32 / 147
第2章 魔導帝国の陰謀
城下町デート
しおりを挟む
王と少年を乗せた王獣は、見る見るうちに広い王宮の敷地を抜け出し、その外に広がる城下町の上空へと身を滑らせた。優雅に翔ける赤い獣の下に広がるのは、王都グランニールの町並みである。ちょうど昼下がりということもあってか、赤レンガを基調とした建物が並ぶそこは、ほど良く賑わっているようだった。
と言っても、王獣が現在飛んでいる位置はかなり高く、この距離で少年がそれを視認することはできないだろう。そもそも、王と知り合うまで騎獣に乗る機会などなかった少年には、下を眺める余裕などどこにもないのだ。先ほどほんの少しだけ下を覗いたときは後悔の念しかなかったので、今はもう目を閉じることにしている。
そんな少年の内心を知っているのかいないのか。彼を片腕に抱えた王は、時折少年の髪を梳いては、そこにキスを落としている。
髪を弄ぶ指や王の吐息から、自分がされていることになんとなく気づいていた少年ではあるが、ここで王から離れたら落ちてしまいそうなので、大人しく耐えていた。本当はものすごく居心地が悪いのだが、それでも落ちて死ぬよりマシである。
それにしても、何故か王獣は未だに高度を下げる様子がない。今自分たちがいる位置は良く判らないが、城下へ行くと言うのなら、そろそろ下がり始めても良い頃なのではないだろうか。
「あ、あの……、」
「うん? どうした?」
か細い声を出した少年に、王は彼の頭を優しく撫でた。
「なんで、王獣様、は、こんなに高いところを飛んでいるんでしょうか……?」
「王獣というのは本来、国民の前には滅多に姿を見せない獣だからなぁ。民の描く理想像を壊さぬよう、グレンも色々と配慮しているのだろうよ」
「え、ええと……?」
言われた言葉の意味が判らずに困惑する少年に、王はにこりと微笑みかけた。
「つまり、ここからは私たち二人で行こうか、という話だ」
「え、でも、二人って、」
言いかけた少年を、王が両腕でしっかりと抱き込んだ。
「それでは、行ってくる。帰りの心配は不要だ。どうせ迎えが来るからな」
その言葉に王獣が吠えて答えるのを確認してから、王は少年を抱き締めたまま、獣の背から飛び降りた。
「っ、へ、へーか!?」
王にとっては慣れたものだったが、一緒にいた少年にとってはとんでもない自殺行為だ。
まさかこの高さから飛び降りるとは欠片も思っていなかったので、悲鳴交じりに王を呼んだ少年の声は、驚きと恐怖で裏返ってしまった。
だが、いつまで経っても恐れていた浮遊感が襲ってこない。
「……?」
王にしがみついたまま、少年がおそるおそる目を開けると、そこに見えたのは思っていたような景色ではなかった。
きっとものすごい勢いで地面が近づいているのだろうと思っていた少年だったが、実際に視界に広がったのは、驚くほど緩やかに穏やかに眼下の街が近づいていく様子だった。
浮遊、とは少し違う。緩やかに落下しているのだと気づいた少年は、思わず問うようにそっと王の口元あたりを見上げた。ここで目を合わせないように注意するあたり、こういった突飛な事態にも少しは慣れてきたのだろうか。
そんな少年の視線に気づいた王が、ああ、と口を開く。
「風霊がな、落下速度を緩めてくれているのだ。気圧の変化にも対応してくれているから、体調に異常をきたすこともないだろう」
「……魔法……」
そういえばこの人は王様で、王様は皆優れた魔法使いなのだった。いや、それにしても、
「魔法って、何も言わなくても発動できるものなんですね……」
きっとそれだけこの人が強いということなのだろうけれど、と思いつつそう言った少年だったが、王は少しだけ不思議そうな顔をして首を傾げた。
「いや? どんなに優れた魔法師でも、精霊の名を呼ばずに魔法を使うことなどできんよ。グレイがなんと教えたかは知らんが、定義立てるのならば、魔法はきっと簡易的かつ限定的な即時契約に似ている。私たち人間は、魔法が発動してから終わるまでの間、魔力を対価に期間限定で精霊の力を借りているのだ。これは一種の契約のようなものと言えるだろう。ならば、双方の同意がなければ成立しない。魔法師が意思伝達の手段として最も使っているものを通して、明確に精霊の名を呼ぶことで契約を持ちかけ、それに精霊が応える、といった一連の流れを経なければ、人間は魔法が使えないのだ」
「意思伝達の手段として最も使っているもの……」
「多くはそれが声になる。口が利けぬものならば、手話か筆談か。尤も、何故そういった決まりがあるのかまでは判らんがな」
なるほど。魔法を契約と称した王の言葉はとても判りやすく、少年でも理解することができた。だが、それならば尚のこと納得できない。
「……でも、貴方は飛び降りるとき、風霊の名前を呼んでいなかったじゃないですか」
そうなのだ。王獣の背から飛び降りた時、確かに王は何も言っていなかった。意思伝達の手段として最も使っているもので精霊の名を呼ばねば魔法が使えないと言うなら、王の場合のそれは間違いなく声だろう。いくら驚いていたといっても、あの至近距離で王の声を聞き逃すほど少年の聴力は低くない。
「ふむ。そこに気がつくとは、キョウヤは聡い子だな」
少年の指摘に、王はにこにこと笑って彼の頭を撫でた。
「お前の言う通り、私は風霊の名は呼んでいない」
あっさりと肯定した王だったが、今も二人は風霊魔法による緩やかな降下を続けている。
「……じゃあ、なんで……?」
少年の呟きに、しかし王は困ったような表情を浮かべて首を傾げた。
「なんで、ときたか。さて、なんで、なんでか……、……何故なんだろうなぁ」
尋ねているのは少年の方なのだが、逆に訊き返されてしまった。
「いや、私にも判らんのだ。だが、何故か私は精霊の名を呼ばずとも魔法を発動できてしまう。というよりは、精霊の側が色々汲み取って勝手に魔法を使ってしまうことがある、と言った方が正しいのか? 例えば先ほどのような場合、あのまま普通に落ちれば死ぬからな。死にたくはなかろうと、風霊が勝手に落下速度を緩めてくれたのだ」
「…………はあ」
間の抜けた返事しかできなかったが、返事ができただけ良しとしよう。
少年は魔法について全く詳しくないが、王の言っていることが普通ではないのだろうことだけは判った。
「あ、もしかして、王様は皆さんそうなんですか?」
「いいや。先ほど言った通り、魔法を使う際には必ず精霊の名を呼ばねばならない。これは王だろうとなんだろうと変わらぬ事実だ」
「でも、貴方は精霊の名前を呼ばなくても使えてしまうんですか?」
「そうなのだ。困ったな」
全く困っていない様子で言った王に、少年はやはり間の抜けた返事しか返せなかった。
「そうだキョウヤ。これは一応、あまり周囲に言いふらしてはいない秘密でな。できれば内密にして貰えると有難い」
「……秘密なら、僕の前でそんなことをしなければ良かったのでは……」
