9 / 147
第1章 かなしい蝶と煌炎の獅子
煌炎3
しおりを挟む
「…………きれい……」
とろけるような声で呟かれた言葉の意味を、男は最初理解できなかった。
綺麗。それが美しいという意味合いの言葉であると認識し、同時に何に対して抱いたものなのかと内心で首を傾げる。
魔物が溢れる戦火にあって美しいものとは何だ。ここにはそんなものは存在しない。少なくとも、一般的に美しいと認識されるだろうものは、何ひとつない。ならば、この少年の言う美しいものとは。
そこまで考えたところで、男は少年の色違いの瞳に己が映っていることに気づいた。美しいといった彼は、恍惚とした表情で、真っすぐに男を見つめている。
では、美しいのは私か。
その可能性に至り、それが紛れもない事実だと受け止めた瞬間、男は身体の奥底からこれまでに経験のない何かが湧き上がるのを感じた。確かな熱を孕んで全身を駆け巡るそれに、彼は生まれて初めて心の底から驚き、目を見開く。
こんなものは知らない。何故なら男の感情は、そのことごとくが欠落しているからだ。いや、欠落という表現は正しくない。男の感情は欠落しているのではなく、生まれる前から生まれるべきではないとされ、不要な廃棄物として処分されていた。
産声を上げることすら許されないそれは、しかし他者にそうあれと強制されたものではない。男自らが、他でもない己が生きるために、全ての感情の誕生を拒み続けていたのだった。代わりに男は、一般の感性であれば喜びを感じるであろう時には喜びの表情を、悲しみを感じるであろう時には悲しみの表情を浮かべるようにしている。幼い頃は、意識してその時々に応じた表情をしようと努めなければいけなくて随分疲弊したものだったが、今はもうすっかり慣れてしまった。それを証拠に、最早男が意識をせずとも冷静な脳がその場に適した感情を機械的に判断し、必要なときに必要な表情を用意し伝達してくれている。
故に、男が本心から何かを感じたことは一度もない。何故なら彼は、魂が抱く真の感情が己の命を脅かすものだと本能的に悟っていた。感情の欠片でも発露してしまえば、この魂は自らの器を焼き尽くしてしまうと、生存本能が知っていた。男自身がそれを認識することはないが、本能は確かに知っていたのだ。
だがどうだ。今男の全身を駆け、満たしているそれは、確かに心の底から生まれた本当の感情だった。己が生きるために何を捨ててでも誕生を拒むべきだった感情が、生まれ落ちてしまったのだ。
これは男も少年も知らない事実。少年の異形の瞳が男の本質、魂そのものを見透かして溢れた純粋すぎるまでの賛美の言葉が、男の魂に届いてしまったが故に生じてしまった、想定し得なかった事態。
己自身にすら隠し続けていた本当を、こんなにも簡単に見透かして。男すらも知らない自分の本質を、こんなにも美しいと讃えて。
それは、男がこれまで浴びて来た薄っぺらな上辺だけの言葉とも違うし、多くの人々から向けられる信仰にも似た崇拝の言葉とも違う。こんなにも純粋な、たったひとつの生命に対する言祝ぎなど、男はただの一度も受けたことがない。
そして男は気づいてしまう。己の全身を駆ける、いっそ熱いほどの温度を孕んだこれが、歓喜であると。
美しいと言われた。この身が、この魂が、もしかするとこの生き方すらも、世界中の何よりも尊く美しいものだと。
その瞬間、男の身を巡る熱が弾けた。赤銅の髪がみるみる内に毛先から色を変え、夜闇に煌めく炎のような不思議な色を伴って輝き出す。太陽を滲ませたような金の双眸はよりいっそう光を強め、揺らぐ橙色は燐光を放って少年を見つめ返した。
男の明らかな変質に、異形の瞳は何を見たのだろうか。一際大きく目を見開いた少年は、突然力を失ったようにかくりと傾いた。そのまま地面にぶつかりそうになった小さな身体を、男がそっと支えるように抱き寄せる。
少年の顔を見れば、その瞼は閉ざされており、意識を失っているようだった。
「……私は、そんなにも美しいだろうか?」
男の大きな手がするりと少年の頬を滑る。
「そうか。美しいか」
男の髪から、足元から、ふわりふわりと炎が生じ、衣のように揺らぎ始める。それに呼応するように、周囲の火霊たちがぱちぱちと火を弾けさせた。それはまるで何かの誕生を祝う神聖な儀式のように、風に舞う火の粉たちが踊っている。
「お前、名はなんと言ったか」
