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第一章 成増弘之
剃刀ブレイン
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シュンシュンシュン──。
やかんから湯気が噴き出る。湯が沸いた。
火を止めて湯たんぽを手に取る。湯を注ぎ入れようとしたロイの後ろで、倉田が「おいおい」と笑った。
「さすがにもういいんじゃねえの。蒸し焼きにするつもりか」
「これは自分用です。あんなに寒いところだなんて聞いていなかった」
地下施設から連れ出した男を、定期船で車ごと本土へと運んだ。船頭をつとめる小此木実という男は、車に隠した男の存在に気付かなかったようで、倉田と軽い挨拶を交わすのみだった。
その後、車で足立区にある彼の自宅へ。島内ではダメなのかともおもったが、倉田曰く「匿うにはリスクがある」らしい。
その意味を理解せぬまま、いまに至る。
電気毛布やホッカイロに包まれ、ソファに横たわる軍人の目覚めを待っているところだ。
「起きたら生姜湯も飲ませたいな。生姜、買ってあったっけ──」
「アンタ家族いるのに、いいんですか勝手に連れ込んで」
「いいのいいの。いま息子はいないから部屋も空いてるし。カミさんには──俺がちょっと怒られるくらいだから」
「息子っていくつ」
と、湯たんぽを抱えてソファの前に座る。
「今年から高校一年生。俺の実家で一人暮らししてんだ」
「なに、家出?」
「違うわ。親に似ず気が弱くってさ、中学時代にいじめられてて、地元から離れたいっつって……どうしたいか聞いたら俺の実家に行きたいってよ」
「へえ──」
「本当は俺の母親と暮らすはずだったんだけど、このあいだ急に死んじまって」
「…………」
「それで一人暮らしってわけ」
と、倉田はやかんに残った残りの湯で二人分の珈琲を作ってきた。
「ほらよ」
「どうも。生姜は?」
「あっ」
下ろしかけた腰を再びあげて、倉田が冷蔵庫を覗きにゆく。ロイは首を後ろに向けた。ソファに横たわる男の顔色がだいぶ良くなっている。やはり生きているのか──と今さらながら実感する。
あったあった、と倉田が戻ってきた。
「生姜あった。スっとこ」
「なんでこの人だったんスか」
「なにが」
「ほかに三人もいたのに、迷わずこの人を起こしたじゃん」
と、ロイは眠る男を見つめる。
ガリガリとすり下ろし器の音がリビングに響く。だって、と倉田はつぶやいた。
「その人しか知らねえから」
「知らないって」
「事情をさ。いま、こんなことになっちまった経緯もなんもかも、もはやしっかり語れるのはこの人しかいねえんだ。むしろそうするために、自らこうなることを望んだんだそうだから──」
「い、いったい何者なんです」
「……参謀本部における、陸軍科学研究所──科研あがりの剃刀ブレイン」
成増弘之参謀だとさ、と。
そのとき、男の瞼がぴくりと動いた。ロイは飲みかけた珈琲をテーブルに戻す。倉田の、生姜をスる手も止まる。
名前に反応したか瞼がゆっくりと持ち上がった。空気が張りつめる。彼は一分ほどの時間をかけて目を開け、しばらく虚ろな表情で天井を見つめていたが、やがて眼球だけを左右に動かした。
「…………」
その目線がロイに止まる。瞬間、男──成増弘之の瞳はようやく光を取り戻し、びくりとからだを揺らした。頭を押さえ、あわてて身を起こす成増を倉田が制止する。
「まだ、無理しない方がいい」
「────」
「わ、わかりますか。自分の名前とか」
恐る恐る倉田が問う。
成増は一瞬きょとんとしてから、倉田とロイを交互に見て「あ」と言った。
「──僕は、成増です。……成増弘之」
「おおっ」
「…………」
「────」
成増は戸惑っている。
倉田も、どう説明してよいものかと戸惑っている。
とりあえず、とロイは倉田の両手にある生姜とおろし器を取った。
「生姜湯でもどうですか」
倉田がずっと握っていたせいか、生姜はすっかりぬるくなっていた。
────。
「なんだか暑いな」
ソファの肘掛けに背をもたれ、生姜湯を二口ほど飲んだところで、成増はパタパタと手で顔を扇いだ。
いま、彼の服にはホッカイロが十枚ほど貼られている。軍人たちを起こすためには、その身を温めねばならない──という井塚文書にならって行なった措置である。
倉田はあわててホッカイロをひっぺがし、端的に説明した。成増はたいして驚きもせず、そうですかとうなずいた。
「僕を起こすために」
「ええ。井塚さんノートに書いてあったもんで」
「ああ──ありがとうございます。ええと」
成増がためらう素振りを見せてはじめて、いまだ自己紹介をしていないことに気が付いた。「すみません」と前置きして、倉田が姿勢を正す。
「倉田真司と申します。こっちの彼は保坂ロイくん。井塚さんのノートにまず貴方を起こすように記されていました。無事に起きてよかった」
「どうも、改めまして成増弘之です。いろいろとお世話をかけたようで……ところで僕の眼鏡はどこかにありませんでした? あ、あった」
と、成増がおのれの軍服を上から触る。胸ポケットに入っていたのか、取り出してうつむき加減に装着した。戦争映画でよく見る丸眼鏡だ。
とりあえず、と成増は眼鏡を指でおしあげる。
「いまがいつなのか、ここはどこか。何故いま僕を起こしてくれたのか──最後に関係者の現在について教えてください」
「はは、冷静で助かります」
倉田は疲れたように笑った。
簡単に説明をする間、成増は冷静に耳を傾け、決して取り乱すことはなかった。井塚が亡くなっていると聞いたときはわずかに瞳が泳いだものの、それでも説明を終える最後まで質問ひとつ挟まずに、穏やかな表情で相槌を打った。
剃刀ブレイン──井塚がそう書き残したワケが、垣間見えたような気がする。
彼は非常に冷静な性格なのだろう。この落ち着きにつられて、倉田もすっかり緊張を解いたようすであった。
「と、まあこんな感じでしょうか」
ともあれ。
さすがの成増も、七十年近く眠っていたことを知ると、そのポーカーフェイスを崩して頭を抱えた。ただ一言、
「井塚くんが、そんなに早く亡くなったとは想定外でした。…………」
とうつむく。
しかしながら、倉田曰く「正確に言えば、井塚がいつ亡くなったのかは定かではない」らしい。
倉田の父、文彦が井塚ノートに追記した内容からすると、成増が眠ってからまもなく消息を絶ったというのだ。文彦は、ノートの最後に「井塚さんもおそらくやられた」と一言だけ記している。
倉田が問いかけた。
「成増さん、その倉田文彦という軍人はご存知なんですか」
「うん、知ってます。井塚くんの部下だった──まさか君の父上だったとはたまげたよ。感慨深いというかなんというか、……本当に七十年の月日が経っちまったのかと実感させられます」
成増は険しい顔から一気にパッと顔を輝かせて笑い、倉田の顔をまじまじと見る。
「なるほど、言われてみりゃあちょっと似ている」
「その父には散々『眠る軍人』の話を聞かされました。もちろん、それだけじゃない負の遺産についても。しかし肝心なところがいつもハッキリしなかった。おそらくは父も、詳しいところは知らなかったんでしょうが──ようやく聞けるとおもっていいんですね?」
成増を見つめる。
彼は、丸眼鏡を押し上げてうなずいた。
「…………うん、そうだ。その説明を今度は僕からしなけりゃいけませんね。そのために僕はこうして眠りから覚めたのだから」
ようやく、本題だ。
だらりと弛緩していたロイも、ゆっくりと姿勢を正した。
────。
「その前に」
一度整理をしたい、と成増は言った。
諸々を説明するにあたって、どこまで知っているのかを把握したいためだという。
「たしか現状は、経路のわからぬ感染者が発生。そのために保坂くんがあの箱に呼ばれてしまったということでしたね。つまり真司さんはそれを見た?」
「……ええ」
倉田の顔に影が差す。しかしつぎの瞬間にはロイの肩を抱き寄せて「でも」と声を張った。
「ロイくんはまだなんにも知りませんよ。話そうにも、俺だって井塚さんのノートから得た情報しか知りませんでしたから」
「うん。あれはことばで説明できるようなものじゃない──では、保坂くんに合わせて説明するとしましょうか。とは言っても」
なにから話そう、と彼はにがっぽくわらう。
「戦中のころなら昨日のことのように覚えているのに、眠る直前だけぽっかりと記憶が抜け落ちていてですね。とりあえず話の前に、保坂くんにふたつほど念頭に置いてもらいたいことがある」
と、成増はロイに身体を向ける。薄い唇をきゅっと噛みしめ、いいかい──と、つぶやいた。
「僕たちが眠っていたあの島、東南東小島は、かつてとある細菌に感染した人間が隔離される場所だった。そしてその細菌は、かつて軍によって研究されたものだ」
「…………」
「さてそれでは、順を追って説明しよう」
