エインストラの力を持っているのは僕だけなんだね。多分、元々はちようのものだったのが、分かれたときに僕に帰属したんだ」
「……何故、何故お前なんだ。だって、この身体は、ちようのものなのに」
泣きそうな声に、鏡哉は少しの間だけ黙っていた。言おうか言うまいか迷って、そして、鏡哉は口を開く。
「……あの人が、エインストラなのは僕だと思ったから、じゃないかな」
その言葉に、アレクサンドラの表情が悲しみから怒りへと塗り替わる。いや、そんな単純なものではない。悲しみと憎しみと怒りと嘆きをぐちゃぐちゃに混ぜたような、そんな顔だった。
「一体何なんだあの男は! いきなり現れて! 私たちを引き裂いて! 挙句の果てに、お前のことを……!」
アレクサンドラの怒りは尤もだ。それは鏡哉もよく判る。鏡哉だって、立場が違えば同じように思っただろう。性質上ここまで憤ることはなかったかもしれないが、それでも、同じように悲しみや怒りを感じたことだろう。
「……うん。アレクサンドラが怒るのは判る。悲しいのも判るよ。……でも、今の君には、僕の思考が伝わっているんだよね」
今の鏡哉には、なんとなくだが、様々なものとの間にある隔たりを認識することができる。老婆の言葉を借りるなら、鏡哉のエインストラとしての目が開いているから、なのだろう。
だから、アレクサンドラとの間に何の仕切りもないことも、良く判った。そして本能的に、この状態は感覚や思考を共有しているに等しいと悟った。
元はひとつであった存在の仕切りを外した状態だから、こんな現象が起きているのかもしれないし、仕切りを全て越えれば、誰とでもこういう状態になれるのかもしれない。そこまでは鏡哉には判らなかったが、自分の思考がアレクサンドラに伝わり、同時に彼女の思考も自分に流れてきているのは感じる。
あの頃は、これが普通だった。自分の思考は自分だけのものではなく、全員分の思考が集まって、それでひとつだった。随分ともう、遠い昔のことのように感じるけれど。
「……もう、行かなきゃ」
その声に、アレクサンドラは鏡哉の腕を握っている手に力を籠めた。
「何処へ行くと言うんだ。自分の役目は判っているんだろう? それなら、お前は何処にも行かない筈だ。だってお前は、そのために生まれたんだから」
責めるような縋るような声に、鏡哉は自分の腕を掴むアレクサンドラの手にそっと触れた。
「君こそ、判っているでしょ? 僕は選んだから、行かないと」
「何を選ぶと言うんだ! お前が選べるのはいつだってちようだけじゃないか!」
とうとう叫び出したアレクサンドラに、しかし鏡哉は静かに言葉を続ける。
「そうだね。僕はそうだ。そうあるべき存在だ。……でも、僕は知ってしまった。だから、僕は選んだんだよ」
そう言って、鏡哉の手が、そっとアレクサンドラの手を外させる。抵抗されるかと思っていた鏡哉だったが、意外にも彼女の手は、呆気ないほどに簡単に解けた。
力なく俯いてしまったアレクサンドラを、少しだけ心配そうに見た鏡哉は、しかし拳を握ってから、彼女の横を抜けて再び進み始めた。
そうして、数歩を歩んだところで、その背にぽつりと声が投げかけられた。
「鏡哉」
名を呼ぶ声に、鏡哉は振り返らない。振り返らないけれど、その耳は確かに音を拾う。
「……私は、お前を許せない。ちようほどでないにしろ、お前のことは大切だと思っているけれど、それでも、許すことはできない。これから先、未来永劫に、私はお前を怨み、お前を呪うだろう」
言葉が、鏡哉の胸にずしりと圧し掛かる。それでも、鏡哉は歩みを止めなかった。振り返らなかった。
今にも潰れそうにも見えるのに、強い意思を持って歩み続けるその背に、アレクサンドラは何を思ったのか。
少しだけの沈黙を経て、彼女が言葉を零す。
「…………それでも、それでもお前があれを選ぶのなら、せめて、最低限幸福でいてくれ、鏡哉」
怨みもあろう。憎しみもあろう。悲しみも怒りも、間違いなく籠もっている。けれど、それでも、その声は優しかった。間違いなく、鏡哉を思う気持ちが籠められていた。
思わず止まりそうになった足を、鏡哉は無理矢理引きずるようにして動かす。そんな鏡哉に、アレクサンドラはもう何も言わなかった。
彼女の視線を振り切るようにして、鏡哉は進む。ひたひたと胸に迫る何かを振り払うように、鏡哉は歩いていく。
そうやって、暫く足を動かし続け、もうアレクサンドラからも見えないだろうほどに先へ進んだとき、また唐突に、何かを抜けるような感覚がした。
今なら判る。またひとつ、境界を越えたのだ。アレクサンドラがいる場所から、別の場所へと。
初めて見るその場所を、鏡哉はよく知っていた。
ああ、そうだ。ここはあの子の心の中だ。あの子の奥底の、閉じられた空間だ。
