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第1章 かなしい蝶と煌炎の獅子
煌炎2
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フロア全体を回り、少年は買い物を終えて安堵の息を漏らした。特に、在庫が少なくなっていた緋色の染料を売り切れ前に買うことができたのは行幸だ。月一の常連となっているその店の緋色は発色が良く、日頃から幸運とは言い難い少年が店に辿り着く頃には、売り切れてしまっているということも少なくなかった。
今日の買い物は比較的上手くいった。足りないものは最低限買い足せたし、何よりも、一角獣の染料という稀少品まで購入できたのだ。おかげで、多少は残ると思っていた財布の中身がすっからかんだが、少年の心は満足感で溢れていた。
もうほとんど何を買うこともできないけれど、折角の市場である。美しいものがたくさん置いてあるこの場を、残金がないのを理由に去るのは少し勿体ない。少年はまだ染料のフロアしか見ていないが、他のフロアには色とりどりの反物や加工前の宝石、珍しい薬草の類や魔術道具に適した金属のほか、滅多に手に入ることのない食材などなど、あらゆるものが売りに出されているのだから。
人混みは気分の良いものではないけれど、綺麗なものに見惚れていればそこまで気にかかることでもないだろう。
帰宅しようと思える時間まで、明るい気分のまま市場を眺めて回ることができれば――そこまで考えて、ふと意識にひとりの男の姿が割り込んだ。姿といっても、その見た目は思い出そうにも曖昧で、どんな特徴であったかを口にすることもできないのだけれど。
そうだ、そういえば、あの男を連れてきているのだった。その事実を思い出して、少年は口元をマフラーに埋もれさせたまま、少しだけ口をへの字に曲げた。
あの、よく判らない男。何を考えているのかも一体何者なのかも、何が目的で付きまとってくるのかもさっぱりと判らず、また判りたくもないあの男は、別行動をしているとはいえ、現在一応仮にも少年の連れ添いなのだ。
中央の噴水で合流、だとか言っていただろうか。その時はさっさと買い物に行きたくて話半分にしか聞いていなかったが、よく考えてみれば場所は決めていても時間を決めていない気がする。集合するにしても、一体いつ噴水に向かえばあの男はいるのだろう。
今更気付いた落ち度に少年は考える。と言っても、この場合は果たして男と少年のどちらに落ち度があったのかは悩ましいところだ。それもあってか、少しの間考えて、けれど彼は、取り敢えず己の都合を優先させることにした。つまり、この夜市をもう少し回ってみよう、という結論に落ち着いたのだ。
万一男が既に噴水の所にいて少年のことを待っていようとも、それはそれで致し方のない話だ。荷物持ちをすると言っていた以上、少年に付き合うつもりがあったのだろうから、少年と一緒に市場を回るか、その場で少年を待っているかの違いだけで、少年のために時間を使うことに変わりはない。それならば、どちらだって構わないではないか。それに、なるべく噴水から近い店を回るようにすれば、男が探せば自分を見つけることができるだろう。
薄情かもしれないが、基本的に少年は他人に対して興味がない性質だ。まだ存命の相手に限れば、少年が身内と認識している存在は(本人に言ったら恐らく彼女は顔を聾めるだろうが)自分に刺青を教えてくれた己の師ひとりである。生きる術を与えてくれたその師匠に対しては素直に感謝し、大切な人だという認識はあるものの、それ以外の存在、例えば顧客だとかは、店に利益をもたらしてくれる存在として大事だとは思っていても、個人としてはほとんど認識していない。必要があるから覚えてはいるが、人というよりも客というモノを覚えているようなものだ。これで腕が半端ならば顰蹙のひとつも買うことがあるかもしれないが、幸いにも少年の腕は師匠が独り立ちを許し、放り出した程度には上等で、呼吸をするように表面を繕う少年は、そこまでの内面を客に悟らせることはなかった。
客商売として重要な相手ですらそうだというのに、件の男は客ですらないどころか半分邪魔をしに来ているようなものだ。まともな情があるわけもない。いっそ客にでもなってくれれば記号として薄っぺらに認識できるのだが、残念ながらそうはあってくれないあの男は、店にいるだけで異物感があって落ち着かない。そうかといって客になられたらそれはそれで、あのこちらを見透かしているような男と長く関わりを持つ羽目になるのは憂鬱なのだが……。
沈み込んできた気分を和らげようと、ため息を飲み込んだ少年は袋から小瓶を取り出した。中身は勿論、一角獣の粉が揺れる真珠色の染料である。
ああ、なんて綺麗だろう。
少年の冷めた目が、とろりととろける。彼にとって美しいものは素晴らしいものであり、それを見るだけで視界が狭まって、周囲の音が小さくなってしまう。虹のような真珠色は、そのまま使っても良いが、他の色に混ぜて使用しても見事に輝いてくれることだろう。
光りの加減で色を変える真珠をもっと楽しみたくて、少年は天井のライトへと小瓶を掲げる。煌めく色合いはきっと、このような人工の光ではなく太陽の下での方が、もっとずっと美しいに違いない。
そうやって心を癒していた少年は、ふと、小瓶の奥、高みにある天井に目が行った。何かが意識に引っかかったのだ。疑問を抱いたまま天井に視線をやり、眩しさをこらえるように左目を細めて見れば、白い天井に何か黒い線のようなものがあるのを見つけた。
(あれ、なんだろう……?)
