英雄のいない夏

乃南羽緒

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第二章 保坂エマ

疑惑

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 最初に感染だ、と声をあげたのは小此木だった。
 彼の対応力は目覚ましかった。感染した彰を抱えてすぐに箱へと走り、中へ入ると迷うことなく一階の焼却室へと向かったのである。
 その部屋の入口は真司でさえ知らなかった。
 なぜ知ってるかを聞いたら、今日焼却した社員を運びいれるときに手伝ったんだ、と言っていたから、大した疑念ではなかったが──。
「どういうことだよ。なんで彰が──焼却中は部屋の外にいたんだ。感染のしようがないッ。現に俺は無事なんだから!」
「自分を責めるな、倉田。こんなワケの分からない病気、なにがあってもおかしくない」
「どうしよう。どうする! ──あのまま放置するなんて残酷なことしたかねえが、でも、燃やすのは……」
「ああ、燃やすのはまだ早い。もしかしたらなにか助けられる方法が見つかるかもしれねえ。おまえはどうせ、倉田の親父さんからいろいろ聞いてるんだろ。助ける方法をさ」
「き、聞いちゃねえよそんなの」
 あるとすれば井塚文書だが、ここに彰を助ける手立ては書かれていない。唯一記されていた最後の望み、彼を起こすことに懸けるしかない。
 真司は拳を握る。
「落ち着けよ倉田、そうわるいことにはならない。きっとすべて丸く収まるさ。それまでは、専務が感染したことは俺たちふたりだけの秘密にしよう」
「……え?」
「一文字の会長にでも知られてみろ。一発でクビが飛んじまう」
「…………」
「大丈夫、大丈夫だから。……」
 小此木は真司の背中を、船につくまで支えた。
 このときはまだ、頼もしいコイツがいてよかった、などと安堵したものだ。
 船が出る間際、真司は礼を言おうと操縦席を覗いた。
 そのときに見てしまった。
 島にそびえる箱を見て、恍惚の笑みを浮かべる旧友のすがたを。

「ただの好奇心によるものかともおもったさ」
 でも、と真司はうなだれる。
「……思えばアイツ、自分が感染しているかどうかなんて一度も気にしなかった。小此木は全部分かってたんだ。彰がなぜ感染したのか、そもそも自分は感染に怯える身体じゃないことも──」
「だとすりゃどうやって感染させたか、だけど」
「ひとつしか考えられません。その船頭が仮に感染者なのだとして、周囲の人間を手っ取り早く感染させるには、彼が専務を、その」
 成増はちらとエマを見た。
 ロイが彼女の耳を手でふさぐ。
「犯した、と──考えるのが妥当でしょう。それほど確実な感染方法はない」
「あ、アイツは女好きですよ!」
「言ったでしょう。感染者は性別に関係なく襲うことがある。それは快楽を求めるためでなく、繁殖本能によるものですから」
「…………あ」
 真司がはたと顔をあげた。
 地下に駆け込んできた彰が、しきりにゲイだなんだと喚いていたことを思い出した。もしかすると彼は、直前まで小此木にいたぶられていたというのか。
 頭がカッと熱くなる。
 怒りにふるえて、爪が食い込むほどに拳を握る。気づいたはずだ。彰の様子がおかしいことにあの時すでに気づいていたはずだった。
(彰──すまん)
 いまさら謝罪など意味もない。
 真司の瞳に、口惜しさのあまりに涙が浮かぶ。それを見たエマが頬にそっと手を伸ばしてきた。
「おじさん大丈夫?」
「…………」
「あの人、わるい人だったの? ごめんなさい。もっと早く教えればよかった」
「……ありがとう」
「泣きたいときは男でも泣かなくちゃ。でも、ひとしきり泣いたらくよくよする暇はないわ。わるいヤツが判明したなら、こんどはそいつを取っ捕まえるの!」
「ははは──は、いや。待てまて。いつの間にかエマちゃんがいるのに普通に話してたな」
 涙はすっかり引っ込んだ。
 この話が他者に漏れるのはまずい。が、成増はおだやかな顔のままエマへ視線を向けた。
「いや、むしろ聞いてもらった方がいいとおもって、僕は話していましたよ」
「どういうことです」
「宿前にいた男が本当にその小此木という者だとしたら、エマくんにも害が及ぶ可能性もある、ということです」
「なんだって」
 ロイが身を乗り出す。
 つまり、と成増は眼鏡を押し上げる。
「小此木は倉田さんが感染症撲滅を目論んでいることを知っています。すでに脳細胞まで細菌に乗っ取られているとすれば、当然撲滅阻止の動きをとるでしょう。加えて彼は倉田さんがこの宿にいることを知っていた」
「む。…………」
「撲滅を阻止するためには、それをかんがえる人間を逆に自分たちの仲間にすること──。エマくんと倉田さんのつながりに気付いたとしたら、真っ先に襲うことも考えられます」
「でも、小此木はふだん熱海の港から島を往復してます。エマちゃんは……住まいはどこ?」
「横浜です」
「熱海から横浜まで、わざわざ赴く暇はないでしょう」
「感染者が小此木ひとりならね」
「…………」
 成増は、卓上の急須に茶葉と湯を入れた。
 それを見たエマが、パッと床間に置かれた湯のみを手繰り寄せる。まったく気の利く子である。
「ほかに仲間がいる可能性だってなきにしもあらず。小此木がいつ感染したのかは分からないが、ずっと倉田さんが気付かなかったように、周囲にだっているかもしれないんだ」
「エマは無関係ですよ!」ロイはどなる。
 しかし成増はどこ吹く風だ。
「向こうはそうはおもわない。人は、内輪の世話や心配にはほとほと覇気をなくしてしまうものだからね。……そこを狙われることだってあるだろう」
 と、急須をくゆらせる。
 人数分の茶を淹れながら、
「ではどうするか」
 とつづけた。
「人手が足りん。増やそう」
「え?」
「エマくんに護衛をつけるんです」
 護衛。
 その役目はいったいだれが、と真司が眉を下げた。人手を増やすということは、この計画に乗じる者を新たに誘うことになる。
 しかし、そうそう信用できる人間など──。
 と暗い顔をしたふたりを見て、成増は吹き出した。
「なんてツラをしてるんです」
「だ、だって」
「渦中の者がいるでしょ」
「は?」

「度量も腕も人並み以上。文武に秀でた帝国海軍大佐どのを起こすんですよ」

 と、成増はにやりとわらって茶をすすった。

 ※
 その夜。
 エマがどうしても兄と離れたくないと言うので、ロイは横浜へとやってきた。
 部屋は二間に分かれた造りだった。ひとり住まいにしてはずいぶん広いなと感心すると、彼女はいつかペットを飼うんだとわらった。
「横浜の大学か。都心じゃなかったか」
「うん。クリスおじさんたちとあんまり離れたくなかったから」
「ああ──葉山だっけ。だったらなにも家を出なくても」
「…………」
 エマがむっとする。
 いまのことばが気に入らなかったのだろうか。ロイが彼女の顔を覗き込む。
 しかし意外にもエマの顔は泣きそうに歪んだ。
「ロイは──クリスたちのことが嫌いなんだとおもってたの。だから、あそこにいたらきっとロイは帰ってきてくれないとおもって」
「なんだそれ。別に嫌いじゃないよ、むしろ感謝してる」
「じゃあどうして、出ていったきり帰ってこなかったの? 行くはずだった大学の資金まで預けて。まるで、まるで生きていく気がないみたいに!」
「それは、……」
 分からない。
 当時はほんとうに、生きていく気力がなかったのかもしれない。それでも妹には幸せになってほしかったから、せめてあげられるもの、と考えた末の行動だった。
 深く考えてなかった、と苦笑する。
「……怖かったんだから。もう二度とロイに会えないんじゃないかって。だから、今日はぜったいにいっしょに寝てね。朝起きていなくなってたら承知しないわよ」
「分かった分かった」
 ロイは、面倒くさそうに返事をした。

 それからエマのつくった夕飯を食べ、風呂に入った。
 部屋の香りや飯の味、置物のセンスひとつを見てもどこか両親の面影を感じた。きっと彼女はずっとひとりで、両親の思い出を胸に抱えつづけてきたのかもしれない。ロイはすこしだけ申し訳なくおもった。
 パンツ一丁で部屋にもどると、彼女はすでに寝間着へと着替えていた。
「おい、オレの寝間着になりそうな服ない?」
「寝間着みたいな私服着てなに言ってるんだか……ちょっと待って、箪笥に入ってるかも」
 と、エマはおもむろに下段の箪笥を漁りだす。
 ない前提で聞いたのだが──なぜか箪笥からは男物のTシャツがずるりと出てきた。
「これ着て」
「おまえの?」
「ちがうわ、元カレの。ズボンもあった」
「…………なんで持ってんの?」
「付き合いたてのころに勝手に置いてったの。そのときはクリスの家だったし、結局一回もお泊まりはしなかったけど」
「捨てとけ、んなもん」
「こういうオーバーサイズって身体が楽なの。まだ二回しか着てないけどね──それよりさっきの話」
 と、エマがくしで髪をとかす。
「なんだか穏やかじゃないわね」
「おまえは気にしなくていい。頼むから変に首を突っ込むのはやめてくれよ、ただでさえ横浜なんてオレの目が届かないんだから」
「届かないところに逃げつづけたのはどっちよ」
 と、ロイにクマちゃんクッションを投げつけた。
 服を着るために身をかがめた後頭部にクリーンヒット。スウェットから足を出したロイは、迷惑そうに投げ返す。わるかったって、と足元に敷かれた客用布団に身をいれた。
 ねえ、とエマが布団のなかから顔を出す。
「つぎはいつ会える?」
「護衛を連れてくるときじゃねえか。準備に時間がかかるそうだから、夏休み前には連絡するよ」
「そう。遠いわね」
「ふあぁ……明日は早くに島に戻らねえと。おまえも大学あるんだろ、もう寝よう」
「まだ。ねえその護衛につく人って見たことある? かっこいい?」
「あー」
 見たことあるかと聞かれれば、答えはイエスだ。
 あの冷凍室に横たわって死んだようにねむっている顔をじっくりと見た。が、成増を除いた三人の軍人のうち、起こす予定とされる海軍大佐の男がどれなのかはロイも知らない。
 とはいえ、青白い顔で眠る軍人たちは、おもえばみんな整った顔立ちをしていたかもしれない。
「かっこいいかどうかと言われると──かっこいいんじゃないかな」
「素敵! 護衛につく人と恋に落ちちゃったりして。ねえその人、彼女いるかなあ」
「バーカ。おまえなんぞ相手にされるか」
「失礼ね、こう見えてわたしモテるのよ。あなたとちがって!」
「はいはい。おやすみ」
「んもう!」
 恋だの、彼女だの。
 そんな次元の人間じゃないことだけはたしかだ──と、ロイは瞳を閉じる。
 しばらくベッドの上でもぞりと動く気配がしたけれど、十分もすればエマの寝息が聞こえてきた。むかしから寝つきのいい子だった。
 ゆっくりと身を起こして、妹の寝顔を見る。
「……おやすみエマ」
 ああ、ねむい。心地よい睡魔に身をゆだねる。
 この八年のうちでおそらく初めて、ロイは質の良い睡眠をとることができた気がした。
 
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