片翼のエール

乃南羽緒

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第二章

33話 自分を信じること

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 きびしいな、と蜂谷が言った。
「D1のポイントがおもったより増えない。よく動けてるし、連携もとれてるんだけど──むこうも相当いい選手だなこりゃ」
「倉持も明前も、まだ動けるはずだ」
 と言ったのは偉そうに腕を組む大神である。
 Bコートを睨みつけて、不機嫌なようすを隠しもせずに口をひらく。
「様子見てんだかなんだか知らねえが、倉持なんかとくに体力温存していやがる。あのダブルスに勝ちたいのならそんな小細工は通用しねえぞ」
「でもさっきのカバーだって良かったろ。ラリーの攻防だって粘って勝ってたし──おれからしたらよく走れてるとおもうけど」
 と、姫川がコートを覗く。すると大神はハッと鼻でわらった。
「もしもあのプレーがアイツの全力なんだと倉持が言うようなら、次からレギュラー落とすぜ」
「えっ、そ、そんなにかよ!?」
「てめえもそう思うだろ、伊織」
 大神の視線が伊織に向く。
 とつぜん名指しされた伊織だが、その視線はABコートを忙しなく見比べたまま動じない。ただ話は聞いていたようだ。
 せやな、と低く言った。
 意外な返答に姫川が眉をつり上げる。
「お前までそんなこと言うのかよッ」
「大丈夫よ姫ちゃん。彼は後半とくに光ってくるねんやんか、このままやとオールが続くやろうけど、八ゲーム終わったころくらいには本気だしてくるはずやから」
「この流れでいくと──4-4か」
 もちろん、と蜂谷が身を乗り出して試合を見つめる。
「それまでに向こうのサービスゲームがブレイク出来たら言うことなしだけどな。でも山本くんのサービスゲームはおそらくブレイクしきれないだろうから、ポイントは速水のサービスゲームなんだけど、ここでどれくらいサーブに慣れるか……」
「あっちのコーチが、速水は集中力が途切れたら途端にサーブも入らんくなるって言うてたからさぁ。どうにかしてダフォ増えればワンチャンいけるんちゃうかな」
「ひたすら振りまわして体力削らせるしかねーな。それこそ倉持の得意分野だ」
「とにかく信じるしかないやろ。それより杉やんやで。メンタルさえ問題なかったら大神より強い──可能性も微レ存やけどサ」伊織がS2試合へ目を向ける。
「ビレゾン、……」大神が渋くつぶやいた。
「そのメンタルがいつ崩れるんじゃないかと気が気じゃないんだよ。だっていまも、サービスゲームとられて3ゲーム連取されてるし──」
 と、蜂谷は眉を下げた。
 試合は1-3、犬塚のサービスゲームに移らんとするところであった。これまでの県大会予選ではまず落とさなかったサービスゲームを落としたこともあって、杉山の表情がわずかに固い。
 星丸が不安げに大神を見上げた。
「譲センパイ、大丈夫ッスかねえ」
「メンタルなんざどれだけ練習を積んだところで本人の考え方次第でどうにでもブレるからな。試合に入ったら最後、あとはアイツを信じるしかない。まあ──この俺様がつきっきりで見てきたにも関わらず、舐めたような試合しやがったら即刻レギュラーの座から引きずりおろすけどな」
「ひ、ひぇえ──譲センパイがんばれ……ていうか特訓ってなにやったんスか? 部活のときは特別なことやってるようには見えなかったんスけど」
「今後、お前のメンタルが崩れるようなことがあったらそのとき教えてやるよ。いま見ているかぎりじゃ杉山はまだ折れてねえ。実際、伊織の言うとおりメンタルさえ安定してりゃアイツは倉持にも勝てる実力持ってるからな」
 といって大神はにやりとわらった。