すぐ近くで魔物の声が聞こえたような気もしたが、男にはそんなくだらないことに意識をやる余裕などなかった。それよりも、今腕に抱いている子の名前を記憶から洗い出すことの方が優先されるべきなのだ。
男が命令どころか意識もしていないのに、身に纏う炎が意思を持ったかのように動いても。それが男を殺そうと向かってきた魔物を焼き払っても。そんなことは些末な出来事にしかすぎなかった。自分をこの魂ごと愛してくれた少年の名に比べれば、そんなもの。
時間にして瞬き数度程度の間だったのだろう。だが、その時間が途方もなく長いもののように感じた。そして、とうとう男は、その機械じみて精巧な記憶から答えを割り出す。そうだ、この幼い店主の名前は、
「……鏡哉」
甘く蕩けきった声で、名が紡がれた。確かな音で発されたそれは、少年と男に何をもたらしただろうか。それは、少年はおろか、男すらも知らないことだった。
とろけるような声で呟かれた言葉の意味を、男は最初理解できなかった。
綺麗。それが美しいという意味合いの言葉であると認識し、同時に何に対して抱いたものなのかと内心で首を傾げる。
魔物が溢れる戦火にあって美しいものとは何だ。ここにはそんなものは存在しない。少なくとも、一般的に美しいと認識されるだろうものは、何ひとつない。ならば、この少年の言う美しいものとは。
そこまで考えたところで、男は少年の色違いの瞳に己が映っていることに気づいた。美しいといった彼は、恍惚とした表情で、真っすぐに男を見つめている。
では、美しいのは私か。
その可能性に至り、それが紛れもない事実だと受け止めた瞬間、男は身体の奥底からこれまでに経験のない何かが湧き上がるのを感じた。確かな熱を孕んで全身を駆け巡るそれに、彼は生まれて初めて心の底から驚き、目を見開く。
こんなものは知らない。何故なら男の感情は、そのことごとくが欠落しているからだ。いや、欠落という表現は正しくない。男の感情は欠落しているのではなく、生まれる前から生まれるべきではないとされ、不要な廃棄物として処分されていた。
産声を上げることすら許されないそれは、しかし他者にそうあれと強制されたものではない。男自らが、他でもない己が生きるために、全ての感情の誕生を拒み続けていたのだった。代わりに男は、一般の感性であれば喜びを感じるであろう時には喜びの表情を、悲しみを感じるであろう時には悲しみの表情を浮かべるようにしている。幼い頃は、意識してその時々に応じた表情をしようと努めなければいけなくて随分疲弊したものだったが、今はもうすっかり慣れてしまった。それを証拠に、最早男が意識をせずとも冷静な脳がその場に適した感情を機械的に判断し、必要なときに必要な表情を用意し伝達してくれている。
故に、男が本心から何かを感じたことは一度もない。何故なら彼は、魂が抱く真の感情が己の命を脅かすものだと本能的に悟っていた。感情の欠片でも発露してしまえば、この魂は自らの器を焼き尽くしてしまうと、生存本能が知っていた。男自身がそれを認識することはないが、本能は確かに知っていたのだ。
だがどうだ。今男の全身を駆け、満たしているそれは、確かに心の底から生まれた本当の感情だった。己が生きるために何を捨ててでも誕生を拒むべきだった感情が、生まれ落ちてしまったのだ。
これは男も少年も知らない事実。少年の異形の瞳が男の本質、魂そのものを見透かして溢れた純粋すぎるまでの賛美の言葉が、男の魂に届いてしまったが故に生じてしまった、想定し得なかった事態。
己自身にすら隠し続けていた本当を、こんなにも簡単に見透かして。男すらも知らない自分の本質を、こんなにも美しいと讃えて。
それは、男がこれまで浴びて来た薄っぺらな上辺だけの言葉とも違うし、多くの人々から向けられる信仰にも似た崇拝の言葉とも違う。こんなにも純粋な、たったひとつの生命に対する言祝ぎなど、男はただの一度も受けたことがない。
そして男は気づいてしまう。己の全身を駆ける、いっそ熱いほどの温度を孕んだこれが、歓喜であると。
美しいと言われた。この身が、この魂が、もしかするとこの生き方すらも、世界中の何よりも尊く美しいものだと。
その瞬間、男の身を巡る熱が弾けた。赤銅の髪がみるみる内に毛先から色を変え、夜闇に煌めく炎のような不思議な色を伴って輝き出す。太陽を滲ませたような金の双眸はよりいっそう光を強め、揺らぐ橙色は燐光を放って少年を見つめ返した。
