胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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拾の抄 初恋

其の伍

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 ────。
 細い砂利道の坂をのぼる。
 石造りの説明板ののち、ゆるやかな坂道をゆくとやがてかぼちゃ畑が広がっている。
 葉っぱに紛れたところに、その看板は立っていた。

 仙石は胸に下げたカメラを構える。
「ここがその、矢大臣山麓にあったと言われる篁邸跡──」
「正しくは岑守邸とちゃうやろかと思うけどなァ。なにかと篁が目立ってしもうてるが、国司として活躍したんは父親のはずやで」
「知名度の差でしょうかね」
「こっちに愛子の墓があるらしいぞ」
 と、潮江が元気よく細い小道をのぼってゆく。なんだか探検の気分だ、と環奈も上機嫌にあとへ続いた。
 すこし険しい道になる。
 小町は当然のように廿楽の手をつかんだ。
 その意図を察したか、すこし困惑気味の彼がめずらしく慎重に小道を進んでやる。
 目的地である『愛子の墓』、ほどなくした場所にそれはあった。
「あった。あったよ小町ちゃんッ」
「五輪塔か」
 仙石がカメラを構えた。
 鬱蒼とした木々に覆われるなか、苔のむし生えた五輪塔が粛然と立っている。

「市役所の人が言うててんけどな、ここはたまにお参りにくる人もいてるみたいやで」
「へえ。──そういうのを聞くと、本当の墓の存在意義を実感させられる」
「せやなァ」
 浜崎はうなった。
 彼女が、本当にこの場所に埋葬されたのかは定かではない。
 しかし少なくとも、かつて愛子という人間がこの世に生きたという証だけは、この五輪塔が道行く人々に示しているのだ。
 小町は膝を折って五輪塔の前にしゃがみ込む。
 合掌して、
「おたあさま。来ましたよ」
 とちいさくつぶやいた。
 いままで来られずごめんなさい──。
 心のなかで懺悔する。
 もう、顔だってほとんど覚えていない。ただひとつ記憶に残るのは、自分を膝の上に乗せてぎゅうと抱きしめてくれたそのぬくもりだけ。
「…………」
「小町ちゃん──」
「環奈。この先、神社があるんですって。でも小町はすこし疲れてしまったゆえ、ここで休んでいきます。みなさまが帰ってくるのを待っているから行ってらして」
 と小町は微笑んだ。
 尻が汚れるのもかまわずに、五輪塔の前にちょこんと腰をおろす。
「ひとりで待ってるんか、小町さん」
 と浜崎が眉を下げた。
 新幹線で仙石と話した内容を思い出す。
 ──ほっぽらかしたら、攫われてしまうかもしれん。
「いやそれは不安……」
「じゃあ俺がいっしょについててやる」
 と手をあげたのは廿楽だった。
 いえ、と小町は目を見開く。
「それは廿楽さまにわるいわ。せっかくの山登りですのに」
「なぁに。それほどの距離じゃないのならみんなが戻ってくる姿が見えたら、一往復ダッシュしてくるから」
「…………」
 その発想はなかった、と小町は絶句する。
 まさに体力オバケといったところか。しかしそれを聞いた浜崎はくっくっと肩を揺らしてうなずいた。安心したような顔をしている。
「そういうことならさっさと行ってくるか。ちょお待っとれよ」
「おう!」
 廿楽は、元気よく拳を突き上げる。
 こうして廿楽と小町をのぞく一行は、次の目的地である珍敷御前神社へと向かった。

「おい、ケツがよごれるからこれを敷け」
 と、廿楽は腰に巻いていた淡色のシャツを取って小町に渡す。
 ちらと自分の白いワンピースを見て「ああ」とつぶやいた。
「ありがとう──」
「お前ってそんなに体力なくてよく生きてきたなァ」
「えっ、あ。そう、そうね……でも生き方がいまとだいぶ違ったから」
 平安貴族──とくに女性はただひたすら男の訪問を待つのみ。性行為以外の激しい運動などはもってのほかで、移動も基本は牛車である。あまりにも歩かないために足が退化していたとも言われているくらいだ。
 小町は得意気にわらう。
「なれど、小町だっておのれの足で旅をしました」
「へえ。どこへ?」
「陸奥──このあたりです」
「なんだ。来たことあるのか」
「かか様に会おうと思って……」
「お前のかーちゃんはこのあたりに住んでるんだな」
 と廿楽もどかりと腰をおろす。後ろ手をついてぐいと首を伸ばし、空をあおいでいる。
 立派なのど仏をぼんやりと眺めてから「もう」とうつむいた。
「死んでしまっていて、会えませんでしたけど」
「エッ、知らなかったんか?」
 パッと小町を見る。
「うん。お墓があることだって知らなかった」
「ふうん──そんなもんかァ」
 そして廿楽はふたたび空に視線を戻した。
 深く考えない質だからありがたい、と小町は内心で苦笑する。

 かつて。
 一線を退いてのち、父も死に、衰えゆくおのれの美貌も才もなにもかもがいやになったときにふと思い立った。──そうだ、母に会いにいこう、と。
 ちょうどその頃、歌人仲間が三河に転勤となるにあたり「共に行きませんか」と誘いを受けていたこともあって、途中までは彼とともに旅に出た。
 三河を越えてさらに先。
 武蔵から陸奥へいく道程のなかで、己の人生を反芻する時間があった。
 絶世の美女。
 歌才にすぐれ女としての栄華を極めた小野小町──そんな肩書の代償に、いまは寄る辺もなくただひとり根無し草のようにさまよう己がいる。
 自分の生き様、好きで選んできたこの一生は果たして正解だったのか──。
 そんな、後悔とも寂寞ともとれぬ情のなかでこの地を訪れた。
「…………」
 ほろりと小町の瞳から涙がこぼれた。
 廿楽が、ぎょっとしてわずかに身を引く。
「なんだどうした突然」
「どちらがしあわせだったのだろう、とおもって」
「へェ?」
 ぐい、と小町は荒々しく涙をぬぐった。
「好きに生きたはずなのに、その果て、今わの際に──そばにだれひとり居てくれないのかと思うと、みょうにおそろしくなってしまいました」
「…………」
 人はどうして、なにかを選択せねばならぬのだろう。
 選ばれなかった選択肢に見える景色は、どんなものだったのだろう。
 小町はいまだに、未練を抱えているのかもしれない。
 自分が捨ててきた選択肢の先にあったはずの、『しあわせ』を。

「おまえ」
 と廿楽がいった。
「若いのに余計なことを考えるンだなァ」
 感心したような声色である。
 小町はぐいと涙をぬぐって廿楽を見上げる。
「お前は体力なさそうだからきっと俺のほうが長生きするだろ。だからそんなにひとりで死ぬのがこわいなら、俺が会いに行ってやる。おまえが死ぬまでずーっと手を握っていてやるよ」
「…………」
「それならもうこわくないだろ。また嫌なヤツがいるなら蹴っ飛ばしてやるし、枕元で子守歌だって歌ってやる。なっ、そうおもったら死ぬのが待ち遠しいだろう!」
 と、彼は太陽のように笑った。
 開いた口がふさがらない小町は、しかしやがておかしくなってクスクスと肩を揺らす。一分前に泣いていた自分が霞むほどに、たちまち小町は腹をかかえて大笑いをした。
 死ぬのが待ち遠しいだろ、なんて。
 この人でなければ嫌味にすら聞こえてしまう──。
「つ、廿楽さま……ほんとうに? ホントにそばにいてくださる?」
「おう。死にそうなときは教えてくれ」
「アハハハッ」
 彼は真剣だ。
 きっと、本当に「死にそう」といったら、どこにいたってすっ飛んできてくれる男なのだ。
(おたあさま、ごめんなさい)
 小町は内心でひっそりと思う。
 ──おたあさまが『死にそう』といったって、きっとおもうさまは駆けつけなかっただろうに。
(つかの間のしあわせだけど、見せつけてしまったわ)
 そして小町は立ち上がって五輪塔に向き直る。
「廿楽さまが」
「うん?」
「あの頃、そばにいてくださっていたら──きっと小町はいまここにいなかったかもしれません」
「?」
 あの和歌だって、うたうことはなかったかもしれない。
 そんな言葉は呑み込んだ。
 が、廿楽はけろりとわらった。
「いつそばにいようがなんも変わらんと思うぞ。俺は俺で、お前はお前だ」
「…………」
 嗚呼──。
 この人のこういうところがほんとうにまぶしい。
 小町は困ったように、しかし心から嬉しそうにわらった。

 一方そのころ。
 浜崎一行は、珍敷御前神社を抜けて、さらにその先。
 『鬼石』と書かれた場所に来ていた。
 その石のあまりの大きさに環奈は目を丸くする。
「わーッデッケー岩!」
「冥府の伝説をもつ篁らしいな。こんなところにも鬼が絡んできはるんや」
「鬼なんて穏やかとちゃうやないけ。どれどれ」
 仙石と潮江は説明文に目を通す。
 簡単にまとめると、この巨大な石の上にたたずみ、遠くに見える大滝根山を眺めては帰らぬ篁と比古姫へ想いを馳せていた──とのこと。
 その様子を知った鬼が徒党を組み、愛子や侍女にいたずらを仕掛けて館にまであがってきて皆を困らせた。郷民たちは立ち上がり、愛子の替え玉をつかって石のもとへ鬼をおびき寄せると、多勢の武将隊を用いて制裁をくだした。
 鬼たちが石の上で改心を誓ったことから、以後この大石を『鬼石』と呼ぶようになった、とか。
 浜崎は複雑な顔をした。
「皮肉やな、殿上人として出世した代償に京から出ることもなくなって、──もはや会いに来られんくなるとは」
 そのとなりで環奈はぼうっと石を見上げた。
「愛子ちゃん、それでもずっと、ずーっと待ってたのネ」
「…………」
 愛だ恋だということにはめっきり興味のないらしい潮江でさえ、しみじみと感じ入っている。

「都にいた、篁は」
 忘れてもうたんやろか──と。
 仙石がうわごとのようにつぶやいた。
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