まだ付き合いは短いけれど、それでも、ついうっかりと秘密を漏らすような真似をする王ではないと少年は判っていた。だから、あれはきっとわざとだ。少年が気づくと判っていて、わざと精霊を呼ばずに風霊魔法を発動させたのだ。
「広く知られては色々と面倒なので話していないだけだからな。その程度の秘密ならば、お前に隠すのも変だろう」
「変、でしょうか……?」
少年は他国の庶民である。それだけで、国王の秘密を隠す理由には十分すぎるほどだと思うが。
「そうだとも。誰よりも愛しいお前に、無意味な隠し事などすべきではないだろう?」
「……はあ、そうですか」
そんな理由で簡単に秘密を明かしちゃうのはどうなのかなぁ、と思った少年だったが、きっと言っても無駄なので言いはしない。そして、王の相変わらずの愛情表現にも、特にこれといった反応を返そうとは思えなかった。
しかし、いくら穏やかな落下であるとは言え、未だ上空にいる状況で会話をこなす余裕があるというのは、普段の少年ではあり得ない話だ。恐らくはまだ少年も自覚していないのだろうが、これは、少年が王を深く信頼し始めているということを示していた。
王と少年が降り立ったのは、城下町の中でも一際の賑わいを見せている商店街の一角だった。王の言葉通り、この国の国民たちにとって王が空から降ってくるのは割とよくあることらしく、大騒ぎになることはなかった。これは少年が後から聞いた話だが、あまり大騒ぎをするとロンター宰相を始めとする臣下一同に居場所がばれやすくなるから配慮してくれ、と日頃から王に頼まれているらしい。
だがしかし、そうは言っても王の来訪は王の来訪である。大騒ぎにこそならないが、ちょっとした騒ぎにはなった。
しかも何故か少年の存在は既に国民の知るところとなっていて、その上国王の恋人とかいう勘違いも甚だしい認識をされてしまっていたせいで、少年までも国民の注目の的になってしまったのだ。
他人が苦手な少年にとって、注目を浴びるなど死ぬほど避けたい事態であったし、もしかするとお前みたいな汚い奴が国王陛下の恋人を名乗るなと罵られてしまうのでは、という心配もしたのだが、国民は皆、少年を歓迎しているようだった。
そういえばレクシリアが、王が選んだ人間を民が貶める訳がない、と言っていた気がする。つまり、王の選択に間違いなどある筈もないから、王が選んだのならば民は何の疑いもなく受け入れる、ということなのだろうか。
とにかく、国民たちに悪気がないのはなんとなく察せられたのだが、それでも群がられるのはあまり好ましくはないのだ。恋人様恋人様と言って、やたらと店の売り物をプレゼントしてくれようとする人々に対応しきれず、少年は思わず王の服の端をきゅっと握り締めた。
そんな彼に何を思ったのか、王は不意に、自身が纏っていた外套で少年をすっぽりと覆い隠してしまった。
「キョウヤが可愛らしくて話しかけたい気持ちは良く判るが、この子は人見知りでな。できればそっとしておいてはくれんか? それに、そうあれもこれもと商品を渡されては持ち切れんだろう。こうして贈り物をしてくれようという気持ちは嬉しく思うが、私への贈り物など税金だけで十分だ」
そんな王の言葉に、国民たちがどっと笑う。
「いやですわ陛下。税金は結局私たちのために使われるんですから、全然贈り物になっていないじゃありませんか」
「いやいや、国民の血税で豪遊させて貰っているとも。それに税金の全てが国民のために使われていると思ったら大間違いだぞ? 税で私腹を肥やすというのは貴族の常套手段だからな」
至極真面目な声で王がそう返せば、またもや皆が笑う。
「それでは陛下への贈り物は税金ということにするとして、恋人様への贈り物ならいかがですか?」
またもや上がった声に、王は軽く難しい顔をしてみせた。
「キョウヤへの贈り物は私がするから良いのだ。私の楽しみを奪わないで貰おうか」
「はははっ、陛下は意外と嫉妬深くていらっしゃる!」
「でもそういうことなら仕方ないわねぇ」
「そうだなぁ。それじゃあそろそろ諦めて仕事に戻るとするか。あんまり騒いでると、怒りのロンター宰相様に陛下が見つかっちまう」
やいのやいのと楽しそうに騒いでいた国民たちだったが、意外なことにそれ以上は王や少年に構うことなく、あっさりと解散していった。
国民が随分と親し気に王と会話をすることにも驚いた少年だったが、こうして簡単に引き下がったことにも驚いてしまう。
少年は知らないことだが、赤の国における当代の王と国民は、他国と比べると異常なまでに距離が近く、だからこそ王の来訪をそこまで特別視していないのだ。
国王陛下は、本当に必要なときに求めたならば、必ず直接会って話を聞いてくれる。だから、国王陛下と言葉を交わすことは、特別なことでもなんでもない、国民に等しく与えられた権利なのだ。
その信頼があるからこそ、国民は皆、王を引き留めようとはしない。グランデル王国における当代の国王とは、玉座に座る統治者ではなく、国民たちの手を直接取って導いてくれる先導者のようなものなのだ。
「やれやれ。私も物珍しさが薄れたのか、最近は国民たちがここまではしゃぐこともなくなってきたのだが、今日はお前がいるから珍しく大盛り上がりしてしまったな」
そう言った王が、外套の覆いを外して少年を解放する。少しだけ眩さを感じる目に映った景色には、二人を囲む民の姿はもうなかった。その代わり少年は、立ち並ぶ店で働いている店員や、行き交う人々の柔らかな視線を感じた。それはこちらを凝視するような不躾なものではなく、悪意の籠った恐ろしいものでもない。ただ、見守るような視線が、時折こちらに向けられるのだ。
なんだか温かな何かに包まれているような気持ちがしてしまって、それはそれで居心地が悪い。
そんなことを考えていた少年の手を、王がそっと握った。少しだけびっくりして身体を震わせた少年の頭を撫でてから、王がそのまま歩き出す。
「レクシィに連れ戻されるまで、デートを楽しむとしようか。なに、あれもそこまで無粋者ではないからな。なんだかんだ言っても、多少の時間はくれるはずだ」
「は、はぁ」
デート、と言うが、一体何をするというのか。そもそも、王と一緒にいるせいで誰かとすれ違うたびに声を掛けられたり頭を下げられてしまうので、デートを楽しむどころではない。国民も心得ているのか、引き留められたりすることはなかったが、それでもやはり注目を浴びているのは落ち着けなかった。いや、そもそもそうでなくたって、王とのデートを楽しめるとは思えないが。
大人しく王に手を引かれていると、彼はとある店の前で立ち止まった。
「ここに寄りたいのだが、構わないか?」
適当に城下を見て回るのかと思っていたのだが、どうやら目的地があったらしい。
(え、本当にここに入るのかな……)
少年としては別にどの店に入ろうがどうでも良いので頷いて返しつつ、まじまじと店の外観を見た。
女性受けしそうなデザインで纏められた看板と、表から見えるショーウィンドウに並ぶ可愛らしいぬいぐるみたち。
きっと、ここはぬいぐるみを扱う店舗なのだろう。といっても、一般の子供向けの店というよりは、どちらかというと貴族の子供や女性が来るような店のように見える。よくよく見れば、ショーウィンドウに並んでいるぬいぐるみたちも縫製がしっかりしており、高級そうだった。
なんにせよ、この大柄で逞しい国王にはあまり似合わないお店だなぁと少年は思った。
「邪魔をするぞ」
そう言いながら扉を潜った王に引かれて入店した少年は、目の前に広がった光景に小さく感嘆の声を漏らしてしまった。
ほどよい明かりに満たされた店内には、アンティークなのだろう木製家具がセンス良く置かれており、床は複雑な模様が織り込んである絨毯で覆われている。そして、机や棚には予想以上に多くのぬいぐるみが置かれていた。よく見回せば、ぬいぐるみ以外にも女性が好みそうな櫛や手鏡などの雑貨もある。
見ているだけで楽しくなるような空間だったが、一応は職人のはしくれである少年には、並ぶ品々が全て高価なものであることがよく判った。やはり、あまり庶民が馴染めるような店ではなさそうだ。そしてそのことに気づいてしまうと、なんだかこの絨毯を踏んでいることすら申し訳なくなってしまう。
もういっそ外で待っていようかなどと考え始めたあたりで、店の奥から初老の男性が出てきた。
「いらっしゃいませ、ロステアール国王陛下」
「先日は世話になったな、店主。今日はあのとき約束したものを取りに来たのだが、準備は終わっているだろうか?」
「勿論でございます。……そちらのお方が、陛下の恋人様でいらっしゃいますか?」
男性の問うような視線を受けた少年は、一瞬固まってから、対外向けの白熱電球のような笑みを返した。
「あの、皆さんそう勘違いされているのですが、恋人ではないです」
「おや、そうなのですか?」
「そうなのだ。私の精進が足らぬようで、なかなか振り向いて貰えなくてなぁ。どうすればもっと魅力的な男になれるのだろうか」
至極真面目な表情で言われた言葉に、少年は慌てて王を見た。
「あ、あの、貴方、僕、そういうつもりはなくて、あの、だって、貴方は十分すぎるほど魅力的だと思いますし、その、」
国王陛下に失礼な態度を取ったなどと思われては、自国の王が大好きらしい国民たちからなんと罵られるか判らない。そう思っての弁明だったのだが、王は嬉しそうな顔をして少年を見下ろしてきた。
「そうか、魅力的だと思うか」
「え、ああ、はい」
「では、美しいだろうか?」
そう言った王が、少年の頬に手を当て、顔を覗き込んで来る。咄嗟のことに回避することもできず、少年は炎の滲む瞳を真正面から受け止めてしまった。これでも随分慣れてきた方ではあるのだが、それでもこの金の瞳は毒である。結局思考が鈍ってしまった少年は、王の瞳を見つめたまま、とろりと小さな声を漏らした。
「……うん、あなた、すごくきれい」
「……ああ、私もお前を愛しているよ」
心地よい低音が少年の耳を擽り、薄く開かれた唇に、王のそれがそっと重なった。
相変わらず、熱のこもった唇だ。この人は手も温かいから、もしかすると体温が高い人なのかもしれない。
ぼんやりとそんな考えが浮かんだ少年だったが、口づけと同時に王の目が閉じられたことで、はたと我に返った。そして、自分が今いる状況を思い出して、羞恥にぶわりと頬を紅潮させる。だがその直後、国王が汚い自分に口づけている現場を国民に見られてしまったという恐怖に、今度はさっと青褪めた。
赤くなったり青くなったりとしている少年の様子に、王も気づいたのだろう。名残惜しそうに唇を離した王は、少年を落ち着けるように優しく頭を撫でた。
「どうした?」
「あ、あの、ぼく、」
「こらこら、そう恥ずかしがるものではないし、怯えるものでもないぞ。キョウヤは忙しい子だなぁ」
全く納得がいかない評価を下された気がするが、今はそれどころではない。とにかく弁明と謝罪をしなければと、慌てて店主の方を見れば、初老の彼は、何故だかとても穏やかな表情を浮かべていた。
「あ、て、店主さん、あの、本当に申し訳ありません。僕、こんなつもりじゃなくて、」
「いやはや、陛下は本当に貴方様を想っていらっしゃるのですね。お二人の幸せそうなご様子を拝見することができ、私もその幸福をひと欠片分けて頂いたような心地です」
「え、……あ、……はあ……」
幸せそう、だっただろうか。いや、国王の方はそうだったのかもしれないが、少なくとも少年は寧ろ死にそうだった。
「その通りだとも。これほど誰かを愛しいと思ったことはないのだ。私は間違いなく、世界で最も幸せな男だ」
うんうんと頷く王に、大変申し訳ないけれどちょっと黙ってて欲しいなぁと少年は思った。
「ふふふ、恋人様も自身を恋人ではないとおっしゃいますが、照れ隠しのようなものなのでございましょう。確かに、国王陛下の恋人というのは重圧でしょうから。躊躇われるのも無理はないことです」
(あ、この台詞、前にどこかで聞いたことあるな……)
聞いたことがあるもなにも、ほぼ同じ台詞をレクシリアにも言われている。
「重圧など感じなくても良いのだがなぁ。私など至る所で馬鹿王だのポンコツ王だのと罵られているのだし、そう構えることもないだろうに」
「何を仰られますか。陛下は間違いなく、円卓の連合国始まって以来の最高の王陛下であらせられます。これ以上の重圧もありますまい」
「こらこら、これではますますキョウヤが構えてしまう。キョウヤ、何も心配をすることはないのだぞ? お前がいてくれれば、私はそれだけで良いのだから」
「は、はあ……」
こうなるともう、勘違いを正そうなどという気は欠片も起きなくなってしまう。というより、恐らく正そうと思って正せるものではないのだろう。
曖昧な微笑みを浮かべた少年の頬に、王がもう一度キスを落とす。この王がやたらとキスをしたがる性分なのはなんとなく判っていたが、せめて人前ではやめて欲しいと少年は思った。思ったが、言っても多分無駄なので言いはしない。色々と諦めているのだ。
「では、例のものを持ってきてくれ」
「ああ、そうでした。少々お待ちくださいませ」
深く一礼して店の奥に消えた店主だったが、ほどなくして、荷台のようなものを押しながら帰ってきた。
「お待たせ致しました。どうぞご確認くださいませ」
そう言った店主が持ってきた荷台の上に乗っていたのは、毛足の長い生地で縫製された、やたらと大きなテディベアだった。
珍しい赤銅色の毛並みをしたそのぬいぐるみは、少年の胸の高さほどはあるだろうか。とにかく、これまで少年が見たことがない程度には大きかった。両目の部分に縫い付けられている、金色の中に赤が滲んだような不思議な色合いの瞳は、恐らくガラス玉ではなく宝石の類だろう。サイズも素材も規格外と称せる部類のものである。
「……この子、陛下に似てる……」