男の明らかな変質に、異形の瞳は何を見たのだろうか。一際大きく目を見開いた少年は、突然力を失ったようにかくりと傾いた。そのまま地面にぶつかりそうになった小さな身体を、男がそっと支えるように抱き寄せる。
少年の顔を見れば、その瞼は閉ざされており、意識を失っているようだった。
「……私は、そんなにも美しいだろうか?」
男の大きな手がするりと少年の頬を滑る。
「そうか。美しいか」
男の髪から、足元から、ふわりふわりと炎が生じ、衣のように揺らぎ始める。それに呼応するように、周囲の火霊たちがぱちぱちと火を弾けさせた。それはまるで何かの誕生を祝う神聖な儀式のように、風に舞う火の粉たちが踊っている。
「お前、名はなんと言ったか」
すぐ近くで魔物の声が聞こえたような気もしたが、男にはそんなくだらないことに意識をやる余裕などなかった。それよりも、今腕に抱いている子の名前を記憶から洗い出すことの方が優先されるべきなのだ。
男が命令どころか意識もしていないのに、身に纏う炎が意思を持ったかのように動いても。それが男を殺そうと向かってきた魔物を焼き払っても。そんなことは些末な出来事にしかすぎなかった。自分をこの魂ごと愛してくれた少年の名に比べれば、そんなもの。
時間にして瞬き数度程度の間だったのだろう。だが、その時間が途方もなく長いもののように感じた。そして、とうとう男は、その機械じみて精巧な記憶から答えを割り出す。そうだ、この幼い店主の名前は、
「……鏡哉」
甘く蕩けきった声で、名が紡がれた。確かな音で発されたそれは、少年と男に何をもたらしただろうか。それは、少年はおろか、男すらも知らないことだった。
6
あなたにおすすめの小説
雪解けを待つ森で ―スヴェル森の鎮魂歌(レクイエム)―
なの
BL
百年に一度、森の魔物へ生贄を捧げる村。
その年の供物に選ばれたのは、誰にも必要とされなかった孤児のアシェルだった。
死を覚悟して踏み入れた森の奥で、彼は古の守護者である獣人・ヴァルと出会う。
かつて人に裏切られ、心を閉ざしたヴァル。
そして、孤独だったアシェル。
凍てつく森での暮らしは、二人の運命を少しずつ溶かしていく。
だが、古い呪いは再び動き出し、燃え盛る炎が森と二人を飲み込もうとしていた。
生贄の少年と孤独な獣が紡ぐ、絶望の果てにある再生と愛のファンタジー
虐げられている魔術師少年、悪魔召喚に成功したところ国家転覆にも成功する
あかのゆりこ
BL
主人公のグレン・クランストンは天才魔術師だ。ある日、失われた魔術の復活に成功し、悪魔を召喚する。その悪魔は愛と性の悪魔「ドーヴィ」と名乗り、グレンに契約の代償としてまさかの「口づけ」を提示してきた。
領民を守るため、王家に囚われた姉を救うため、グレンは致し方なく自分の唇(もちろん未使用)を差し出すことになる。
***
王家に虐げられて不遇な立場のトラウマ持ち不幸属性主人公がスパダリ系悪魔に溺愛されて幸せになるコメディの皮を被ったそこそこシリアスなお話です。
・ハピエン
・CP左右固定(リバありません)
・三角関係及び当て馬キャラなし(相手違いありません)
です。
べろちゅーすらないキスだけの健全ピュアピュアなお付き合いをお楽しみください。
***
2024.10.18 第二章開幕にあたり、第一章の2話~3話の間に加筆を行いました。小数点付きの話が追加分ですが、別に読まなくても問題はありません。
猫カフェの溺愛契約〜獣人の甘い約束〜
なの
BL
人見知りの悠月――ゆづきにとって、叔父が営む保護猫カフェ「ニャンコの隠れ家」だけが心の居場所だった。
そんな悠月には昔から猫の言葉がわかる――という特殊な能力があった。
しかし経営難で閉店の危機に……
愛する猫たちとの別れが迫る中、運命を変える男が現れた。
猫のような美しい瞳を持つ謎の客・玲音――れお。
彼が差し出したのは「店を救う代わりに、お前と契約したい」という甘い誘惑。
契約のはずが、いつしか年の差を超えた溺愛に包まれて――
甘々すぎる生活に、だんだんと心が溶けていく悠月。
だけど玲音には秘密があった。
満月の夜に現れる獣の姿。猫たちだけが知る彼の正体、そして命をかけた契約の真実
「君を守るためなら、俺は何でもする」
これは愛なのか契約だけなのか……
すべてを賭けた禁断の恋の行方は?
猫たちが見守る小さなカフェで紡がれる、奇跡のハッピーエンド。
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
BL
俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
ノリで付き合っただけなのに、別れてくれなくて詰んでる
cheeery
BL
告白23連敗中の高校二年生・浅海凪。失恋のショックと友人たちの悪ノリから、クラス一のモテ男で親友、久遠碧斗に勢いで「付き合うか」と言ってしまう。冗談で済むと思いきや、碧斗は「いいよ」とあっさり承諾し本気で付き合うことになってしまった。
「付き合おうって言ったのは凪だよね」
あの流れで本気だとは思わないだろおおお。
凪はなんとか碧斗に愛想を尽かされようと、嫌われよう大作戦を実行するが……?
祖国に棄てられた少年は賢者に愛される
結衣可
BL
祖国に棄てられた少年――ユリアン。
彼は王家の反逆を疑われ、追放された身だと信じていた。
その真実は、前王の庶子。王位継承権を持ち、権力争いの渦中で邪魔者として葬られようとしていたのだった。
絶望の中、彼を救ったのは、森に隠棲する冷徹な賢者ヴァルター。
誰も寄せつけない彼が、なぜかユリアンを庇護し、結界に守られた森の家で共に過ごすことになるが、王都の陰謀は止まらず、幾度も追っ手が迫る。
棄てられた少年と、孤独な賢者。
陰謀に覆われた王国の中で二人が選ぶ道は――。
借金のカタに同居したら、毎日甘く溺愛されてます
なの
BL
父親の残した借金を背負い、掛け持ちバイトで食いつなぐ毎日。
そんな俺の前に現れたのは──御曹司の男。
「借金は俺が肩代わりする。その代わり、今日からお前は俺のものだ」
脅すように言ってきたくせに、実際はやたらと優しいし、甘すぎる……!
高級スイーツを買ってきたり、風邪をひけば看病してくれたり、これって本当に借金返済のはずだったよな!?
借金から始まる強制同居は、いつしか恋へと変わっていく──。
冷酷な御曹司 × 借金持ち庶民の同居生活は、溺愛だらけで逃げ場なし!?
短編小説です。サクッと読んでいただけると嬉しいです。
冷血宰相の秘密は、ただひとりの少年だけが知っている
春夜夢
BL
「――誰にも言うな。これは、お前だけが知っていればいい」
王国最年少で宰相に就任した男、ゼフィルス=ル=レイグラン。
冷血無慈悲、感情を持たない政の化け物として恐れられる彼は、
なぜか、貧民街の少年リクを城へと引き取る。
誰に対しても一切の温情を見せないその男が、
唯一リクにだけは、優しく微笑む――
その裏に隠された、王政を揺るがす“とある秘密”とは。
孤児の少年が踏み入れたのは、
権謀術数渦巻く宰相の世界と、
その胸に秘められた「決して触れてはならない過去」。
これは、孤独なふたりが出会い、
やがて世界を変えていく、
静かで、甘くて、痛いほど愛しい恋の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる