英雄のいない夏

乃南羽緒

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第一章 保坂ロイ

旧棟の秘密

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 『旧棟』──。
 島南側に建つ箱形の施設は、島の中心地から車で走ることおよそ三十分の距離にある。とはいえ、地上から向かっても建物に入ることはおろか近付くこともできない。島民が近寄れぬよう、建物の周囲三十メートルに電流の通るフェンスがそびえ立っているからだ。
 監獄のごときその様相に、ロイはごくりと唾を呑んだ。
「本当にここで働くのか、オレ」
「一文字社との契約上はな。ただ、君には別に手伝ってもらいたいことがある。とはいえ一切関わらないってわけでもないから、こうして正面から旧棟の雰囲気を味わってもらったんだ。どのみちこっちからじゃ中には入れない。君の通勤ルートを案内するよ」
 と、倉田が車でバックする。
 つづいて向かう先は島西海岸、 波止場に停められた一艘のクルージングボートに乗り換える。操縦はお前な、と倉田がどっさりと腰かけて道行きを示した。
「まさか、船舶免許ってこのための」
「おう。通勤でクルージングボートを使うんだから、免許持ってなきゃ話にならねえってこった」
「…………」
「さ、行こうか」
 倉田はにっこりわらった。
 ただ、島の西側からぐるりと周るように行くだけの航海道中である。
(ごく限られた関係者が稀に訪れる、禁忌の場所──ってか)
 まさか通勤ルートが海上だとはおもわなかった。なるほど、これまであの建物が世間に触れられることなく沈黙を守ってきた理由が分かった気がする。ロイは舵を握る手に力を込めた。
 しかし倉田は呑気なものである。
 やっぱり、と顔面に風を受けながらぽつりとつぶやいた。
「海に出るとまだ肌寒いなァ。きのうはえれェ暑かったってのによ」
「春らしいじゃないすか。三寒四温」
「うん──そうして春が過ぎたら、もう夏が来る」
 倉田の声は昏い。
 なにを当たり前のことを、と眉をしかめたロイに彼は苦笑した。
「いや、俺にとっての夏ってあんまりいい思い出なくてさ。……いつもいつも、親父から『眠る軍人』の話を聞かされて、お前が必ず終わらせろ、なんて言われ続けて」
「ずいぶん熱心な親父さんですね」
「ありゃあもう、とり憑かれていたんだろ──そんなもんだから、夏が来て、アスファルトの上にこう……立っているとよ。照り返しがあんだろ。上からも下からも熱くて、蝉もミンミンうるさく鳴いて──」
「…………」
「するとどうしようもなく、切なくなるんだ」
 とうなだれる。
 だまったままわずかに舵を左に切りながら、ロイは思い出している。定期船上での会話を。

 ”およそ七十年間眠っている人を、起こすんだ”

 ──聞いたとき、いの一番に出た感想は
(狂ったか?)
 というものだった。
 本当のクレイジーはどちらだ、という目を向けると彼は困った顔でこちらを見ていた。
「わかってる、お前の言いたいこともよくわかるよ。だからこればかりは言葉じゃ説明できねっつったろ。そんな目するな」
「…………」
「俺だって親父に連れられてあそこに行っていなきゃ、今でも信じられねえような話さ。思春期真っただ中にだぞ、多感な子どもになんてことを吹き込みやがると、恨んだよ」
 でも本当だった、といった彼の瞳は沖の向こうにたたずむ島をまっすぐ見据えていた。──

(本当に、現実味のない話だ)
 と思った。
 けれどロイはなぜだか、さきほども、そしていまも──このクレイジーな上司を疑いきれずにいる。場の沈黙に気がついて、ロイはぴゅうと口笛を吹いた。
「夏の暑さと蝉の鳴き声なんてコンボ食らったら、オレならイライラして終わる。切ないなんて感想は初めてですよ」
 倉田は、こぶしを握る。
「あそこで眠る軍人は、あの夏の日でずっと止まったままなんだ」
「…………」
「いい加減、夏を終わらせてやらなけりゃいけないんだよ」
 と。
 いう言葉を最後に、倉田は対岸に到着するまで口を開くことはなかった。
 ロイもそれ以上なにを言うでもなくただ操縦に集中した。聞きたいことも、言いたい文句も、島に眠る真実を見てからでいいと思った。