少年が思うのと、何かが割れるような大きな音が響いたのが、同時だった。
あまりにも耳にうるさい音に少年の肩が跳ね上がり、そこからはあっという間だった。天井に亀裂が走り、今にも割れそうになる様子を見ていた少年にすら、何が起きているのかすぐに理解できなかったのだ。頭上になど一切気を配っていなかった他の人間たちは、よりこの状況に混乱しているようだった。
少年が現状把握に努めようとした、その時。
突如、形容しがたい耳障りな鳴き声のようなものが四方から響いた後、少し離れた場所で、魔物だ、と誰かが叫ぶ声が聞こえた。その声を皮切りに、騒ぎは爆発的に膨れ上がり、ほんの僅かの内に、気づけば夜市全域がパニックに陥っていた。
ある者は手に取っていた商品を放り投げ、またある者は店を放置して飛び出し、人々は誰もが安全な場所を求めて逃げ惑い出した。
少年は爆音のように耳を叩いた騒ぎに数瞬忘我に陥ったが、邪魔だと誰かから突き飛ばされた衝撃に、はっと我に返る。ぶつかってきた相手は既にどこにもいない。誰一人、その場に留まろうなどと考えている者などいはしなかった。
留まっていればいずれ死ぬ。
その明確な事実をようやく受けとめた少年は、小瓶を袋に戻ししっかりと抱え、周囲から数拍送れて、走り行く人々の群れへと飛び込んだ。
(ここにいたら駄目だ)
だが、衛兵を呼ぶ声や魔物の凶悪な鳴き声、それに混じって所々に上がる悲鳴に、恐怖に呑まれる群れは、各々の生存本能に従うばかりで周囲など欠片も見てはいない。我こそが先にこの場を抜け出すのだと押し合い圧し合い、統率の取れない動きは余計に互いの移動を阻害する。それは、命の危機に瀕しているという人々の恐れをさらに煽った。
屋根と共に天井のライトが壊れたため、明かりらしい明かりは、店舗独自に置いてあった、それもまだ破壊されず無事であるライトくらいだ。夜の闇が侵食する空間では、例えこのような状況でなくとも動きにくいだろうに、こうあっては少年がまともに動けるわけもない。
各地から人が集まる貿易祭は、ともすれば町ひとつ分ほどの人口がある。その量が混乱の下一度に動けば、それはもはや一種の暴動に近いものがあった。人の多さや場の広さも相まって、実際にどこが危険なのか、魔物はどこにいて何匹いるのかも判らない。起きていることの全容を誰もが理解できないことも、人々の恐怖心に拍車を掛けているのだろう。
押し潰されてしまいそうだ、と不安になるくらいの人混みの中、掬われそうな脚をなんとか地につけて進もうとするものの、歳のわりに小柄な少年の身体は容易く埋もれてしまう。何度も人にぶつかって、夜市の戦利品を落としそうになっては庇うように抱えなおすのを、何回繰り返しただろう。
怒号に近い叫び声が遠くからも近くからも聞こえてくる度に、少年の脚は疎みそうになってしまう。腹の奥底から冷える心地がして、心臓を締め付けるような感覚が脚の動きを鈍らせようとする。ただでさえ他者と接触するのが苦手で今の状況など悪夢以外の何物でもないというのに、そこに大声まで重なってしまっては、手足に冷たい汗が噴き出てくる。
大きな声は好きではない。特に、怒りが混じった声は母親を想起させ、自分に向けられたものでなくとも心臓に針が突き刺さるような気持ちがする。ましてや声の主が女性であれば、なおのこと息苦しくなってしまうのだ。
少年は早くここから抜け出たいと、その一心でひたすら足を動かす。下手に流れに逆らうよりも、流されてしまったほうが群集の動きに乗じて場を抜けられるだろうと、押し出されるように進んだ。
一体何がどうなっているのか、それが少年にはさっぱりわからずとも、ここは仮にもギルガルド王の膝元である。その上この貿易祭はリアンジュナイル一の大市場なのだから、警備兵は多く駐在している筈だ。
(取り敢えず、この市場から抜け出さえすれば、きっと大丈夫)
半ば自身に言い聞かせるようにそう思って、またなんとか前に一歩踏み出した足で地面を捉える。時折他人の腕やら足やらが無遠慮に身体を打つが、それは致し方ない。昔を思い出す衝撃が頭を打ったときは流石にびくりと目を瞑ったが、現状においては、幼い頃の恐怖よりも魔物への恐怖の方が勝った。
そう、頭を打たれた衝撃に閉じた目を、再び開くまでは。
目を開いた少年は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。だが直後、先ほどまでそこにはなかったはずの何かよく判らない汚泥のようなものや、赤を纏って宙空を飛んでいる何かが見えることと、見慣れた黒い布切れが視界の端へ消えていくのを認め、目に見えてざぁっと青褪める。
普段ならば見えない何かが見えるという事実が、己の右目が晒されてしまっているという状況を彼の頭に叩き込んできたのだ。
今しがた、誰かの腕だか手だかが少年の頭を打ったときに、同時に眼帯を攫っていってしまったのだろう。慌てて視界から消えた布きれを探して地面に視線を落とすも、見えるのは忙しなく動く人々の足ばかりで、どこにあるのか見当もつかない。
