落ちこぼれの半龍娘

乃南羽緒

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第十三章

71話 この世界の事

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 朝の九時をまわったころである。
 カンカンカンカン、とけたたましい鐘の音で水緒は目が覚めた。
 昨夜の出来事を思い出して布団から跳ね起きると、またしてもとなりに月子がいなかった。見れば雪丸のすがたも布団から消えている。
 いったいどこに、と周囲を見渡すと、阿吽龍がぐったりと倒れていることに気がついた。
「あ、阿龍! 吽龍ッ」
 あわてて駆け寄ろうと足に力を込めたとき。
 ずしり、と急に身体が重くなった。
 なにかを背負う──というよりは、空気自体に重量が生まれたかのような感覚。どうにも息苦しくて、吐き出す息がぜえ、と荒くなる。
「どうしたの、ふたりとも。しっかりして……」
「う、……み、水緒さま」
「お逃げくだされ、水緒さま」
「え?」
 震える声で彼らは言った。
 すばやく周囲を見渡しても、特段あやしいものは見当たらない。ただ『空気が重い』という違和感があるだけだ。
 しかし、吽龍は歯をくいしばって上体を起こした。
「残党、……残党狩りが、この村を襲っております。おそらくは昨日、鶺鴒山の麓で見た戦の名残でしょう」
「誰にやられたの。阿龍も吽龍もこんなに苦しそうに」
 と、水緒が吽龍の上体を抱きしめてやる。
 となりで壁にぐたりともたれていた阿龍が、わずかに首をもたげた。息荒く、絶え絶えに「申し訳ございません」とつぶやいた。
「水緒さまも先ごろより、お気づきかと思いますが……この邪気。つい先刻より急に穢れが強まりました。これほどの穢れた気は私たちも初めてで力及ばず、気を失ってしまい──気がつけばあの姉弟のすがたも」
「そんな……どうしたらいいの。まず、お前たちを助けるには!」
「宝珠を、宝珠をもって言霊を唱えるのです。われら使役龍は、宝珠の力があれば何度でもよみがえります」
「宝珠。そうか」
 あわてて父から授かった如意宝珠を手にとった。
 こんな場合に効く呪文など、あるのだろうか──水緒の眉が下がる。しかし阿吽龍はツラい身体をおしてにっこりと微笑した。
「大丈夫です、水緒さま」
「宝珠を信じなされ」
「……うん」
 水緒は目を閉じた。
 いま、阿龍と吽龍を救う言霊を教えてほしい──。
 心のなかで宝珠に語りかける。すると宝珠は水緒の鼓動を刻むようにトクトクと光った。それと同時に浮かび上がるは、新たな言霊。

吾大君あがおおきみ天津大龍あまつわだつみ、穢れを流す潅水みぞぞぎ御恵みめぐみを──阿吽の龍へ与え給え」

 宝珠が光った。
 すると阿吽龍の身体も光に包まれ、そのすがたは人型から龍へともどってしまった。
 しかしその頭上に雲が立ち込めてたちまち雨が降り注がれると、ふたりの身体は水をみるみる吸収して、険しくゆがんだ顔はすっかり安らぎをとり戻す。
 人型になった顔色は、昨日ほどよくはないものの、その背筋はいつもと変わらず凛と伸びていた。
 水緒は申し訳なさげにふたりを見上げる。
「まだ、ツラい? ごめんね。あたしが未熟なばっかりに」
「いいえ、ありがとうございます。だいぶ楽になりました」
「それにこれは未熟云々の問題じゃない。この穢れが、大龍さまのお力をもってしても──浄化しきれぬものであるということです」
「…………お、お父さんの力でも浄化できない穢れってこと?」
 サッと水緒の顔が青ざめた。
 するとふたたび、カンカンカンカンとけたたましい音が響き渡る。阿龍はハッと立ち上がった。
「月子さまと雪丸さまを探さねばッ」
「あのふたりならきっと、村の人たちが安全な場所に連れてってくれたんだよ」
「否」
 と、吽龍は水緒のことばを一刀両断で返した。
 彼はぎろりと水緒すらも睨みつける。
「昨夜の事をお忘れですか、水緒さま」
「…………」
「その明鏡止水のごときお心はすばらしいが、人間というのは──水緒さまのような方ばかりではございません。表面の水は綺麗でも、すこし掬えば汚泥が混じる者もいるようですから」
「……う、吽龍」
 ドキリとした。
 吽龍はひどく怒っている。しかしその彼を諌めることなく、黙ったままの阿龍もまた、怒りを胸にはらんでいるようだった。
 月子を救出した直後だって、これほど怒ってはいなかったというのに──。
 カンカンカンカン。
 三度目の鐘が鳴る。
 阿龍がパッと玄関の戸を開けた。
「外に出ましょう。家が焼け落ちるかもしれません」
「うん」
 水緒は荷物を手に外へ飛び出す。
 と、同時に尻餅をついた。

「ギャッ」

 目の前で、村の女が倒された。
 うしろにはボロボロの甲冑を着けた男がひとり。下卑た笑みを浮かべて、女の背に鍬を突き立てる。
 鍬の柄は、女の身体から垂直にたち伸びた。
 男は、水緒の存在に気付いていないのか、女の衿をむんずと掴み、力に任せて引きちぎる。そしてすでに息絶えた女の身体にむしゃぶりついた。
「…………」
 動けなかった。
 まばたきすら出来ず、水緒はその光景を食い入るように見つめる。
 阿吽龍が動いた。
 水緒の手を引き、鶺鴒山方面へと駆け出した。

「家が──家がァ」
「逃げるんだっ、はやく」
 
 地獄絵図だった。
 逃げまどう人々、焼け落ちる家。
 刀を振りかざして食糧を奪い取る鎧武者──。
 映画で観るよりもずっと、ずっとあっさりしていた。人が死ぬのも、肉が焼ける臭いも、特別なエフェクトなどなにもない。
 ただ、死んで、焼けていく。

「水緒さまッ」
 阿龍がさけぶ。
 気がつけば吽龍がいない。龍となってひと足先に鶺鴒山へと向かったようだ。
「もしや、月子さまたちはあの石窟で水守さまの助けを待っておるやもしれません!」
「……あ」
 水緒の脳裏に昨日の記憶がよみがえる。

 ──それに、ここにいたらいつも水守さまが助けにきてくれるから。

 たしかに月子はそう言った。
 ひとつの仮説を立てました、と阿龍は駆ける足をすこしゆるめた。
「この世界のことです。確証を得たわけではありませんが──ここはもしかすると、紅来門の大戦の前、水守さまが人々とともに共存していたころの世なのではないでしょうか」
「えっ?」
「そう考えれば、あの山が鶺鴒山だというのもうなずけます。昨夜のうちに確認したところ、山から大龍神社までの距離も、道のりこそ違えどキョリはそう変わりませんでした」
「…………」
「この穢れの強さ、水守さまの欠片がどこかにあるからかもしれません。そして欠片の持っている記憶が、この世界を作り出しているとしたら──?」
 記憶が、世界をつくる?
 水緒はこれまで見てきた欠片の記憶を思い出す。
「ましてその記憶が、野良になるきっかけの出来事を包有しているとしたなら。これほど穢れが強くなるのも当然です!」
 なるほどたしかに。
 言われてみれば、これまで見た記憶のなかに野良になるきっかけの出来事はなかった。
 そして荒廃したこの世界──。
 阿龍はつづけた。
「いったいなぜ、禍津陽とはいったい──疑問はいまだ多いですが、もしそうならばひとつ言えることがあります」
 村から離れて、まもなく鶺鴒山山道に入る道へとたどりつく。

「あくまでこれは試練である、ということです。水緒さま」

 念を押すように、阿龍はいった。
「試練、……」
「水緒さまが遂行するべきは、浄化の雨を降らすこと。それをお忘れなさいますな」
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