質問を許さない空気である。
ロイは、顎をあげて続きを促した。
シュンシュンシュン──。
やかんから湯気が噴き出る。湯が沸いた。
火を止めて湯たんぽを手に取る。湯を注ぎ入れようとしたロイの後ろで、倉田が「おいおい」と笑った。
「さすがにもういいんじゃねえの。蒸し焼きにするつもりか」
「これは自分用です。あんなに寒いところだなんて聞いていなかった」
地下施設から連れ出した男を、定期船で車ごと本土へと運んだ。船頭をつとめる小此木実という男は、車に隠した男の存在に気付かなかったようで、倉田と軽い挨拶を交わすのみだった。
その後、車で足立区にある彼の自宅へ。島内ではダメなのかともおもったが、倉田曰く「匿うにはリスクがある」らしい。
その意味を理解せぬまま、いまに至る。
電気毛布やホッカイロに包まれ、ソファに横たわる軍人の目覚めを待っているところだ。
「起きたら生姜湯も飲ませたいな。生姜、買ってあったっけ──」
「アンタ家族いるのに、いいんですか勝手に連れ込んで」
「いいのいいの。いま息子はいないから部屋も空いてるし。カミさんには──俺がちょっと怒られるくらいだから」
「息子っていくつ」
と、湯たんぽを抱えてソファの前に座る。
「今年から高校一年生。俺の実家で一人暮らししてんだ」
「なに、家出?」
「違うわ。親に似ず気が弱くってさ、中学時代にいじめられてて、地元から離れたいっつって……どうしたいか聞いたら俺の実家に行きたいってよ」
「へえ──」
「本当は俺の母親と暮らすはずだったんだけど、このあいだ急に死んじまって」
「…………」
「それで一人暮らしってわけ」
と、倉田はやかんに残った残りの湯で二人分の珈琲を作ってきた。
「ほらよ」
「どうも。生姜は?」
「あっ」
下ろしかけた腰を再びあげて、倉田が冷蔵庫を覗きにゆく。ロイは首を後ろに向けた。ソファに横たわる男の顔色がだいぶ良くなっている。やはり生きているのか──と今さらながら実感する。
あったあった、と倉田が戻ってきた。
「生姜あった。スっとこ」
「なんでこの人だったんスか」
「なにが」
「ほかに三人もいたのに、迷わずこの人を起こしたじゃん」
と、ロイは眠る男を見つめる。
ガリガリとすり下ろし器の音がリビングに響く。だって、と倉田はつぶやいた。
「その人しか知らねえから」
「知らないって」
「事情をさ。いま、こんなことになっちまった経緯もなんもかも、もはやしっかり語れるのはこの人しかいねえんだ。むしろそうするために、自らこうなることを望んだんだそうだから──」
「い、いったい何者なんです」
「……参謀本部における、陸軍科学研究所──科研あがりの剃刀ブレイン」
成増弘之参謀だとさ、と。
そのとき、男の瞼がぴくりと動いた。ロイは飲みかけた珈琲をテーブルに戻す。倉田の、生姜をスる手も止まる。
名前に反応したか瞼がゆっくりと持ち上がった。空気が張りつめる。彼は一分ほどの時間をかけて目を開け、しばらく虚ろな表情で天井を見つめていたが、やがて眼球だけを左右に動かした。
「…………」
その目線がロイに止まる。瞬間、男──成増弘之の瞳はようやく光を取り戻し、びくりとからだを揺らした。頭を押さえ、あわてて身を起こす成増を倉田が制止する。
「まだ、無理しない方がいい」
「────」
「わ、わかりますか。自分の名前とか」
恐る恐る倉田が問う。
成増は一瞬きょとんとしてから、倉田とロイを交互に見て「あ」と言った。
「──僕は、成増です。……成増弘之」
「おおっ」
「…………」
「────」
成増は戸惑っている。
倉田も、どう説明してよいものかと戸惑っている。
とりあえず、とロイは倉田の両手にある生姜とおろし器を取った。
「生姜湯でもどうですか」
倉田がずっと握っていたせいか、生姜はすっかりぬるくなっていた。
────。
「なんだか暑いな」
ソファの肘掛けに背をもたれ、生姜湯を二口ほど飲んだところで、成増はパタパタと手で顔を扇いだ。
いま、彼の服にはホッカイロが十枚ほど貼られている。軍人たちを起こすためには、その身を温めねばならない──という井塚文書にならって行なった措置である。
倉田はあわててホッカイロをひっぺがし、端的に説明した。成増はたいして驚きもせず、そうですかとうなずいた。
「僕を起こすために」
「ええ。井塚さんノートに書いてあったもんで」
「ああ──ありがとうございます。ええと」
成増がためらう素振りを見せてはじめて、いまだ自己紹介をしていないことに気が付いた。「すみません」と前置きして、倉田が姿勢を正す。
「倉田真司と申します。こっちの彼は保坂ロイくん。井塚さんのノートにまず貴方を起こすように記されていました。無事に起きてよかった」
「どうも、改めまして成増弘之です。いろいろとお世話をかけたようで……ところで僕の眼鏡はどこかにありませんでした? あ、あった」
と、成増がおのれの軍服を上から触る。胸ポケットに入っていたのか、取り出してうつむき加減に装着した。戦争映画でよく見る丸眼鏡だ。
とりあえず、と成増は眼鏡を指でおしあげる。
「いまがいつなのか、ここはどこか。何故いま僕を起こしてくれたのか──最後に関係者の現在について教えてください」
「はは、冷静で助かります」
倉田は疲れたように笑った。
簡単に説明をする間、成増は冷静に耳を傾け、決して取り乱すことはなかった。井塚が亡くなっていると聞いたときはわずかに瞳が泳いだものの、それでも説明を終える最後まで質問ひとつ挟まずに、穏やかな表情で相槌を打った。
剃刀ブレイン──井塚がそう書き残したワケが、垣間見えたような気がする。
彼は非常に冷静な性格なのだろう。この落ち着きにつられて、倉田もすっかり緊張を解いたようすであった。
「と、まあこんな感じでしょうか」
ともあれ。
さすがの成増も、七十年近く眠っていたことを知ると、そのポーカーフェイスを崩して頭を抱えた。ただ一言、
「井塚くんが、そんなに早く亡くなったとは想定外でした。…………」
とうつむく。
しかしながら、倉田曰く「正確に言えば、井塚がいつ亡くなったのかは定かではない」らしい。
倉田の父、文彦が井塚ノートに追記した内容からすると、成増が眠ってからまもなく消息を絶ったというのだ。文彦は、ノートの最後に「井塚さんもおそらくやられた」と一言だけ記している。
倉田が問いかけた。
「成増さん、その倉田文彦という軍人はご存知なんですか」
「うん、知ってます。井塚くんの部下だった──まさか君の父上だったとはたまげたよ。感慨深いというかなんというか、……本当に七十年の月日が経っちまったのかと実感させられます」
成増は険しい顔から一気にパッと顔を輝かせて笑い、倉田の顔をまじまじと見る。
「なるほど、言われてみりゃあちょっと似ている」
「その父には散々『眠る軍人』の話を聞かされました。もちろん、それだけじゃない負の遺産についても。しかし肝心なところがいつもハッキリしなかった。おそらくは父も、詳しいところは知らなかったんでしょうが──ようやく聞けるとおもっていいんですね?」
成増を見つめる。
彼は、丸眼鏡を押し上げてうなずいた。
「…………うん、そうだ。その説明を今度は僕からしなけりゃいけませんね。そのために僕はこうして眠りから覚めたのだから」
ようやく、本題だ。
だらりと弛緩していたロイも、ゆっくりと姿勢を正した。
────。
「その前に」
一度整理をしたい、と成増は言った。
諸々を説明するにあたって、どこまで知っているのかを把握したいためだという。
「たしか現状は、経路のわからぬ感染者が発生。そのために保坂くんがあの箱に呼ばれてしまったということでしたね。つまり真司さんはそれを見た?」
「……ええ」
倉田の顔に影が差す。しかしつぎの瞬間にはロイの肩を抱き寄せて「でも」と声を張った。
「ロイくんはまだなんにも知りませんよ。話そうにも、俺だって井塚さんのノートから得た情報しか知りませんでしたから」
「うん。あれはことばで説明できるようなものじゃない──では、保坂くんに合わせて説明するとしましょうか。とは言っても」
なにから話そう、と彼はにがっぽくわらう。
「戦中のころなら昨日のことのように覚えているのに、眠る直前だけぽっかりと記憶が抜け落ちていてですね。とりあえず話の前に、保坂くんにふたつほど念頭に置いてもらいたいことがある」
と、成増はロイに身体を向ける。薄い唇をきゅっと噛みしめ、いいかい──と、つぶやいた。
「僕たちが眠っていたあの島、東南東小島は、かつてとある細菌に感染した人間が隔離される場所だった。そしてその細菌は、かつて軍によって研究されたものだ」
「…………」
「さてそれでは、順を追って説明しよう」
質問を許さない空気である。
ロイは、顎をあげて続きを促した。
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