誰も気にしない。そもそもこの状況では、そんなものが落ちていることに気づく人間などいないだろう。少年の身体はそうしている間にも流され、眼帯を失くした場所から離れていく。
もしかすれば死ぬかもしれない、という事態に、普通ならば放っておけばいい話だ。命はひとつだが、眼帯なんて後でいくらでも買える。押されるまま流されるまま、出口を目指してしまえばいい。だが、
「――――ッ!」
許容範囲を越えた怖気に、しかし悲鳴は声にならず、その喉は引き攣り痛むばかりだった。
状況の理解が及んだ次の瞬間、少年は長い前髪と片手で咄嗟に右目を隠し、無理矢理に人の流れに逆らいだした。
それは濁流を遡るようなものである。今まで以上に腕が、足が、少年を強く打ち、邪魔な少年に対し、向かってくる視線はどれもこれもいっそ敵意すら孕んでいて、常の少年であれば貼りつけた笑みの下で酷く怯えてしまっていたことだろう。けれど今の少年にはどれもが目に入らない。そんなものよりももっと恐ろしい恐怖が全身を脅かしていて、それから逃げるためにただただ人の群れをもがくように泳ぐ。大切に抱えていた染料の入った袋を落とし、それが数多の人間に踏みにじられようとも、最早少年の意識の外だった。
心臓は胸を突き破ってきそうなくらいに早鐘を打ってぎりぎりと痛み、邪魔者をどかそうとする人々に右腕を弾かれるたび、目を隠す手が外れてしまいそうで、喉元まで吐潟物がせり上がってきた。勝手に打ち合わされてしまう歯はがちがちと音を立て、人混みにもまれた拍子に切ってしまった口内には、鈍い血の味が滲む。
流されまいと抗い、前へ前へという気持ちとは裏腹に、身体は思うように進んでくれはしなかった。奥に追いやられないようにするのが精一杯で、進めたかと思えば押し返される。それでも少年は止まらない。止まることなどできるわけもない。
そうして幾度蹴られ殴られたことだろう。急に周囲が広くなった少年は、ようやっと思うまま前に走ることができた。先程眼帯を落とした場所まで辿り着いてしまえば、目的の物は思っていたよりも簡単に見つけられた。明かりの乏しい空間に暗い色の眼帯は沈んでいて、溶けてなくなってしまうのではないかという恐怖に駆られ、走り寄った少年は殆ど転ぶようにして手に掴んだ。床に打ち付けられた膝だけでなく、全身いたるところに痛みがあるが、それより何より安堵が勝る。
踏みにじられ倒した布は随分と酷い有様になってしまっていたが、右目を隠すくらいの役目は果たしてくれるだろう。
「…………よかった……」
ぎゅうと目を瞑って、殆ど吐息のような声でそう呟き、震える手がくたびれきった眼帯を宝物でも抱えるかのように握り締める。
早く目を隠さなければ。深い安堵と未だ残る恐怖に身を沈めている少年は、それにばかり気を取られ、己の置かれた現状に、取り巻く周囲に何ひとつ意識がいっていなかった。変に静けさのある空間にも、己の口の中に滲む以上に強い鉄錆の臭いが近づいていることにも、何ひとつ。
不意に、質量のある何かが地面に転がる音が耳を掠めた。眼帯に触れている安堵感のまま、何気なしに音のした方に視線をやった少年は、恐怖に見開かれた双眸と目が合った。
それがなんであるかを認識するのに、瞬き三度ほどは要しただろうか。まるで物のように転がる塊が捩じ切られた人の頭であることを理解するのと、黒い何かがそれを踏み潰すのが、ほぼ同時だった。
呆然とする少年の前で、飛び散った脳漿やら血液やらが、汚れた地面をさらに汚す。踏まれた拍子に眼窩から飛び出した潰れかけの眼球が、勢いよく少年の頬に当たって落ちた。
黒い何かは、太い足だった。人間ではない何かの足が、誰かの生首だったものを楽しそうに何度も踏み躙り、げぎゃげぎゃと耳障りな鳴き声が、愉快げな響きを以って空気を揺らした。
目の前で起こっていることを理解できないままに、上の方から降ってくる声につられて、少年はほとんど反射的に顔を上げた。
少年の視線の先に広がっていた光景は、死、そのものだった。
鋭い牙の並んだ大口を開けて、そこから不愉快な声を撒き散らしながら、巨大な鎌のような右腕を赤黒いもので染め上げていた。僅かに残っている店の明かりに、鉄臭いそれが夥しい量の血液なのだと知れる。一体何人を斬り殺してきたのか、少年の胴より太い左腕の、その先の手に掴まれ幾つもぶら下がる人間だったものの残骸は、右腕の餌食になった人々なのだろう。ならば、巨木の幹のような胴体に絡みついている、吐き気さえする醜悪な汚泥もどきは、殺されたものたちの怨念かもしれない。左目には映らないということは、きっとそういうことだ。
(――にげ、ない、と)
他の人々はもうとっくに逃げてしまっている。周囲に人影はなく、あるのはただの肉塊だけ。強固な遮蔽物もなく、自ら群集より孤立した少年は、まったく絶好の獲物としか言いようがない。
血のような色の一つ目を厭らしく細めた死が、こてんと首を傾げた。ああ、これは捕食者の目だ。嗜虐者の瞳だ。よく向けられた、見慣れた眼差しだった。
逃げなければと、そう思うのに身体が思考についていかない。根でも生えてしまったかのようだ。逃げることはおろか、立ち上がることすらできない。