 ※
 上陸することは容易であった。
 おそらく戦時中に使っていたのだろう波止場にボートを停めると、先ほど見た箱型建物のちょうど真裏に出る。正面から見たときよりも禍々しい空気をまとってわれわれを出迎えた。 
 裏口とおぼしき扉には、太い鎖と錠前がかけられている。が、倉田はそちらには目もくれず、草むらの中へ歩きだした。
「あの扉からじゃないの?」
「正規のルートはそうだけど、俺たちの目的地はあっこからじゃ入れねえ。一文字の野郎どもにも気付かれねえよう、あの部屋への入口は建物じゃなくてこっちに作られたんだ──そこから、入る。狭いうえにすげえ急だから滑んなよ」
 なんだと?
 と、ロイは目を疑った。群生する背高泡立草をかき分けて倉田は迷いなく奥へと突き進む。取り残されるのも嫌なのであとを追うと、とつぜん上司のすがたが雑草のなかに消えた。
 あわてて覗き込む。なんてことはない。彼はその場にしゃがみ込み、地面にはめ込まれた敷鉄板を外すところだった。
「入口ってこれかよ」
「ああ。びっくりだろ、おかげで一キロだって太れやしねえ」
 といった倉田が、闇が拡がる穴のなかへとすがたを消す。
 大人の男がひとり通るにはすこし狭いくらいの入口だ。ロイはあとにつづき、細身の身体を滑り込ませた。

 地下特有のひんやりとした空気に、ぶるりと身体がふるえる。
 倉田はずんずんと奥へ進んだ。無機質な壁が両側から迫る感覚に戸惑いながら、ロイは案内者の背中を見ることだけに集中する。でなければ、この一本道でさえその背中を見失う焦燥に襲われた。
 靴音が耳に響く。反響する音がわずらわしくてロイはひとり首を振る。
 道順はいたってシンプルなもので、一本の細い地下道を十メートルほど進むと、これまた細い鉄扉が見える。が、倉田は鉄扉をスルーして、幾本かの分かれ道も一瞥すらせずにまっすぐ歩みを進めた。
「あの鉄扉じゃないの」
「ちがう。あれは開かずの間だ」
「は?」
「鍵がねえのさ。いまとなっちゃだれも開けられねえ。こじ開けて、変なのが出てきても困るしな」
「……まるでホラーゲームだな」
 やがて、寒々しいほどの暗がりにぼんやりと浮かびあがる硬質な扉を前に、倉田はようやく立ち止まった。
「ここだ」
 と。
 ポケットから古びた鍵を取り出して、ガチャガチャと回す。その手元を覗き込んだロイは茶化すように言った。
「一般棟ならカードキーだったのに」
「ばーか。そんなハイテクなもんつけて、万が一故障したら取返しつかねえだろ。業者も誰もここに入れるわけにはいかねえんだから」
「たしかに」
 ひやり、とした。
 それは別に焦ったとかいうことではなく、単純に倉田が開けた扉の先がかなり冷えているからのようだった。まるで冷凍庫である。
 なにをそんなに冷やしているのだろうか。あまりの寒さにクソ、と悪態をついて部屋の中を覗き込もうと身を乗り出す。
「ずいぶん冷え……────」
 言いかけたロイの身体は動きをとめた。
 部屋の、中を見た。
「これでお前も、事態の深刻さを思い知ったことだろう」
 真横にいるはずの倉田の声がずっと遠くから聞こえるほどに、神経は両目に集中する。目の前に広がる光景にロイは絶句した。

 病院のごとき無機質な空間に、四台のベッド。
 そこに横たわり眠る四人の男。
 無数の管が繋がって、まるで死んでいるかのようだ。
 ──いや、逆か。
 眠ったように死んでいるのか。
 
 鳥肌が立つ。
 硬直した身体を、ロイは無理やり倉田に向けた。
「これは」
「な、信じられねえような本当の話だろ」
「…………死んでるの」
「生きてるよ。仮死状態になっているから死んだように見えるけど。この状態で七十年だ」
「でも──詳しくないけど、仮死状態なんてそんなもの……七十年ももつものじゃないだろ」
「だけど彼らは生きている。歳もとらずに。なぜだと思う」
「わかるかよ!」
 と、ロイは声を荒げた。
 混乱のためか、少し苛立っている。対照的に落ち着いた倉田は、ロイにはよくわからない機械の数値をチェックしながら、ひとりの男の前で立ち止まった。
「そうだよな──俺にもわからんよ。だから起こして話を聞かなきゃならない」
「お、起こすってどうやって」
 男たちに視線を落とす。
 みな一様に青白い顔で、どう見ても生きているとはおもえない。が、倉田はそのうちのひとりを覗き込んでうなずいた。あまりに彼が冷静なのでロイもつられて肩の力を落とす。
 どうやって起こすんだ、と昏い声で問う。まさか肩を叩けば起きるわけでもあるまい──と精一杯におどけようとしたロイの肩をつかんで、倉田が扉のほうへぐいと押してきた。
「な、なんです」
「ちょっと外に出てくれ。なにがあるか分からない。万が一みんな──なんてことになったら洒落にならんからな」
「はっ?」
 感染。ここに来て初めて聞く単語だった。
 聞きたいことは山ほどあったが、かろうじて出た言葉は「あんたは」だけだった。
「何が」
「感染って、あんただって例外じゃないんだろ」
「心配するな。これでも医学部出身だぜ」
「や……そういう問題じゃ」
「いいからいいから」
 とにかく外に出ていろ、と再度肩を押されたので、ロイはしぶしぶ部屋を出た。
 不思議と、入った瞬間はひんやり冷えた地下道も、異様な空間から解放された安堵からか今は少しだけ温かく感じる。単にあの部屋が異様に寒かったからだろうが。
「…………」
 まったく目まぐるしい数か月である。
 親を失ってから妹と離れ、生きる目標も見つけられず、ぼんやりと息をしていた日々。だれかに何故生きているのかと問われたなら、
『心臓が動くから』
 と答えたことだろう。
 いま心臓が止まっても未練はない──はずだった。
(ちくしょう)
 けれどいま、どうにも引っ掛かる。
 ──いい加減、夏を終わらせてやらなけりゃいけないんだ。
 耳にこびりついた倉田の言葉。
 目に焼き付く軍人たちのすがた。
(どこが楽な仕事だよ)
 心でつぶやき、今しがた出てきた扉を睨みつける。
 七十年間、何らかの理由で命だけ生かされ続けた彼らは、目覚めたときに何を思うのか。大切な人のだれもいない世界で、生きる理由を探すのだろうか。そこまでして──心臓が動く限り、人が生き続けなければならないワケはなんだろう。
 ロイは、
「ちくしょう」
 と声に出した。なんて気の重い仕事だ。
 十分が経った。
 むしゃくしゃする想いをぶつけるように、扉を思いきり開けた。冷えた空気が身に刺さる。しかしもうロイが身を縮めることはなかった。
「こら。まだいいって言ってな──」
「仕事は」つかつかと歩み寄る。
「は?」倉田が、機械をいじる手を止めた。
「あんたの個人的な頼みを聞くのも仕事なんでしょう。金はもらっているんだ、頼んでくれなくちゃ仕事にならない」
「…………」
 ロイは眉をいっぱいにしかめる。倉田がフッとわらって、うちひとりの軍人を指差した。
「彼を起こす準備を整えた。からだを温めて、管が外せるようになったら外に連れ出すんだ。力仕事はいけるか?」
「アンタよりはね、若いから」
「五十代のおっさん舐めるなよ」
 ピーッ、と。
 男につながれた機械が、鳴った。
 彼の体温が正常範囲に戻ってきたようだ。倉田が手早く管を抜く。ロイは男を担ぎ上げた。
 残りの三名をちらと見る。
「また、ここに戻ってくるよな」
「当然だ。かならず戻る」
「…………」
 かならず、と倉田が念を押す。
 ──あの夏を終わらせる。
 ロイは奥歯を噛み締めて、冷えた部屋をあとにした。
 
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