【完結】かなしい蝶と煌炎の獅子 〜不幸体質少年が史上最高の王に守られる話〜

倉橋 玲

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第1章 かなしい蝶と煌炎の獅子

原初の大魔法

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 少年と王が捉えた天翔ける獣は、王が風霊に何かを伝えてすぐに見えなくなった。別に目を離した隙にいなくなったとか、そういう話ではない。突如として、姿が消えたのだ。そのことに驚いた少年が王を見れば、王はどこか悪戯っ子のような顔をして微笑んだ。
 そんな二人の元に、やや苛立ちが含まれる声が投げられる。
「何があったのかは知らないが、楽しそうで何よりなことだ!」
 叫んだデイガーが、続いてドラゴンに向かって何かを言うと、王獣の周囲に、ドラゴンの体表付近に出現するものと同じ黒い渦が現れた。乗っている人間ごと覆うように球状に展開したそれに、王獣が吠える。全方位を覆われては、いかに王獣の脚が速くても逃れることはできない。王獣もそれを悟ったのか、低く唸って剥いた牙の隙間から、ぶわりと炎が漏れた。だが、王獣が炎を吐き出す前に、王が叫ぶ。
「私が斬るからお前はそこを突破しろ!」
 その言葉に王獣が炎を収めるのを認めつつ、王は抱えていた少女を少年に預けた。
「すまない。この子を頼む」
「え、あ、あの、貴方は……?」
「グレンの上では剣が届かぬのでな」
 言うや否や、少年の返答を待たず王獣の背に立った王は、前方へと強く跳躍した。驚く少年の頭上を越え、そのまま王獣の正面にある渦へと剣を叩きつけるようにして振り下ろす。リアンジュナイル最高の剣が切り裂いた空間の隙間に間髪入れずに炎を叩きこめば、裂け目が大きく広がった。その瞬間を逃さず、王獣が隙間をすり抜ける。それに一拍遅れて、風霊に押された王が半ば弾かれるようにして抜け出た。そのまま自由落下していく身体を、すかさず王獣が拾い上げる。
「そのまま走り続けろ! お前の脚で乱せば、そう簡単に包囲はできまい!」
 短く吠えた王獣が、速度を上げる。王の目論見通り、ドラゴンを中心とした周囲を縦横無尽に駆け回る王獣に、デイガーも竜も狙いを定めきれないでいるようだった。
「あ、あの、」
「うん?」
 控えめな声に視線をそちらへと向ければ、不安と恐怖と戸惑いの入り混じった瞳が王を見ていた。
「どうした、キョウヤ」
「う、腕の、血が、」
 言われ、改めて自身の左腕に意識を向ければ、案の定出血が激しい。それはそうだろう。何せ骨に到達するところまで牙が食い込んだのだ。しかし、男にとってはこの程度であればそこまで慌てるようなことでもないのだが、どうやらこの少年にとっては一大事らしい。その証拠に、彼の顔は真っ青だ。
「ふむ」
 愛し子にこのような顔をされるのは好ましい事態ではないのだろう、と。一般常識を想定して判断した王が、それならばと火霊の名を呼ぶ。
「出血を止めたい。傷口を焼き切ってくれ」
 途端、だらりと垂れている男の左腕が炎に包まれた。肉の焦げる臭いがしたのは一瞬で、すぐさま炎はほどけ、再び外気に晒された腕を見れば、傷口が焼けて変性した代わりに、もう出血する様子はなかった。
「これで大丈夫だ」
 にこりと微笑んで見せた王に少年はますます青くなるのだったが、敵の様子が変化するのを感じて意識をそちらに戻した王は、それには気づかなかった。
「ちょこまかと小賢しいなぁ! 良いからさっさとそれを渡して死ねと言っているんだよ!」
 苛立った声が鼓膜を叩き、少年はびくりと肩を揺らした。
「渡せ渡せと言うが、何故お前はそれほどまでにキョウヤに固執するのだ!」
「何故? ははは! 今更しらばっくれるのか? それがエインストラであることくらい、とっくに判っているさ!」
 デイガーの言葉に、王は僅かに目を開いてから、少年に向かってそっと囁く。
「……キョウヤ、お前、エインストラだったのか?」
「えいんすとら……?」
 そもそもそんな単語自体聞いたことがないというような反応の少年をちらりと見た王が、ふむ、と呟く。
「厄介だな……」
「あ、あの、えいんすとらって何なんでしょうか……」
「エインストラが何者かについてならば、後でゆっくり教えよう。お前が何者なのかについては私も判らないが」
 何者かも何も、少年は人間だ。少しばかり右目がおかしいが、少なくとも母は人間だったし、会ったことはないけれど父だって、話に聞いた限りでは人間のようだった。
「さあ、エインストラ、こちらへ来てください! 貴方が大人しく来てくれるのでしたら、今はその男を殺すだけで勘弁致しましょう!」
 デイガーの言葉と共に、ドラゴンの背後に空間魔導の黒い渦が生まれる。これまで散々見てきたものと同じ渦だったがしかし、今回の渦は、徐々にだが確実に広がっているように見えた。
「あの、渦、なんだか大きくなってませんか……?」
「焦って大技に頼ってきたな。つまり、周囲を巻き込んだ大技で片づけざるを得ないほど、グレンの脚が速いということだ。お手柄だぞ、グレン」
 こんな状況だというのに、王に褒められた王獣は嬉しそうに吠えた。
「さあ、エインストラ! 共に帝国のために戦いましょう!」
「そうは言うが魔導師よ! そのような大魔導を放っては、大切なエインストラまで空間で捻じ切れてしまうのではないか?」
「何を馬鹿なことを! お前たちの使う魔法ごときでは不可能かもしれないが、魔導ならば選んだ対象を個別に別空間へと飛ばすことも可能! つまり、空間の歪みで千々に引き裂かれるのは、お前たちリアンジュナイルの人間だけさ!」
 嘲笑交じりの言葉に、王が目を細める。
「なるほど」
 デイガーの話には、十分すぎるほどに情報が詰まっていた。彼が用いる空間魔導は、一度に複数の対象を別空間に飛ばすことが可能で、しかも飛ばす先は対象ごとに設定できる。一度にいくつまで転送先を設定できるかまでは不明だが、少なくとも同時に二か所を設定することは可能で、その内の一つに、身が裂かれるほどに歪みきった空間を含むことができる、と。更に、その効果範囲もある程度予測ができた。わざわざリアンジュナイルの人間と言い切ったところを見ると、避難した民も巻き込めるほどの広範囲に渡って発動する魔導である可能性が高い。そもそも、あのバーの地下にはまだデイガーの部下が残っているはずである。恐らくはそれらと少年をまとめて首都から離れた場所に転送しつつ、残りを全て歪んだ空間で始末する、といったところだろうか。
 これは、驚くべきことだった。少なくとも、王が帝国を旅していた十年前には、魔導にそこまでの精度はなかったはずだ。つまり、帝国の魔導はこの十年でそこまで進化を遂げたということである。
(当時から別次元の魔物の召喚にやたらと固執はしていたが、それがある程度形になったことで、使役する魔物の質が急激に上がったか)
 ドラゴンの背負う渦がどんどんその大きさを増していく。それに比例して空気全体が重々しい何かを孕み、恐怖からか思わず王の服の裾を掴んだ少年は、ふと、この重い雰囲気にそぐわない優しい風を頬に感じた。
「やれやれ、ようやく準備が整ったか。……良いか、火霊。できる限り手加減はするのだぞ?」
 ふぅ、と息を吐き出した王を少年が見上げれば、王の瞳の中の炎が、何故か一層その輝きを増していて。その美しさに、また少年は惚けてしまう。
「帝国の魔導師よ!」
 王の凛とした低い声が、空気を震わせた。
「よくぞ魔導の道をここまで極めた。そこに至るまでの努力と執念、察するに余りある。そして認めよう。貴公のその魔導は、ロイツェンシュテッド帝国は、疑いようもなく、円卓の連合国にとっての脅威足り得る」
 王を中心に、ぶわりと風が巻き起こる。熱を孕んだそれは、まるで歓喜に踊り狂うように王と少年の髪を揺らした。
「故に、私もこの魔法を以て貴公を排除しよう!」
 デイガーの魔導は、確かに脅威的だ。ひとたび発動すれば、いかにグランデル王と言えど、対処には労を要する。増してやこの街や金の国の民を守りながらとなれば、それはもう不可能だ。だからこそ、この魔導の欠点、すなわち、発動までに時間を要する点を叩くしかない。
「――赤より赤き紅蓮の覇者よ」
 魔法が何故、魔術よりも、魔導よりも、優れているとされているのか。
「全てを滅ぼす破壊の御手よ」
 簡単な話だ。魔法は魔術を凌駕する現象を引き起こすことができ、魔導のような複雑性もない、簡素な体系で構成されている。それ故に、魔法は時に言葉ひとつで驚異的な威力を発することができるのだ。そう、つまりは、何よりも速く、何よりも強大。それだけのことだった。
「汝が子らの声を聴き 祈りの唄に答えるならば」
 王の周囲から、炎が噴き上がる。それは、圧倒的な魔力の奔流だった。始まりの四大国の王が持つ、莫大な力の顕現だった。
「我に抗う全ての愚者に 滅びの道を歩ません」
 朗々たる王の詠唱に、デイガーが目を見開く。彼はこの魔法を知っていた。そうだ、知らないはずがない。この魔法こそ、五年前の大陸間戦争において大量の帝国軍を焼き払った業火にして、原初の大魔法がひとつ。
「ば、馬鹿な!? そんなものを使えば、この首都も無事では済まないはずだ!」
 だからこそデイガーは、グランデル王がその手段を取ることはないだろうと、そう確信していた。しかし、
「麗しき 青き衣の乙女も殺し――!」
 王の詠唱は止まらない。その身から迸る魔力はいよいよその勢いを増し、デイガーの目に、そして、少年の異端ではない左目にさえ、炎のように爛々と輝く魔力の奔流が見てとれる。魔法適性のない人間までもが見ることができるほどの密度の高い魔力を、惜しげもなく溢れさせ、緋色を纏う炎の王は、高らかにその勝利を叫んだ。
「――――“森羅万象焼き滅ぼす炎グラン・フレア・フラメス”!」
 瞬間。王の全身から噴き上がった魔力の濁流が炎となってドラゴンへと放たれた。凄まじい熱量を伴い吹き荒れるそれは、まさに炎の嵐そのもの。ドラゴンが展開した空間の渦のことごとくを容易く破り、炎が波のように竜へと押し寄せる。強固な鱗を焼き溶かされ、ドラゴンが苦痛に濡れた悲鳴を上げた。
 逃げ場などないとでも言うかのようにドラゴンの全身を覆い尽くした炎が、次いでみるみる内に球体のような形になって僅かに縮み、そして、中心から全方位に向かって大きく弾け爆発する寸前、
 突如、炎の塊の真上から水の大瀑布が降り注いだ。落ちていく水は、王の炎に勝るとも劣らない威力を以て、炎を覆い尽くしていく。だが、王の炎がそれに掻き消されることはなかった。炎の極限魔法の真骨頂である大爆発こそ未遂に終わったものの、鎮火される様子のない炎は中心のドラゴンを焼きながら、水の壁をも食い破らんと激しく燃え、水はそれを仕留めようと更にその質量を増していく。炎と水のせめぎ合いにより、竜の悲鳴を掻き消してじゅうじゅうと水が蒸発する音が響き、周囲には熱を孕んだ水蒸気がもうもうと立ち込めた。
 火と水のぶつかり合いが続いたのは、どれほどだっただろうか。不意に眉根を寄せた王がさっと右腕を振るのと同時に、王の身体から迸っていた魔力が徐々に収まっていき、同時に水に覆われた炎もその勢いを徐々に弱めていった。それに数拍遅れて、炎を覆っていた水までもが急速に炎への拘束を緩める。そして徐々に薄く広がっていった水は、小さな音を立てて小刻みに弾け、つかの間の雨となって首都に降り注いだのであった。
 未だ水蒸気の霧がうっすらと覆う空を見つめ、雨に濡れた王が呟く。
「……逃がしたか」
 王の視線の先、徐々に薄れていく霧の向こうには、漆黒の竜の姿もデイガーの姿もなかった。
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