思わず立ち止まりかけたその脚を、しかし鏡哉は無理矢理動かした。そのまま、ずっと同じ景色が続いていく空間を、ただひたすらに歩み続ける。その足が一歩を踏むごとに、鏡哉の曖昧な姿は人の形をしていたあの頃へと戻っていき、そしてそれに呼応するように、鏡哉の中に失われた記憶たちが蘇ってくる。
自分が何なのか。どうして生まれ、何の為に生き続けたのか。
まるで泡が浮上するように次から次へと押し寄せる記憶たちが、どうしようもなく鏡哉を苛む。そのひとつひとつが零れて溢れ、鏡哉の胸の奥に鉛のように溜まっていく。きっと、本当は今すぐにでもこの脚を止めて、引き返すべきなのだ。それが自分に課された使命で、それだけが自分の存在意義だった。
けれど、
けれど、それでも鏡哉の脳裏に焼き付いているのは、燃えるようなあの炎だから。
引き返せと叫ぶ心を無視して、鏡哉は前へと進む。歪んだ世界を歩いていく。
そうやって、どれだけ歩いただろうか。ふと鏡哉は、自分の身体が何か膜のようなものをぬるりと抜けたような感覚を覚えた。そしてその直後、進む先に人影があることに気づく。
鏡哉の行く手を遮るようにして立っているその人は、鏡哉と同じ姿をしていた。いや、違う。とても似ているけれど、それは鏡哉ではない。
「……アレクサンドラ」
ぽつりと落ちた鏡哉の声に、人影――アレクサンドラが、驚いたような顔をして、それから、怒ったような泣き出しそうな、不思議な表情を浮かべた。
「全て思い出したんだな、鏡哉」
アレクサンドラの言葉に、鏡哉が頷く。
「僕は鏡哉。ちようを愛するために生まれた、ただの人格のひとつ。僕の役目は、無条件にあの子を愛し、何があってもあの子の傍にいてあげること。……でも、あの日ちようにちようの全部を明け渡されて、僕は耐えられなかったんだね。だから、アレクサンドラが僕の記憶の整理をしてくれていたんでしょう? ありがとう。たくさん迷惑を掛けて、ごめんね」
そう言った鏡哉が、申し訳なさそうな顔をしてアレクサンドラを見た。
そう、本来の鏡哉は、こうしてきちんと感情を表情に出すことができる存在だった。作り物じみた笑顔で他人と壁を作るような存在ではなかった。そんな有様では、ちようを愛することなんてできないから。
だが、あの日ちように全てを押し付けられてから、鏡哉は自分とちようを混同し、ちようの経験を全て自分のものだと誤認した結果、外からの刺激に耐えられるようにと、殻に閉じこもってしまったのだ。けれど、それももう終わりだ。鏡哉は自分を認識した。だから、上辺だけの笑顔で身を守る必要はもうない。
「……鏡哉は、少しだけ変わったな。前はもっと朗らかに笑っていたように記憶している」
そう言ったアレクサンドラは、何かから逃げているようだった。まるで、本題を口に出すのを厭い、無理矢理に適当な話題を捻り出しているかのようだ。
「そうだね。長い間ちようとして生きてきたから、僕自身も影響を受けてしまったんだと思う。でも、間違いなく僕は僕だよ」
穏やかな声に、アレクサンドラは少し押し黙ってから、再び口を開いた。
「ちようは、……その姿は、今、安定していないんだろう? ちようは大丈夫なのか? 私たちはウロに捕まったあとから、あまり記憶がないんだ。こうしてお前を前にして、ようやく何が起こったのか、なんとなく判るようにはなったんだが……」
アレクサンドラにしては珍しく、あまり秩序だっていない問いだ。だが、鏡哉はそれを指摘することはせず、ただその質問に答えを返す。
「多分、記憶がないのは、ウロがアレクサンドラたちを閉じ込めていたからだと思う。壁を作って遮断した、みたいな感じなのかな。ごめんね、僕も上手く説明できないんだけど、そういうことなんだと思うんだ。僕を見て僕に起こったことがなんとなく判ったのは、ウロが作った壁を僕が越えたから、じゃないかな」
「壁を越える?」
「エインストラは、境界を越えることができる生き物だから」
そう言った鏡哉は、どこか寂しそうな顔をしていた。それに気づかないふりをして、アレクサンドラは会話を続ける。
「……お前が境界を越えると、どうして私たちにお前の体験が伝わるんだ?」
「僕たちは、元々ひとつだったから。今は分かれてしまっているけど、それでも、仕切りを外せば伝わってしまうものもあるんだと思う」
僕も感覚的になんとなくそう感じるってだけなんだけど、と静かに答えた鏡哉に、アレクサンドラは鏡哉を見て、そして、くしゃりと顔を歪めた。
「…………私には、境界がどうこうだとか、そういうことは一切判らない」
「……うん」
「私たちは、ひとつなのに」
「……うん、そうだね。ずっと、そうだったね」
でも今は違うのだ、と。言外にそう伝える鏡哉に、アレクサンドラが鏡哉の腕を掴む。縋るようなその顔に、しかし鏡哉は、悲しさの滲む顔で、それでも穏やかに言葉を落とす。
「こうやってアレクサンドラと話して判ったよ。やっぱり、エインストラの力を持っているのは僕だけなんだね。多分、元々はちようのものだったのが、分かれたときに僕に帰属したんだ」
「……何故、何故お前なんだ。だって、この身体は、ちようのものなのに」
泣きそうな声に、鏡哉は少しの間だけ黙っていた。言おうか言うまいか迷って、そして、鏡哉は口を開く。
「……あの人が、エインストラなのは僕だと思ったから、じゃないかな」
その言葉に、アレクサンドラの表情が悲しみから怒りへと塗り替わる。いや、そんな単純なものではない。悲しみと憎しみと怒りと嘆きをぐちゃぐちゃに混ぜたような、そんな顔だった。
「一体何なんだあの男は! いきなり現れて! 私たちを引き裂いて! 挙句の果てに、お前のことを……!」
アレクサンドラの怒りは尤もだ。それは鏡哉もよく判る。鏡哉だって、立場が違えば同じように思っただろう。性質上ここまで憤ることはなかったかもしれないが、それでも、同じように悲しみや怒りを感じたことだろう。
「……うん。アレクサンドラが怒るのは判る。悲しいのも判るよ。……でも、今の君には、僕の思考が伝わっているんだよね」
今の鏡哉には、なんとなくだが、様々なものとの間にある隔たりを認識することができる。老婆の言葉を借りるなら、鏡哉のエインストラとしての目が開いているから、なのだろう。
だから、アレクサンドラとの間に何の仕切りもないことも、良く判った。そして本能的に、この状態は感覚や思考を共有しているに等しいと悟った。
元はひとつであった存在の仕切りを外した状態だから、こんな現象が起きているのかもしれないし、仕切りを全て越えれば、誰とでもこういう状態になれるのかもしれない。そこまでは鏡哉には判らなかったが、自分の思考がアレクサンドラに伝わり、同時に彼女の思考も自分に流れてきているのは感じる。
あの頃は、これが普通だった。自分の思考は自分だけのものではなく、全員分の思考が集まって、それでひとつだった。随分ともう、遠い昔のことのように感じるけれど。
「……もう、行かなきゃ」
その声に、アレクサンドラは鏡哉の腕を握っている手に力を籠めた。
「何処へ行くと言うんだ。自分の役目は判っているんだろう? それなら、お前は何処にも行かない筈だ。だってお前は、そのために生まれたんだから」
責めるような縋るような声に、鏡哉は自分の腕を掴むアレクサンドラの手にそっと触れた。
「君こそ、判っているでしょ? 僕は選んだから、行かないと」
「何を選ぶと言うんだ! お前が選べるのはいつだってちようだけじゃないか!」
とうとう叫び出したアレクサンドラに、しかし鏡哉は静かに言葉を続ける。
「そうだね。僕はそうだ。そうあるべき存在だ。……でも、僕は知ってしまった。だから、僕は選んだんだよ」
そう言って、鏡哉の手が、そっとアレクサンドラの手を外させる。抵抗されるかと思っていた鏡哉だったが、意外にも彼女の手は、呆気ないほどに簡単に解けた。
力なく俯いてしまったアレクサンドラを、少しだけ心配そうに見た鏡哉は、しかし拳を握ってから、彼女の横を抜けて再び進み始めた。
そうして、数歩を歩んだところで、その背にぽつりと声が投げかけられた。
「鏡哉」
名を呼ぶ声に、鏡哉は振り返らない。振り返らないけれど、その耳は確かに音を拾う。
「……私は、お前を許せない。ちようほどでないにしろ、お前のことは大切だと思っているけれど、それでも、許すことはできない。これから先、未来永劫に、私はお前を怨み、お前を呪うだろう」
言葉が、鏡哉の胸にずしりと圧し掛かる。それでも、鏡哉は歩みを止めなかった。振り返らなかった。
今にも潰れそうにも見えるのに、強い意思を持って歩み続けるその背に、アレクサンドラは何を思ったのか。
少しだけの沈黙を経て、彼女が言葉を零す。
「…………それでも、それでもお前があれを選ぶのなら、せめて、最低限幸福でいてくれ、鏡哉」
怨みもあろう。憎しみもあろう。悲しみも怒りも、間違いなく籠もっている。けれど、それでも、その声は優しかった。間違いなく、鏡哉を思う気持ちが籠められていた。
思わず止まりそうになった足を、鏡哉は無理矢理引きずるようにして動かす。そんな鏡哉に、アレクサンドラはもう何も言わなかった。
彼女の視線を振り切るようにして、鏡哉は進む。ひたひたと胸に迫る何かを振り払うように、鏡哉は歩いていく。
そうやって、暫く足を動かし続け、もうアレクサンドラからも見えないだろうほどに先へ進んだとき、また唐突に、何かを抜けるような感覚がした。
今なら判る。またひとつ、境界を越えたのだ。アレクサンドラがいる場所から、別の場所へと。
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