赤銅の毛は王の髪を思わせるし、金の瞳だって、王の瞳にはとても及ばないが、揺れる炎のような色をちらつかせていた。
そんな少年の呟きに満足そうに微笑んだ王が、台車に乗ったぬいぐるみを抱え上げる。そして彼は、抱えたそれを少年に差し出してきた。
「え、あ、あの……?」
ものすごく困惑した声を出した少年だったが、そんな彼に、笑顔のままの王はテディベアをぐいぐいと押し付けてきた。
「あ、あの、」
もふもふの毛並みが少年の頬を撫でる。さすがは高級品だ。肌触りが極上である。しかし、だからといって押し付けられても困るのだ。一体これをどうしろと言うのか。もしかすると、会計を済ますから持っていてくれと言うことなのかもしれない。なるほど、確かにこんな大きなものを抱えていては、財布を取り出すのも一苦労だろう。
(でも、だったら台車に置いておけば良いのになぁ)
そう思いつつ、少年がおずおずとぬいぐるみに腕を回す。両腕を使ってなんとか抱え上げたところで、するりと王の腕が離れていった。やはり、持っておいて欲しいということだったのだろう。こういった綺麗なものに触れると汚してしまいそうで嫌なのだが、仕方がない。
「手触りはどうだ?」
「え? ええと……、とってももふもふしてます」
「そうか! 気に入ったか?」
全く話が見えない少年だったが、気に入ったか気に入らないかで言えば気に入ったので、素直にそう答えておいた。
「それは良かった! いや、無理を言って展示品を譲って貰った甲斐がある」
「展示品……?」
少年の疑問には、優しそうな笑みを浮かべた店主が答えた。
「このテディベアは、ロステアール国王陛下が即位されたときに記念として製作し、この店に飾ってあった展示品なのですよ。販売目的で作った訳ではない一点ものなので、本来であれば売りに出すことはないのですが、国王陛下がどうしてもと望まれたので、この度お譲りさせて頂くことになったのです」
「は、はあ……」
そこまでしてこのテディベアが欲しかったのだろうか。なんというか、見た目に似合わない趣味をお持ちなんだなぁ、と少年は思った。
「キョウヤが気に入ってくれたようで何よりだ。非売品ゆえ値段はつけられぬという話だったが、その心遣いに対する感謝の気持ちとして、受け取って貰いたい」
そう言って、王が小さな布袋を店主に渡す。迷うような表情を見せた店主だったが、王の厚意を無下にする訳にはいかないと思ったのだろう。深く頭を下げてから受け取っていた。
(きっと、あの袋の中には、僕が思っている以上のお金が入っているんだろうな……)
少年は庶民なので具体的な金額までは判らないが、このぬいぐるみを商品として買おうとすれば、かなりの値段になる筈である。国王はやはりお金持ちなのだなぁなどと呑気に思っていると、王に頭を撫でられた。
「では、それはお前への誕生日プレゼントだ」
「…………は?」
言われた意味が判らず、間の抜けた声が出てしまった。
「ええと……今、なんて……?」
「だから、お前への誕生日プレゼントだ。私ばかり祝って貰うというのは不公平だろう?」
「……えっと……、」
色々とつっこみどころが多すぎて、何から指摘すれば良いのだろうか。
「あの、僕、別に今日が誕生日とかでは……」
「知っているとも。誕生日を訊いたら判らんと教えてくれたのはお前ではないか。ただ、冬生まれなのだろうと思うとは言っていただろう?」
そうなのだ。少年は自分の誕生日を知らない。冬生まれだろうというのも、冬になると母の機嫌が普段以上に悪くなった気がしたので、きっとそのあたりが自分の生まれた時期なのだろうと感じただけだった。だから、本当は冬に生まれたというのも真実かどうかは判らない。だが、この前王に誕生日を尋ねられた時はそこまで詳しく話す気にはなれず、正確な日付は判らないが多分冬に生まれたのだと思う、という旨を伝えたのだった。
「日付が判らぬのは仕方がない。しかし、判らぬからと言って祝わぬ訳にもいくまい。という訳で、これは誕生日プレゼントなのだ」
「は、はぁ……。え、いや、でも、こんな高価なものを頂く訳には、」
「私が受け取って貰いたいのだ。……駄目か?」
悲しそうな顔をした王が少年を覗き込み、金の瞳が真っ直ぐに隻眼を見つめる。
「っ、」
ああもう、その目で見つめられてしまったら、否定なんかできる筈がないのに。
「……あなた……ずるい……」
少年がその金の瞳に弱いことを知っているのかいないのか。それは判らないが、ほんの僅かだけれど非難するような呟きに、王はとても幸せそうに微笑んだのであった。
と言っても、王獣が現在飛んでいる位置はかなり高く、この距離で少年がそれを視認することはできないだろう。そもそも、王と知り合うまで騎獣に乗る機会などなかった少年には、下を眺める余裕などどこにもないのだ。先ほどほんの少しだけ下を覗いたときは後悔の念しかなかったので、今はもう目を閉じることにしている。
そんな少年の内心を知っているのかいないのか。彼を片腕に抱えた王は、時折少年の髪を梳いては、そこにキスを落としている。
髪を弄ぶ指や王の吐息から、自分がされていることになんとなく気づいていた少年ではあるが、ここで王から離れたら落ちてしまいそうなので、大人しく耐えていた。本当はものすごく居心地が悪いのだが、それでも落ちて死ぬよりマシである。
それにしても、何故か王獣は未だに高度を下げる様子がない。今自分たちがいる位置は良く判らないが、城下へ行くと言うのなら、そろそろ下がり始めても良い頃なのではないだろうか。
「あ、あの……、」
「うん? どうした?」
か細い声を出した少年に、王は彼の頭を優しく撫でた。
「なんで、王獣様、は、こんなに高いところを飛んでいるんでしょうか……?」
「王獣というのは本来、国民の前には滅多に姿を見せない獣だからなぁ。民の描く理想像を壊さぬよう、グレンも色々と配慮しているのだろうよ」
「え、ええと……?」
言われた言葉の意味が判らずに困惑する少年に、王はにこりと微笑みかけた。
「つまり、ここからは私たち二人で行こうか、という話だ」
「え、でも、二人って、」
言いかけた少年を、王が両腕でしっかりと抱き込んだ。
「それでは、行ってくる。帰りの心配は不要だ。どうせ迎えが来るからな」
その言葉に王獣が吠えて答えるのを確認してから、王は少年を抱き締めたまま、獣の背から飛び降りた。
「っ、へ、へーか!?」
王にとっては慣れたものだったが、一緒にいた少年にとってはとんでもない自殺行為だ。
まさかこの高さから飛び降りるとは欠片も思っていなかったので、悲鳴交じりに王を呼んだ少年の声は、驚きと恐怖で裏返ってしまった。
だが、いつまで経っても恐れていた浮遊感が襲ってこない。
「……?」
王にしがみついたまま、少年がおそるおそる目を開けると、そこに見えたのは思っていたような景色ではなかった。