 日が落ちはじめている。
 時刻は現在午後三時をまわろうというころ、杉山はAコート手前側のベースラインに立ち、ガットをパキパキといじってドクドクと脈打つ心臓の鼓動を感じていた。
(落ち着け。オレはできる──出来る、出来る、出来る)
 あの日。
 犬塚に惨敗して泣き崩れたあの日から、大神とともにおこなってきた特訓。それは決して特別なものではなかった。
 日々の練習に全集中するという以外で大神に指示された事柄はただひとつ、ノートをつけること、というものだった。
「自分自身の観察ノートをつけろ。てめえがその日に打った球の記録、体調、食事、感情、反省のすべてだ。別に俺に見せる必要はねえよ、人には恥ずかしくて吐き出せねえこともぜんぶ吐き出せ。毎日そのノートでセルフモニタリングをする、俺からの指示はそれだけだ」
 と。
 その日に、大神から上質な紙でできたノートを受け取ったので書いてみた。言われたとおりの事柄すべてを書き込んだ。慣れないうちは書く時間もずいぶんかかったが、書くこと自体はそれほど辛くもなくて、杉山は苦もなく続けることができた。
 大神は言ったとおり、見せてみろとは一言も言わなかった。けれど杉山は見てほしくて、毎日の休み時間などを使って大神にチェックしてもらっていた。もちろん弱音などもたくさん書いたが、大神なら読まれても良いとおもっての行動だった。
 おもったとおり大神は、大仰に褒めることこそしなかったが、どんな内容にも決して否定や罵倒の言葉は言わなかった。二週間越えた頃にはだいぶ習慣づき、杉山にとってはそれもまた自信のひとつとなった。
 ノートを読みながら大神は、
「これまでの薄弱メンタルの原因は、ひとえに完璧主義である自身の性格からくるものもあるだろう」
 と言った。
 杉山に自覚はなかったが、観察ノートを読んでみるとどうも失敗をひどく恐れる傾向にあるらしい。どないしよう、と杉山は落ち込んだ。
 が、大神はノートを突っ返しながら、
「そういう奴は案外多い」
 と言った。
「いいか。ミスしてもうまくいっても、それはぜんぶ自分だぜ。失敗したからってテメーの価値が下がるわけじゃねえ。自分の価値は、これまで自分を観察してきたテメーが一番よく分かってるはずだ」
 とも。
 返されたノートをめくり「オレの価値──」とつぶやく杉山の肩をたたき、大神はわらった。
「もし、それでもテメーが最後まで自分の価値を信じきれないのなら、べつの考え方を教えてやる」
「へ?」
「杉山譲という男のことは、この俺が知ってる。これまで積んだ練習もぜんぶ見てきた。テメーがノートにちまちま書いてることも、俺にはハナからすべてお見通しだ。だからいまさらお前が失敗しようがどうしようが、俺のなかでお前の何かが変わることはねえ」
「…………」
「つまり、胸はっていつもどおりやってりゃそれで十分だってことなんだよ」
「お、大神──」
「そもそも挑戦してミスるならいいことじゃねえか。つまり、試合で手を抜くとか逃げるとか、そういう──俺もお前自身も裏切るような真似だけはすんなってことだ。分かったか」
(せや。せやでユズル)
 そして、いま。
 犬塚を目前にコートに立つ杉山は、これまでにない自信に満ち溢れている。
 もともと単純な性格なのも幸いしたのだろう。観察ノートから得た自分についての事柄すべてが、いまの自分の背を支えてくれている気がしている。
(ミスしても、うまくいっても、それはぜんぶ自分や。自分は自分を裏切らん。ええかユズル──自分自身ってのは勝負するもんちゃう、信じて背中を預けるもんやで)
 杉山はゆっくりと膝を落としてラケットを構えた。
 犬塚がトスをあげる。
 肩がまわってフッという短い息とともにラケットが振り下ろされる。サーブがサービスライン上に入る。
 杉山は素早くテイクバックし、バックストロークでリターン。犬塚の返す打球は低い弾道で深くまで。強いトップスピンがかけられている。杉山はバウンドした直後の球をラケット面で撫で上げるように、ライジングショット。
 そこからしばらくラリーがつづいた。
 互いに打球は一歩もゆずらず、ベースライン際を攻める。ネットやアウトの危険性が頭をよぎる。一瞬、球威をゆるめようかともおもった。が、頭のなかで自分が自分を叱咤する。
(逃げんなッ)
 勝負や!
 と、杉山が打った直後に前へ出る。
 犬塚は咄嗟にロブで回避した。が、杉山はすでにうしろへ下がり、叩きつけるようにドライブショットを放つ。犬塚の打球が浮く。杉山はふたたび前へ出て、スマッシュエースを決めた。
「0-15」
 動きのすべてに迷いがない。
 この瞬間、杉山はおのれの勝利を確信した。
(負ける気がせえへん──なんや、この気持ちは)
 息を整えながらちらとコート外へ目を向ける。
 そこには、腕を組みこちらを見つめる大神のすがたがあった。彼はこくりとうなずいた。
 杉山が犬塚へ視線をもどす。
(せや。勝てるに決まっとるがな)
 腰を落とした。

(オレをだれやと思てんねん。──才徳の杉山譲やぞ)
 犬塚の手から、トスがあがった。
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