ゆっくりとした動作は、獲物に見せつけるためだろうか。もったいぶった動きで首の位置を戻すと、血に濡れた右腕を振り上げていく。それが視界に入っているのに、少年は動けない。
目の前の死は嗤っている。獲物の恐怖を啜って、可笑しそうに口を三日月に曲げて愉しんでいる。逃げなければ。死んではいけない。逃げて生きなければ。死を許容するわけにはいかないのだ。それは本能だろうか、それとも別の何かだっただろうか。少年にそれを判別する術はなかったけれど、身体の奥底で何かが強くそう命じている。
それでも尚、彼の身体は凍りついたままだった。ああ、駄目だ。これでは駄目だ。凶器が高くに掲げられていく。これでは死んでしまう、殺されてしまう。逃げられない。僕では逃げられない。僕では何ひとつできない。だから、
恐れと怯えで彩られた顔が、不意に色を失った。
潮が引いていくように表情が消え失せた少年の、纏う雰囲気がにわかに変わる。水分を多く含む瞳が急速に乾き、カッと音がしそうなほどに開いた瞳孔に、先程とはまったく別の色が乗った。
つい数瞬前までは、彼は確かに嬲られ屠られるのを待つだけの虫だったはずだ。だがこの瞬間、それは急激な変化を見せた。それが一体どういう変化なのかを判ずるには余りにも短い時間。しかし、纏う空気を変え、腕を振り上げた少年に、前に立つ魔物は何を感じたのか。獲物の反応を愉しむための動きが、不意に仕留めるためのそれになり、高く掲げられた刃が勢いよく少年に振り下ろされる――そのはずであった。
突如、割り込むようにして、凄まじい勢いで燃え盛る炎が横切った。
魔物を浚い焼き尽くしていく炎に、耳を塞ぎたくなるような醜い断末魔が響く。魔物を骨まで焼いてもなお猛り狂う豪炎は、少年の顔を熱気で焼きながら、その黒髪を吹き散らした。
永遠に続くかとすら思えた金属質な悲鳴は、しかし圧倒的な業火の前に灰と化した。すると、危うげに変質した少年の雰囲気が、まるで炎に焼き消されたかのように元のものへと戻っていく。そして、中途半端に片手を上げたまま、少年は再び硬直してしまった。そんな彼の黒髪を、なおも熱風が散らす。そのせいで覆い隠すものがなくなった右目が、熱気を孕んだ空気に惜しげなく晒された。
それは、疑いようもなく、異形の目だった。
左目は、確かに人間のそれだ。白くあるべき場所が白く、虹彩が黒い。だが、彼の右目はそうではなかった。左目と同じであったならば白くあるべき部分が黒に染まり、その虹彩も、およそ人にはあり得ない怪しい月のような金色をしている。
そんな人ならざる右目を持つ少年の前に、大きな背中が立ちふさがる。魔物との間に、まるで少年を守るように立つその背には、燃える炎そのもののように紅蓮に輝く長髪が揺れていた。比喩ではない。少年の目には、本当に炎のように光を放っているように見えたのだ。触れれば焼かれてしまいそうな、そんな赤色だ。
火の髪の持ち主の周囲を、小人のような赤い何かが踊るように駆け回り跳ね飛んで、その度にぱちりぱちりと鮮やかな火の手が上がる。瞬きの間も惜しいほどに眼前のそれを見つめる少年の顔はどこか恍惚として、爆ぜる炎に照らされていた。
「大丈夫か、店主殿!」
声と共に、燃えるような髪の男が振り返る。もしその声が少年の耳に入っていたならば、それに聞き覚えがあることに気づいたかもしれない。だが、今の少年の耳は音など認識していなかった。
振り返った男と、目が合った。それだけが全てだった。
それは焔だ。周囲を飛ぶ赤や、燃える髪などとは比べ物にならないような、比べるのもおこがましいほどの、煌炎である。太陽を溶かし込んだような金色の瞳の中に、圧倒的な熱量を湛え何もかもを灰燼と帰すような、鮮やかに燃え盛る焔が揺れている。
己を見つめ返す焔の瞳を認識した瞬間に、少年に意識の全てはそれに囚われた。焦げ臭い血の臭い、荒れた夜市の惨状、未だどこかで響く助けを呼ぶ声、身の毛がよだつ魔物の咆哮。そういった、ありとあらゆる無駄なものが、少年の意識から剥離する。削げ落ち剥げて、何も残らない。ただ目の前で煌めく炎以外には、何一つ。
少年はただひたすらに、すべてを忘れて、瞳の中の煌炎に見惚れていた。
――――ああ、なんて美しい。
「…………ぃ……」
意図せずこぼれた言葉は、誰に聞かせるためのものでもない。だが、少年の呟きを拾えなかったことを良しとしなかったらしい男は、小さく首を傾げた。
「今なんと?」
聞こえなかった、と膝を折って顔を寄せてきた男の声は、勿論届いていない。だが、至近距離まで近づいた焔の瞳に、少年は一層とろりとした表情をしてしまう。
「…………きれい……」
それはまるで、絶頂を迎えた娘の甘くとろけきった嬌声のようだった。金の瞳を見つめ、この世でこれ以上に美しいものなど存在しないとでもいうかのように紡がれた言葉に、数拍遅れて、男の目が大きく見開かれる。
途端、少年の目に映る紅蓮がぶわりと輝きを増した。思わず目を細めてしまいそうになるほどの光量が溢れ、男の髪が、瞳が、辺り一帯を灼き尽くしてしまいそうなくらいに爛々と輝く。至近距離でそれを見るや否や、そのあまりの美しさにとうとう脳が処理をしきれなくなり、電池が切れるように、少年は意識を手放してしまった。