きっとものすごい勢いで地面が近づいているのだろうと思っていた少年だったが、実際に視界に広がったのは、驚くほど緩やかに穏やかに眼下の街が近づいていく様子だった。
浮遊、とは少し違う。緩やかに落下しているのだと気づいた少年は、思わず問うようにそっと王の口元あたりを見上げた。ここで目を合わせないように注意するあたり、こういった突飛な事態にも少しは慣れてきたのだろうか。
そんな少年の視線に気づいた王が、ああ、と口を開く。
「風霊がな、落下速度を緩めてくれているのだ。気圧の変化にも対応してくれているから、体調に異常をきたすこともないだろう」
「……魔法……」
そういえばこの人は王様で、王様は皆優れた魔法使いなのだった。いや、それにしても、
「魔法って、何も言わなくても発動できるものなんですね……」
きっとそれだけこの人が強いということなのだろうけれど、と思いつつそう言った少年だったが、王は少しだけ不思議そうな顔をして首を傾げた。
「いや? どんなに優れた魔法師でも、精霊の名を呼ばずに魔法を使うことなどできんよ。グレイがなんと教えたかは知らんが、定義立てるのならば、魔法はきっと簡易的かつ限定的な即時契約に似ている。私たち人間は、魔法が発動してから終わるまでの間、魔力を対価に期間限定で精霊の力を借りているのだ。これは一種の契約のようなものと言えるだろう。ならば、双方の同意がなければ成立しない。魔法師が意思伝達の手段として最も使っているものを通して、明確に精霊の名を呼ぶことで契約を持ちかけ、それに精霊が応える、といった一連の流れを経なければ、人間は魔法が使えないのだ」
「意思伝達の手段として最も使っているもの……」
「多くはそれが声になる。口が利けぬものならば、手話か筆談か。尤も、何故そういった決まりがあるのかまでは判らんがな」
なるほど。魔法を契約と称した王の言葉はとても判りやすく、少年でも理解することができた。だが、それならば尚のこと納得できない。
「……でも、貴方は飛び降りるとき、風霊の名前を呼んでいなかったじゃないですか」
そうなのだ。王獣の背から飛び降りた時、確かに王は何も言っていなかった。意思伝達の手段として最も使っているもので精霊の名を呼ばねば魔法が使えないと言うなら、王の場合のそれは間違いなく声だろう。いくら驚いていたといっても、あの至近距離で王の声を聞き逃すほど少年の聴力は低くない。
「ふむ。そこに気がつくとは、キョウヤは聡い子だな」
少年の指摘に、王はにこにこと笑って彼の頭を撫でた。
「お前の言う通り、私は風霊の名は呼んでいない」
あっさりと肯定した王だったが、今も二人は風霊魔法による緩やかな降下を続けている。
「……じゃあ、なんで……?」
少年の呟きに、しかし王は困ったような表情を浮かべて首を傾げた。
「なんで、ときたか。さて、なんで、なんでか……、……何故なんだろうなぁ」
尋ねているのは少年の方なのだが、逆に訊き返されてしまった。
「いや、私にも判らんのだ。だが、何故か私は精霊の名を呼ばずとも魔法を発動できてしまう。というよりは、精霊の側が色々汲み取って勝手に魔法を使ってしまうことがある、と言った方が正しいのか? 例えば先ほどのような場合、あのまま普通に落ちれば死ぬからな。死にたくはなかろうと、風霊が勝手に落下速度を緩めてくれたのだ」
「…………はあ」
間の抜けた返事しかできなかったが、返事ができただけ良しとしよう。
少年は魔法について全く詳しくないが、王の言っていることが普通ではないのだろうことだけは判った。
「あ、もしかして、王様は皆さんそうなんですか?」
「いいや。先ほど言った通り、魔法を使う際には必ず精霊の名を呼ばねばならない。これは王だろうとなんだろうと変わらぬ事実だ」
「でも、貴方は精霊の名前を呼ばなくても使えてしまうんですか?」
「そうなのだ。困ったな」
全く困っていない様子で言った王に、少年はやはり間の抜けた返事しか返せなかった。
「そうだキョウヤ。これは一応、あまり周囲に言いふらしてはいない秘密でな。できれば内密にして貰えると有難い」
「……秘密なら、僕の前でそんなことをしなければ良かったのでは……」
まだ付き合いは短いけれど、それでも、ついうっかりと秘密を漏らすような真似をする王ではないと少年は判っていた。だから、あれはきっとわざとだ。少年が気づくと判っていて、わざと精霊を呼ばずに風霊魔法を発動させたのだ。
「広く知られては色々と面倒なので話していないだけだからな。その程度の秘密ならば、お前に隠すのも変だろう」
「変、でしょうか……?」
少年は他国の庶民である。それだけで、国王の秘密を隠す理由には十分すぎるほどだと思うが。
「そうだとも。誰よりも愛しいお前に、無意味な隠し事などすべきではないだろう?」
「……はあ、そうですか」
そんな理由で簡単に秘密を明かしちゃうのはどうなのかなぁ、と思った少年だったが、きっと言っても無駄なので言いはしない。そして、王の相変わらずの愛情表現にも、特にこれといった反応を返そうとは思えなかった。
しかし、いくら穏やかな落下であるとは言え、未だ上空にいる状況で会話をこなす余裕があるというのは、普段の少年ではあり得ない話だ。恐らくはまだ少年も自覚していないのだろうが、これは、少年が王を深く信頼し始めているということを示していた。
王と少年が降り立ったのは、城下町の中でも一際の賑わいを見せている商店街の一角だった。王の言葉通り、この国の国民たちにとって王が空から降ってくるのは割とよくあることらしく、大騒ぎになることはなかった。これは少年が後から聞いた話だが、あまり大騒ぎをするとロンター宰相を始めとする臣下一同に居場所がばれやすくなるから配慮してくれ、と日頃から王に頼まれているらしい。
だがしかし、そうは言っても王の来訪は王の来訪である。大騒ぎにこそならないが、ちょっとした騒ぎにはなった。
しかも何故か少年の存在は既に国民の知るところとなっていて、その上国王の恋人とかいう勘違いも甚だしい認識をされてしまっていたせいで、少年までも国民の注目の的になってしまったのだ。
他人が苦手な少年にとって、注目を浴びるなど死ぬほど避けたい事態であったし、もしかするとお前みたいな汚い奴が国王陛下の恋人を名乗るなと罵られてしまうのでは、という心配もしたのだが、国民は皆、少年を歓迎しているようだった。
そういえばレクシリアが、王が選んだ人間を民が貶める訳がない、と言っていた気がする。つまり、王の選択に間違いなどある筈もないから、王が選んだのならば民は何の疑いもなく受け入れる、ということなのだろうか。
とにかく、国民たちに悪気がないのはなんとなく察せられたのだが、それでも群がられるのはあまり好ましくはないのだ。恋人様恋人様と言って、やたらと店の売り物をプレゼントしてくれようとする人々に対応しきれず、少年は思わず王の服の端をきゅっと握り締めた。
そんな彼に何を思ったのか、王は不意に、自身が纏っていた外套で少年をすっぽりと覆い隠してしまった。
「キョウヤが可愛らしくて話しかけたい気持ちは良く判るが、この子は人見知りでな。できればそっとしておいてはくれんか? それに、そうあれもこれもと商品を渡されては持ち切れんだろう。こうして贈り物をしてくれようという気持ちは嬉しく思うが、私への贈り物など税金だけで十分だ」
そんな王の言葉に、国民たちがどっと笑う。
「いやですわ陛下。税金は結局私たちのために使われるんですから、全然贈り物になっていないじゃありませんか」
「いやいや、国民の血税で豪遊させて貰っているとも。それに税金の全てが国民のために使われていると思ったら大間違いだぞ? 税で私腹を肥やすというのは貴族の常套手段だからな」
至極真面目な声で王がそう返せば、またもや皆が笑う。
「それでは陛下への贈り物は税金ということにするとして、恋人様への贈り物ならいかがですか?」
またもや上がった声に、王は軽く難しい顔をしてみせた。
「キョウヤへの贈り物は私がするから良いのだ。私の楽しみを奪わないで貰おうか」
「はははっ、陛下は意外と嫉妬深くていらっしゃる!」
「でもそういうことなら仕方ないわねぇ」
「そうだなぁ。それじゃあそろそろ諦めて仕事に戻るとするか。あんまり騒いでると、怒りのロンター宰相様に陛下が見つかっちまう」
やいのやいのと楽しそうに騒いでいた国民たちだったが、意外なことにそれ以上は王や少年に構うことなく、あっさりと解散していった。
国民が随分と親し気に王と会話をすることにも驚いた少年だったが、こうして簡単に引き下がったことにも驚いてしまう。
少年は知らないことだが、赤の国における当代の王と国民は、他国と比べると異常なまでに距離が近く、だからこそ王の来訪をそこまで特別視していないのだ。
国王陛下は、本当に必要なときに求めたならば、必ず直接会って話を聞いてくれる。だから、国王陛下と言葉を交わすことは、特別なことでもなんでもない、国民に等しく与えられた権利なのだ。
その信頼があるからこそ、国民は皆、王を引き留めようとはしない。グランデル王国における当代の国王とは、玉座に座る統治者ではなく、国民たちの手を直接取って導いてくれる先導者のようなものなのだ。
「やれやれ。私も物珍しさが薄れたのか、最近は国民たちがここまではしゃぐこともなくなってきたのだが、今日はお前がいるから珍しく大盛り上がりしてしまったな」
そう言った王が、外套の覆いを外して少年を解放する。少しだけ眩さを感じる目に映った景色には、二人を囲む民の姿はもうなかった。その代わり少年は、立ち並ぶ店で働いている店員や、行き交う人々の柔らかな視線を感じた。それはこちらを凝視するような不躾なものではなく、悪意の籠った恐ろしいものでもない。ただ、見守るような視線が、時折こちらに向けられるのだ。
なんだか温かな何かに包まれているような気持ちがしてしまって、それはそれで居心地が悪い。
そんなことを考えていた少年の手を、王がそっと握った。少しだけびっくりして身体を震わせた少年の頭を撫でてから、王がそのまま歩き出す。
「レクシィに連れ戻されるまで、デートを楽しむとしようか。なに、あれもそこまで無粋者ではないからな。なんだかんだ言っても、多少の時間はくれるはずだ」
「は、はぁ」
デート、と言うが、一体何をするというのか。そもそも、王と一緒にいるせいで誰かとすれ違うたびに声を掛けられたり頭を下げられてしまうので、デートを楽しむどころではない。国民も心得ているのか、引き留められたりすることはなかったが、それでもやはり注目を浴びているのは落ち着けなかった。いや、そもそもそうでなくたって、王とのデートを楽しめるとは思えないが。
大人しく王に手を引かれていると、彼はとある店の前で立ち止まった。
「ここに寄りたいのだが、構わないか?」
適当に城下を見て回るのかと思っていたのだが、どうやら目的地があったらしい。
(え、本当にここに入るのかな……)
少年としては別にどの店に入ろうがどうでも良いので頷いて返しつつ、まじまじと店の外観を見た。
女性受けしそうなデザインで纏められた看板と、表から見えるショーウィンドウに並ぶ可愛らしいぬいぐるみたち。
きっと、ここはぬいぐるみを扱う店舗なのだろう。といっても、一般の子供向けの店というよりは、どちらかというと貴族の子供や女性が来るような店のように見える。よくよく見れば、ショーウィンドウに並んでいるぬいぐるみたちも縫製がしっかりしており、高級そうだった。
なんにせよ、この大柄で逞しい国王にはあまり似合わないお店だなぁと少年は思った。
「邪魔をするぞ」
そう言いながら扉を潜った王に引かれて入店した少年は、目の前に広がった光景に小さく感嘆の声を漏らしてしまった。
ほどよい明かりに満たされた店内には、アンティークなのだろう木製家具がセンス良く置かれており、床は複雑な模様が織り込んである絨毯で覆われている。そして、机や棚には予想以上に多くのぬいぐるみが置かれていた。よく見回せば、ぬいぐるみ以外にも女性が好みそうな櫛や手鏡などの雑貨もある。
見ているだけで楽しくなるような空間だったが、一応は職人のはしくれである少年には、並ぶ品々が全て高価なものであることがよく判った。やはり、あまり庶民が馴染めるような店ではなさそうだ。そしてそのことに気づいてしまうと、なんだかこの絨毯を踏んでいることすら申し訳なくなってしまう。
もういっそ外で待っていようかなどと考え始めたあたりで、店の奥から初老の男性が出てきた。
「いらっしゃいませ、ロステアール国王陛下」
「先日は世話になったな、店主。今日はあのとき約束したものを取りに来たのだが、準備は終わっているだろうか?」
「勿論でございます。……そちらのお方が、陛下の恋人様でいらっしゃいますか?」
男性の問うような視線を受けた少年は、一瞬固まってから、対外向けの白熱電球のような笑みを返した。
「あの、皆さんそう勘違いされているのですが、恋人ではないです」
「おや、そうなのですか?」
「そうなのだ。私の精進が足らぬようで、なかなか振り向いて貰えなくてなぁ。どうすればもっと魅力的な男になれるのだろうか」
至極真面目な表情で言われた言葉に、少年は慌てて王を見た。
「あ、あの、貴方、僕、そういうつもりはなくて、あの、だって、貴方は十分すぎるほど魅力的だと思いますし、その、」
国王陛下に失礼な態度を取ったなどと思われては、自国の王が大好きらしい国民たちからなんと罵られるか判らない。そう思っての弁明だったのだが、王は嬉しそうな顔をして少年を見下ろしてきた。
「そうか、魅力的だと思うか」
「え、ああ、はい」
「では、美しいだろうか?」
そう言った王が、少年の頬に手を当て、顔を覗き込んで来る。咄嗟のことに回避することもできず、少年は炎の滲む瞳を真正面から受け止めてしまった。これでも随分慣れてきた方ではあるのだが、それでもこの金の瞳は毒である。結局思考が鈍ってしまった少年は、王の瞳を見つめたまま、とろりと小さな声を漏らした。
「……うん、あなた、すごくきれい」
「……ああ、私もお前を愛しているよ」
心地よい低音が少年の耳を擽り、薄く開かれた唇に、王のそれがそっと重なった。
相変わらず、熱のこもった唇だ。この人は手も温かいから、もしかすると体温が高い人なのかもしれない。
ぼんやりとそんな考えが浮かんだ少年だったが、口づけと同時に王の目が閉じられたことで、はたと我に返った。そして、自分が今いる状況を思い出して、羞恥にぶわりと頬を紅潮させる。だがその直後、国王が汚い自分に口づけている現場を国民に見られてしまったという恐怖に、今度はさっと青褪めた。
赤くなったり青くなったりとしている少年の様子に、王も気づいたのだろう。名残惜しそうに唇を離した王は、少年を落ち着けるように優しく頭を撫でた。
「どうした?」
「あ、あの、ぼく、」
「こらこら、そう恥ずかしがるものではないし、怯えるものでもないぞ。キョウヤは忙しい子だなぁ」
全く納得がいかない評価を下された気がするが、今はそれどころではない。とにかく弁明と謝罪をしなければと、慌てて店主の方を見れば、初老の彼は、何故だかとても穏やかな表情を浮かべていた。
「あ、て、店主さん、あの、本当に申し訳ありません。僕、こんなつもりじゃなくて、」
「いやはや、陛下は本当に貴方様を想っていらっしゃるのですね。お二人の幸せそうなご様子を拝見することができ、私もその幸福をひと欠片分けて頂いたような心地です」
「え、……あ、……はあ……」
幸せそう、だっただろうか。いや、国王の方はそうだったのかもしれないが、少なくとも少年は寧ろ死にそうだった。
「その通りだとも。これほど誰かを愛しいと思ったことはないのだ。私は間違いなく、世界で最も幸せな男だ」
うんうんと頷く王に、大変申し訳ないけれどちょっと黙ってて欲しいなぁと少年は思った。
「ふふふ、恋人様も自身を恋人ではないとおっしゃいますが、照れ隠しのようなものなのでございましょう。確かに、国王陛下の恋人というのは重圧でしょうから。躊躇われるのも無理はないことです」
(あ、この台詞、前にどこかで聞いたことあるな……)
聞いたことがあるもなにも、ほぼ同じ台詞をレクシリアにも言われている。
「重圧など感じなくても良いのだがなぁ。私など至る所で馬鹿王だのポンコツ王だのと罵られているのだし、そう構えることもないだろうに」
「何を仰られますか。陛下は間違いなく、円卓の連合国始まって以来の最高の王陛下であらせられます。これ以上の重圧もありますまい」
「こらこら、これではますますキョウヤが構えてしまう。キョウヤ、何も心配をすることはないのだぞ? お前がいてくれれば、私はそれだけで良いのだから」
「は、はあ……」
こうなるともう、勘違いを正そうなどという気は欠片も起きなくなってしまう。というより、恐らく正そうと思って正せるものではないのだろう。
曖昧な微笑みを浮かべた少年の頬に、王がもう一度キスを落とす。この王がやたらとキスをしたがる性分なのはなんとなく判っていたが、せめて人前ではやめて欲しいと少年は思った。思ったが、言っても多分無駄なので言いはしない。色々と諦めているのだ。
「では、例のものを持ってきてくれ」
「ああ、そうでした。少々お待ちくださいませ」
深く一礼して店の奥に消えた店主だったが、ほどなくして、荷台のようなものを押しながら帰ってきた。
「お待たせ致しました。どうぞご確認くださいませ」
そう言った店主が持ってきた荷台の上に乗っていたのは、毛足の長い生地で縫製された、やたらと大きなテディベアだった。
珍しい赤銅色の毛並みをしたそのぬいぐるみは、少年の胸の高さほどはあるだろうか。とにかく、これまで少年が見たことがない程度には大きかった。両目の部分に縫い付けられている、金色の中に赤が滲んだような不思議な色合いの瞳は、恐らくガラス玉ではなく宝石の類だろう。サイズも素材も規格外と称せる部類のものである。
「……この子、陛下に似てる……」
赤銅の毛は王の髪を思わせるし、金の瞳だって、王の瞳にはとても及ばないが、揺れる炎のような色をちらつかせていた。
そんな少年の呟きに満足そうに微笑んだ王が、台車に乗ったぬいぐるみを抱え上げる。そして彼は、抱えたそれを少年に差し出してきた。
「え、あ、あの……?」
ものすごく困惑した声を出した少年だったが、そんな彼に、笑顔のままの王はテディベアをぐいぐいと押し付けてきた。
「あ、あの、」
もふもふの毛並みが少年の頬を撫でる。さすがは高級品だ。肌触りが極上である。しかし、だからといって押し付けられても困るのだ。一体これをどうしろと言うのか。もしかすると、会計を済ますから持っていてくれと言うことなのかもしれない。なるほど、確かにこんな大きなものを抱えていては、財布を取り出すのも一苦労だろう。
(でも、だったら台車に置いておけば良いのになぁ)
そう思いつつ、少年がおずおずとぬいぐるみに腕を回す。両腕を使ってなんとか抱え上げたところで、するりと王の腕が離れていった。やはり、持っておいて欲しいということだったのだろう。こういった綺麗なものに触れると汚してしまいそうで嫌なのだが、仕方がない。
「手触りはどうだ?」
「え? ええと……、とってももふもふしてます」
「そうか! 気に入ったか?」
全く話が見えない少年だったが、気に入ったか気に入らないかで言えば気に入ったので、素直にそう答えておいた。
「それは良かった! いや、無理を言って展示品を譲って貰った甲斐がある」
「展示品……?」
少年の疑問には、優しそうな笑みを浮かべた店主が答えた。
「このテディベアは、ロステアール国王陛下が即位されたときに記念として製作し、この店に飾ってあった展示品なのですよ。販売目的で作った訳ではない一点ものなので、本来であれば売りに出すことはないのですが、国王陛下がどうしてもと望まれたので、この度お譲りさせて頂くことになったのです」
「は、はあ……」
そこまでしてこのテディベアが欲しかったのだろうか。なんというか、見た目に似合わない趣味をお持ちなんだなぁ、と少年は思った。
「キョウヤが気に入ってくれたようで何よりだ。非売品ゆえ値段はつけられぬという話だったが、その心遣いに対する感謝の気持ちとして、受け取って貰いたい」
そう言って、王が小さな布袋を店主に渡す。迷うような表情を見せた店主だったが、王の厚意を無下にする訳にはいかないと思ったのだろう。深く頭を下げてから受け取っていた。
(きっと、あの袋の中には、僕が思っている以上のお金が入っているんだろうな……)
少年は庶民なので具体的な金額までは判らないが、このぬいぐるみを商品として買おうとすれば、かなりの値段になる筈である。国王はやはりお金持ちなのだなぁなどと呑気に思っていると、王に頭を撫でられた。