今日の買い物は比較的上手くいった。足りないものは最低限買い足せたし、何よりも、一角獣の染料という稀少品まで購入できたのだ。おかげで、多少は残ると思っていた財布の中身がすっからかんだが、少年の心は満足感で溢れていた。
もうほとんど何を買うこともできないけれど、折角の市場である。美しいものがたくさん置いてあるこの場を、残金がないのを理由に去るのは少し勿体ない。少年はまだ染料のフロアしか見ていないが、他のフロアには色とりどりの反物や加工前の宝石、珍しい薬草の類や魔術道具に適した金属のほか、滅多に手に入ることのない食材などなど、あらゆるものが売りに出されているのだから。
人混みは気分の良いものではないけれど、綺麗なものに見惚れていればそこまで気にかかることでもないだろう。
帰宅しようと思える時間まで、明るい気分のまま市場を眺めて回ることができれば――そこまで考えて、ふと意識にひとりの男の姿が割り込んだ。姿といっても、その見た目は思い出そうにも曖昧で、どんな特徴であったかを口にすることもできないのだけれど。
そうだ、そういえば、あの男を連れてきているのだった。その事実を思い出して、少年は口元をマフラーに埋もれさせたまま、少しだけ口をへの字に曲げた。
あの、よく判らない男。何を考えているのかも一体何者なのかも、何が目的で付きまとってくるのかもさっぱりと判らず、また判りたくもないあの男は、別行動をしているとはいえ、現在一応仮にも少年の連れ添いなのだ。
中央の噴水で合流、だとか言っていただろうか。その時はさっさと買い物に行きたくて話半分にしか聞いていなかったが、よく考えてみれば場所は決めていても時間を決めていない気がする。集合するにしても、一体いつ噴水に向かえばあの男はいるのだろう。
今更気付いた落ち度に少年は考える。と言っても、この場合は果たして男と少年のどちらに落ち度があったのかは悩ましいところだ。それもあってか、少しの間考えて、けれど彼は、取り敢えず己の都合を優先させることにした。つまり、この夜市をもう少し回ってみよう、という結論に落ち着いたのだ。
万一男が既に噴水の所にいて少年のことを待っていようとも、それはそれで致し方のない話だ。荷物持ちをすると言っていた以上、少年に付き合うつもりがあったのだろうから、少年と一緒に市場を回るか、その場で少年を待っているかの違いだけで、少年のために時間を使うことに変わりはない。それならば、どちらだって構わないではないか。それに、なるべく噴水から近い店を回るようにすれば、男が探せば自分を見つけることができるだろう。
薄情かもしれないが、基本的に少年は他人に対して興味がない性質だ。まだ存命の相手に限れば、少年が身内と認識している存在は(本人に言ったら恐らく彼女は顔を聾めるだろうが)自分に刺青を教えてくれた己の師ひとりである。生きる術を与えてくれたその師匠に対しては素直に感謝し、大切な人だという認識はあるものの、それ以外の存在、例えば顧客だとかは、店に利益をもたらしてくれる存在として大事だとは思っていても、個人としてはほとんど認識していない。必要があるから覚えてはいるが、人というよりも客というモノを覚えているようなものだ。これで腕が半端ならば顰蹙のひとつも買うことがあるかもしれないが、幸いにも少年の腕は師匠が独り立ちを許し、放り出した程度には上等で、呼吸をするように表面を繕う少年は、そこまでの内面を客に悟らせることはなかった。
客商売として重要な相手ですらそうだというのに、件の男は客ですらないどころか半分邪魔をしに来ているようなものだ。まともな情があるわけもない。いっそ客にでもなってくれれば記号として薄っぺらに認識できるのだが、残念ながらそうはあってくれないあの男は、店にいるだけで異物感があって落ち着かない。そうかといって客になられたらそれはそれで、あのこちらを見透かしているような男と長く関わりを持つ羽目になるのは憂鬱なのだが……。
沈み込んできた気分を和らげようと、ため息を飲み込んだ少年は袋から小瓶を取り出した。中身は勿論、一角獣の粉が揺れる真珠色の染料である。
ああ、なんて綺麗だろう。
少年の冷めた目が、とろりととろける。彼にとって美しいものは素晴らしいものであり、それを見るだけで視界が狭まって、周囲の音が小さくなってしまう。虹のような真珠色は、そのまま使っても良いが、他の色に混ぜて使用しても見事に輝いてくれることだろう。
光りの加減で色を変える真珠をもっと楽しみたくて、少年は天井のライトへと小瓶を掲げる。煌めく色合いはきっと、このような人工の光ではなく太陽の下での方が、もっとずっと美しいに違いない。
そうやって心を癒していた少年は、ふと、小瓶の奥、高みにある天井に目が行った。何かが意識に引っかかったのだ。疑問を抱いたまま天井に視線をやり、眩しさをこらえるように左目を細めて見れば、白い天井に何か黒い線のようなものがあるのを見つけた。
(あれ、なんだろう……?)
少年が思うのと、何かが割れるような大きな音が響いたのが、同時だった。
あまりにも耳にうるさい音に少年の肩が跳ね上がり、そこからはあっという間だった。天井に亀裂が走り、今にも割れそうになる様子を見ていた少年にすら、何が起きているのかすぐに理解できなかったのだ。頭上になど一切気を配っていなかった他の人間たちは、よりこの状況に混乱しているようだった。
少年が現状把握に努めようとした、その時。
突如、形容しがたい耳障りな鳴き声のようなものが四方から響いた後、少し離れた場所で、魔物だ、と誰かが叫ぶ声が聞こえた。その声を皮切りに、騒ぎは爆発的に膨れ上がり、ほんの僅かの内に、気づけば夜市全域がパニックに陥っていた。
ある者は手に取っていた商品を放り投げ、またある者は店を放置して飛び出し、人々は誰もが安全な場所を求めて逃げ惑い出した。
少年は爆音のように耳を叩いた騒ぎに数瞬忘我に陥ったが、邪魔だと誰かから突き飛ばされた衝撃に、はっと我に返る。ぶつかってきた相手は既にどこにもいない。誰一人、その場に留まろうなどと考えている者などいはしなかった。
留まっていればいずれ死ぬ。
その明確な事実をようやく受けとめた少年は、小瓶を袋に戻ししっかりと抱え、周囲から数拍送れて、走り行く人々の群れへと飛び込んだ。
(ここにいたら駄目だ)
だが、衛兵を呼ぶ声や魔物の凶悪な鳴き声、それに混じって所々に上がる悲鳴に、恐怖に呑まれる群れは、各々の生存本能に従うばかりで周囲など欠片も見てはいない。我こそが先にこの場を抜け出すのだと押し合い圧し合い、統率の取れない動きは余計に互いの移動を阻害する。それは、命の危機に瀕しているという人々の恐れをさらに煽った。
屋根と共に天井のライトが壊れたため、明かりらしい明かりは、店舗独自に置いてあった、それもまだ破壊されず無事であるライトくらいだ。夜の闇が侵食する空間では、例えこのような状況でなくとも動きにくいだろうに、こうあっては少年がまともに動けるわけもない。
各地から人が集まる貿易祭は、ともすれば町ひとつ分ほどの人口がある。その量が混乱の下一度に動けば、それはもはや一種の暴動に近いものがあった。人の多さや場の広さも相まって、実際にどこが危険なのか、魔物はどこにいて何匹いるのかも判らない。起きていることの全容を誰もが理解できないことも、人々の恐怖心に拍車を掛けているのだろう。
押し潰されてしまいそうだ、と不安になるくらいの人混みの中、掬われそうな脚をなんとか地につけて進もうとするものの、歳のわりに小柄な少年の身体は容易く埋もれてしまう。何度も人にぶつかって、夜市の戦利品を落としそうになっては庇うように抱えなおすのを、何回繰り返しただろう。
怒号に近い叫び声が遠くからも近くからも聞こえてくる度に、少年の脚は疎みそうになってしまう。腹の奥底から冷える心地がして、心臓を締め付けるような感覚が脚の動きを鈍らせようとする。ただでさえ他者と接触するのが苦手で今の状況など悪夢以外の何物でもないというのに、そこに大声まで重なってしまっては、手足に冷たい汗が噴き出てくる。
大きな声は好きではない。特に、怒りが混じった声は母親を想起させ、自分に向けられたものでなくとも心臓に針が突き刺さるような気持ちがする。ましてや声の主が女性であれば、なおのこと息苦しくなってしまうのだ。
少年は早くここから抜け出たいと、その一心でひたすら足を動かす。下手に流れに逆らうよりも、流されてしまったほうが群集の動きに乗じて場を抜けられるだろうと、押し出されるように進んだ。
一体何がどうなっているのか、それが少年にはさっぱりわからずとも、ここは仮にもギルガルド王の膝元である。その上この貿易祭はリアンジュナイル一の大市場なのだから、警備兵は多く駐在している筈だ。
(取り敢えず、この市場から抜け出さえすれば、きっと大丈夫)
半ば自身に言い聞かせるようにそう思って、またなんとか前に一歩踏み出した足で地面を捉える。時折他人の腕やら足やらが無遠慮に身体を打つが、それは致し方ない。昔を思い出す衝撃が頭を打ったときは流石にびくりと目を瞑ったが、現状においては、幼い頃の恐怖よりも魔物への恐怖の方が勝った。
そう、頭を打たれた衝撃に閉じた目を、再び開くまでは。
目を開いた少年は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。だが直後、先ほどまでそこにはなかったはずの何かよく判らない汚泥のようなものや、赤を纏って宙空を飛んでいる何かが見えることと、見慣れた黒い布切れが視界の端へ消えていくのを認め、目に見えてざぁっと青褪める。
普段ならば見えない何かが見えるという事実が、己の右目が晒されてしまっているという状況を彼の頭に叩き込んできたのだ。
今しがた、誰かの腕だか手だかが少年の頭を打ったときに、同時に眼帯を攫っていってしまったのだろう。慌てて視界から消えた布きれを探して地面に視線を落とすも、見えるのは忙しなく動く人々の足ばかりで、どこにあるのか見当もつかない。
誰も気にしない。そもそもこの状況では、そんなものが落ちていることに気づく人間などいないだろう。少年の身体はそうしている間にも流され、眼帯を失くした場所から離れていく。
もしかすれば死ぬかもしれない、という事態に、普通ならば放っておけばいい話だ。命はひとつだが、眼帯なんて後でいくらでも買える。押されるまま流されるまま、出口を目指してしまえばいい。だが、
「――――ッ!」
許容範囲を越えた怖気に、しかし悲鳴は声にならず、その喉は引き攣り痛むばかりだった。
状況の理解が及んだ次の瞬間、少年は長い前髪と片手で咄嗟に右目を隠し、無理矢理に人の流れに逆らいだした。
それは濁流を遡るようなものである。今まで以上に腕が、足が、少年を強く打ち、邪魔な少年に対し、向かってくる視線はどれもこれもいっそ敵意すら孕んでいて、常の少年であれば貼りつけた笑みの下で酷く怯えてしまっていたことだろう。けれど今の少年にはどれもが目に入らない。そんなものよりももっと恐ろしい恐怖が全身を脅かしていて、それから逃げるためにただただ人の群れをもがくように泳ぐ。大切に抱えていた染料の入った袋を落とし、それが数多の人間に踏みにじられようとも、最早少年の意識の外だった。
心臓は胸を突き破ってきそうなくらいに早鐘を打ってぎりぎりと痛み、邪魔者をどかそうとする人々に右腕を弾かれるたび、目を隠す手が外れてしまいそうで、喉元まで吐潟物がせり上がってきた。勝手に打ち合わされてしまう歯はがちがちと音を立て、人混みにもまれた拍子に切ってしまった口内には、鈍い血の味が滲む。
流されまいと抗い、前へ前へという気持ちとは裏腹に、身体は思うように進んでくれはしなかった。奥に追いやられないようにするのが精一杯で、進めたかと思えば押し返される。それでも少年は止まらない。止まることなどできるわけもない。
そうして幾度蹴られ殴られたことだろう。急に周囲が広くなった少年は、ようやっと思うまま前に走ることができた。先程眼帯を落とした場所まで辿り着いてしまえば、目的の物は思っていたよりも簡単に見つけられた。明かりの乏しい空間に暗い色の眼帯は沈んでいて、溶けてなくなってしまうのではないかという恐怖に駆られ、走り寄った少年は殆ど転ぶようにして手に掴んだ。床に打ち付けられた膝だけでなく、全身いたるところに痛みがあるが、それより何より安堵が勝る。
踏みにじられ倒した布は随分と酷い有様になってしまっていたが、右目を隠すくらいの役目は果たしてくれるだろう。
「…………よかった……」
ぎゅうと目を瞑って、殆ど吐息のような声でそう呟き、震える手がくたびれきった眼帯を宝物でも抱えるかのように握り締める。
早く目を隠さなければ。深い安堵と未だ残る恐怖に身を沈めている少年は、それにばかり気を取られ、己の置かれた現状に、取り巻く周囲に何ひとつ意識がいっていなかった。変に静けさのある空間にも、己の口の中に滲む以上に強い鉄錆の臭いが近づいていることにも、何ひとつ。
不意に、質量のある何かが地面に転がる音が耳を掠めた。眼帯に触れている安堵感のまま、何気なしに音のした方に視線をやった少年は、恐怖に見開かれた双眸と目が合った。
それがなんであるかを認識するのに、瞬き三度ほどは要しただろうか。まるで物のように転がる塊が捩じ切られた人の頭であることを理解するのと、黒い何かがそれを踏み潰すのが、ほぼ同時だった。
呆然とする少年の前で、飛び散った脳漿やら血液やらが、汚れた地面をさらに汚す。踏まれた拍子に眼窩から飛び出した潰れかけの眼球が、勢いよく少年の頬に当たって落ちた。
黒い何かは、太い足だった。人間ではない何かの足が、誰かの生首だったものを楽しそうに何度も踏み躙り、げぎゃげぎゃと耳障りな鳴き声が、愉快げな響きを以って空気を揺らした。
目の前で起こっていることを理解できないままに、上の方から降ってくる声につられて、少年はほとんど反射的に顔を上げた。
少年の視線の先に広がっていた光景は、死、そのものだった。
鋭い牙の並んだ大口を開けて、そこから不愉快な声を撒き散らしながら、巨大な鎌のような右腕を赤黒いもので染め上げていた。僅かに残っている店の明かりに、鉄臭いそれが夥しい量の血液なのだと知れる。一体何人を斬り殺してきたのか、少年の胴より太い左腕の、その先の手に掴まれ幾つもぶら下がる人間だったものの残骸は、右腕の餌食になった人々なのだろう。ならば、巨木の幹のような胴体に絡みついている、吐き気さえする醜悪な汚泥もどきは、殺されたものたちの怨念かもしれない。左目には映らないということは、きっとそういうことだ。
(――にげ、ない、と)
他の人々はもうとっくに逃げてしまっている。周囲に人影はなく、あるのはただの肉塊だけ。強固な遮蔽物もなく、自ら群集より孤立した少年は、まったく絶好の獲物としか言いようがない。
血のような色の一つ目を厭らしく細めた死が、こてんと首を傾げた。ああ、これは捕食者の目だ。嗜虐者の瞳だ。よく向けられた、見慣れた眼差しだった。
逃げなければと、そう思うのに身体が思考についていかない。根でも生えてしまったかのようだ。逃げることはおろか、立ち上がることすらできない。
ゆっくりとした動作は、獲物に見せつけるためだろうか。もったいぶった動きで首の位置を戻すと、血に濡れた右腕を振り上げていく。それが視界に入っているのに、少年は動けない。
目の前の死は嗤っている。獲物の恐怖を啜って、可笑しそうに口を三日月に曲げて愉しんでいる。逃げなければ。死んではいけない。逃げて生きなければ。死を許容するわけにはいかないのだ。それは本能だろうか、それとも別の何かだっただろうか。少年にそれを判別する術はなかったけれど、身体の奥底で何かが強くそう命じている。
それでも尚、彼の身体は凍りついたままだった。ああ、駄目だ。これでは駄目だ。凶器が高くに掲げられていく。これでは死んでしまう、殺されてしまう。逃げられない。僕では逃げられない。僕では何ひとつできない。だから、
恐れと怯えで彩られた顔が、不意に色を失った。
潮が引いていくように表情が消え失せた少年の、纏う雰囲気がにわかに変わる。水分を多く含む瞳が急速に乾き、カッと音がしそうなほどに開いた瞳孔に、先程とはまったく別の色が乗った。
つい数瞬前までは、彼は確かに嬲られ屠られるのを待つだけの虫だったはずだ。だがこの瞬間、それは急激な変化を見せた。それが一体どういう変化なのかを判ずるには余りにも短い時間。しかし、纏う空気を変え、腕を振り上げた少年に、前に立つ魔物は何を感じたのか。獲物の反応を愉しむための動きが、不意に仕留めるためのそれになり、高く掲げられた刃が勢いよく少年に振り下ろされる――そのはずであった。
突如、割り込むようにして、凄まじい勢いで燃え盛る炎が横切った。
魔物を浚い焼き尽くしていく炎に、耳を塞ぎたくなるような醜い断末魔が響く。魔物を骨まで焼いてもなお猛り狂う豪炎は、少年の顔を熱気で焼きながら、その黒髪を吹き散らした。
永遠に続くかとすら思えた金属質な悲鳴は、しかし圧倒的な業火の前に灰と化した。すると、危うげに変質した少年の雰囲気が、まるで炎に焼き消されたかのように元のものへと戻っていく。そして、中途半端に片手を上げたまま、少年は再び硬直してしまった。そんな彼の黒髪を、なおも熱風が散らす。そのせいで覆い隠すものがなくなった右目が、熱気を孕んだ空気に惜しげなく晒された。
それは、疑いようもなく、異形の目だった。
左目は、確かに人間のそれだ。白くあるべき場所が白く、虹彩が黒い。だが、彼の右目はそうではなかった。左目と同じであったならば白くあるべき部分が黒に染まり、その虹彩も、およそ人にはあり得ない怪しい月のような金色をしている。
そんな人ならざる右目を持つ少年の前に、大きな背中が立ちふさがる。魔物との間に、まるで少年を守るように立つその背には、燃える炎そのもののように紅蓮に輝く長髪が揺れていた。比喩ではない。少年の目には、本当に炎のように光を放っているように見えたのだ。触れれば焼かれてしまいそうな、そんな赤色だ。
火の髪の持ち主の周囲を、小人のような赤い何かが踊るように駆け回り跳ね飛んで、その度にぱちりぱちりと鮮やかな火の手が上がる。瞬きの間も惜しいほどに眼前のそれを見つめる少年の顔はどこか恍惚として、爆ぜる炎に照らされていた。
「大丈夫か、店主殿!」
声と共に、燃えるような髪の男が振り返る。もしその声が少年の耳に入っていたならば、それに聞き覚えがあることに気づいたかもしれない。だが、今の少年の耳は音など認識していなかった。
振り返った男と、目が合った。それだけが全てだった。
それは焔だ。周囲を飛ぶ赤や、燃える髪などとは比べ物にならないような、比べるのもおこがましいほどの、煌炎である。太陽を溶かし込んだような金色の瞳の中に、圧倒的な熱量を湛え何もかもを灰燼と帰すような、鮮やかに燃え盛る焔が揺れている。
己を見つめ返す焔の瞳を認識した瞬間に、少年に意識の全てはそれに囚われた。焦げ臭い血の臭い、荒れた夜市の惨状、未だどこかで響く助けを呼ぶ声、身の毛がよだつ魔物の咆哮。そういった、ありとあらゆる無駄なものが、少年の意識から剥離する。削げ落ち剥げて、何も残らない。ただ目の前で煌めく炎以外には、何一つ。
少年はただひたすらに、すべてを忘れて、瞳の中の煌炎に見惚れていた。
――――ああ、なんて美しい。
「…………ぃ……」
意図せずこぼれた言葉は、誰に聞かせるためのものでもない。だが、少年の呟きを拾えなかったことを良しとしなかったらしい男は、小さく首を傾げた。
「今なんと?」
聞こえなかった、と膝を折って顔を寄せてきた男の声は、勿論届いていない。だが、至近距離まで近づいた焔の瞳に、少年は一層とろりとした表情をしてしまう。
「…………きれい……」
それはまるで、絶頂を迎えた娘の甘くとろけきった嬌声のようだった。金の瞳を見つめ、この世でこれ以上に美しいものなど存在しないとでもいうかのように紡がれた言葉に、数拍遅れて、男の目が大きく見開かれる。
途端、少年の目に映る紅蓮がぶわりと輝きを増した。思わず目を細めてしまいそうになるほどの光量が溢れ、男の髪が、瞳が、辺り一帯を灼き尽くしてしまいそうなくらいに爛々と輝く。至近距離でそれを見るや否や、そのあまりの美しさにとうとう脳が処理をしきれなくなり、電池が切れるように、少年は意識を手放してしまった。
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