「では、それはお前への誕生日プレゼントだ」
「…………は?」
言われた意味が判らず、間の抜けた声が出てしまった。
「ええと……今、なんて……?」
「だから、お前への誕生日プレゼントだ。私ばかり祝って貰うというのは不公平だろう?」
「……えっと……、」
色々とつっこみどころが多すぎて、何から指摘すれば良いのだろうか。
「あの、僕、別に今日が誕生日とかでは……」
「知っているとも。誕生日を訊いたら判らんと教えてくれたのはお前ではないか。ただ、冬生まれなのだろうと思うとは言っていただろう?」
そうなのだ。少年は自分の誕生日を知らない。冬生まれだろうというのも、冬になると母の機嫌が普段以上に悪くなった気がしたので、きっとそのあたりが自分の生まれた時期なのだろうと感じただけだった。だから、本当は冬に生まれたというのも真実かどうかは判らない。だが、この前王に誕生日を尋ねられた時はそこまで詳しく話す気にはなれず、正確な日付は判らないが多分冬に生まれたのだと思う、という旨を伝えたのだった。
「日付が判らぬのは仕方がない。しかし、判らぬからと言って祝わぬ訳にもいくまい。という訳で、これは誕生日プレゼントなのだ」
「は、はぁ……。え、いや、でも、こんな高価なものを頂く訳には、」
「私が受け取って貰いたいのだ。……駄目か?」
悲しそうな顔をした王が少年を覗き込み、金の瞳が真っ直ぐに隻眼を見つめる。
「っ、」
ああもう、その目で見つめられてしまったら、否定なんかできる筈がないのに。
「……あなた……ずるい……」
少年がその金の瞳に弱いことを知っているのかいないのか。それは判らないが、ほんの僅かだけれど非難するような呟きに、王はとても幸せそうに微笑んだのであった。
7
あなたにおすすめの小説
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
人気アイドルグループのリーダーは、気苦労が絶えない
タタミ
BL
大人気5人組アイドルグループ・JETのリーダーである矢代頼は、気苦労が絶えない。
対メンバー、対事務所、対仕事の全てにおいて潤滑剤役を果たす日々を送る最中、矢代は人気2トップの御厨と立花が『仲が良い』では片付けられない距離感になっていることが気にかかり──
異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる
七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。
だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。
そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。
唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。
優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。
穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。
――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。
(無自覚)妖精に転生した僕は、騎士の溺愛に気づかない。
キノア9g
BL
※主人公が傷つけられるシーンがありますので、苦手な方はご注意ください。
気がつくと、僕は見知らぬ不思議な森にいた。
木や草花どれもやけに大きく見えるし、自分の体も妙に華奢だった。
色々疑問に思いながらも、1人は寂しくて人間に会うために森をさまよい歩く。
ようやく出会えた初めての人間に思わず話しかけたものの、言葉は通じず、なぜか捕らえられてしまい、無残な目に遭うことに。
捨てられ、意識が薄れる中、僕を助けてくれたのは、優しい騎士だった。
彼の献身的な看病に心が癒される僕だけれど、彼がどんな思いで僕を守っているのかは、まだ気づかないまま。
少しずつ深まっていくこの絆が、僕にどんな運命をもたらすのか──?
騎士×妖精
龍の無垢、狼の執心~跡取り美少年は侠客の愛を知らない〜
中岡 始
BL
「辰巳会の次期跡取りは、俺の息子――辰巳悠真や」
大阪を拠点とする巨大極道組織・辰巳会。その跡取りとして名を告げられたのは、一見するとただの天然ボンボンにしか見えない、超絶美貌の若き御曹司だった。
しかも、現役大学生である。
「え、あの子で大丈夫なんか……?」
幹部たちの不安をよそに、悠真は「ふわふわ天然」な言動を繰り返しながらも、確実に辰巳会を掌握していく。
――誰もが気づかないうちに。
専属護衛として選ばれたのは、寡黙な武闘派No.1・久我陣。
「命に代えても、お守りします」
そう誓った陣だったが、悠真の"ただの跡取り"とは思えない鋭さに次第に気づき始める。
そして辰巳会の跡目争いが激化する中、敵対組織・六波羅会が悠真の命を狙い、抗争の火種が燻り始める――
「僕、舐められるの得意やねん」
敵の思惑をすべて見透かし、逆に追い詰める悠真の冷徹な手腕。
その圧倒的な"跡取り"としての覚醒を、誰よりも近くで見届けた陣は、次第に自分の心が揺れ動くのを感じていた。
それは忠誠か、それとも――
そして、悠真自身もまた「陣の存在が自分にとって何なのか」を考え始める。
「僕、陣さんおらんと困る。それって、好きってことちゃう?」
最強の天然跡取り × 一途な忠誠心を貫く武闘派護衛。
極道の世界で交差する、戦いと策謀、そして"特別"な感情。
これは、跡取りが"覚醒"し、そして"恋を知る"物語。
【WEB版】監視が厳しすぎた嫁入り生活から解放されました~冷徹無慈悲と呼ばれた隻眼の伯爵様と呪いの首輪~【BL・オメガバース】
古森きり
BL
【書籍化決定しました!】
詳細が決まりましたら改めてお知らせにあがります!
たくさんの閲覧、お気に入り、しおり、感想ありがとうございました!
アルファポリス様の規約に従い発売日にURL登録に変更、こちらは引き下げ削除させていただきます。
政略結婚で嫁いだ先は、女狂いの伯爵家。
男のΩである僕には一切興味を示さず、しかし不貞をさせまいと常に監視される生活。
自分ではどうすることもできない生活に疲れ果てて諦めた時、夫の不正が暴かれて失脚した。
行く当てがなくなった僕を保護してくれたのは、元夫が口を開けば罵っていた政敵ヘルムート・カウフマン。
冷徹無慈悲と呼び声高い彼だが、共に食事を摂ってくれたりやりたいことを応援してくれたり、決して冷たいだけの人ではなさそうで――。
カクヨムに書き溜め。
小説家になろう、アルファポリス、BLoveにそのうち掲載します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる