片翼のエール

乃南羽緒

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第三章

38話 お茶しない?

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 翌日、倉持がテニス部顧問の天谷夏子に、伊織の修学旅行について確認すると、彼女はさも当然と言わんばかりに
「もちろん参加するわよ」
 とわらっていた。
 そもそも杞憂だったようで、伊織の父親はすでに入学金支払い時に諸々の諸費用まで支払っているようだった。伊織はそれを知っていて、しかし父親の世話になりたくないという思いから勝手に修学旅行を欠席すると決めていたらしい。その件については担任の神村とも、顧問の天谷とも話し合いを続けていたそうだ。
 なーんだ、と姫川は手をうしろで組んだ。
「おれたちから回ってたんだな」
「そうでもないわ。きのうの夜にね、伊織さんから神村先生のところへ電話が来て、参加しますって言ってくれたんですって。もううれしくって涙が出たって言ってたわ」
「神村先生感動しいだもんな」
「ああ。すぐ泣く」
 クスクスとわらって、倉持はうなずいた。

「なあ、ごめんな?」
 と。
 となりのクラスにも関わらず、姫川は当然のごとく伊織の前の席にうしろ向きで腰かけてかわいらしく顔を覗き込んだ。
 ごめん、とは昨日、伊織にことわりもなく味楽へと押し掛けたうえ大将に直談判したことについてである。
「でもおれたち、お前といっしょに行きたかったんだもんよォ。なあ許してくれよ、許せよ」
「せやから別に怒ってへん言うてるやんか──」
「でも怒ってんじゃん、いまもさァ」
「だ、怒ってへんねん。これは、子どもって立場にいてる自分に苛立っとんねん。けっきょく子どもは親に意地張っても勝てへんねやなって思て」
「変なの。子どもだからこそ、親がやれ行けって言ってるうちにとことん利用してやりゃいいじゃん」
「あんなん親ちゃうもん。……」
 消え入りそうな声でつぶやく伊織に、姫川はハッと口をつぐむ。きっと彼女にとっての親は先日亡くなったという彼女の母親だけなのだ──と思えば、とたんに軽々しい言葉が出てこなくなった。
 あ、う、と戸惑いの声をあげる姫川。
 すかさず「まあまあ」と、通路を挟んだとなりに座っていた倉持がフォローに入る。
「それより伊織、近畿なんてお前のホームだろうけど。大阪いたときもけっこう行ったのか?」
「それがそうでもなくってさ、近いとそんなに行かへんのよ。みんなかて神奈川におって埼玉とか千葉ってあんまし行かんやろ?」
「まあな。でもそうか、ならフツーに楽しみじゃん」
「…………ん」
「ていうか楽しもうぜ、高校の修学旅行なんて人生一回こっきりなんだから。どうしても親の──あー気に入らねえヤツの金が嫌なら、出世払いでいつか熨斗つけて返してやりゃいいんだ」
 それならいいだろ、と倉持がわらう。
 倉持クン、と瞳をうるませた伊織は両手で彼の手を握った。
「ホンマええ男やなぁ。なんで倉持ファンクラブはないんやろ──才徳の七不思議にいれたろか。ほんでもってうちが会長になったるわ」
「なっ、なに言ってやがる」
「才徳学園に七不思議なんかあんの?」
「知らん。これがひとつ目やな」
 伊織はすっかりご機嫌になった。
 クスクスわらいながら、椅子の背もたれに身をあずける。
 まもなく昼休みも終わるころ、中庭でバスケをしていた杉山が汗だくになって戻ってきた。どうやら大神と蜂谷もいっしょに参加したらしい。杉山所属の二年B組の前で、今しがたやってきたバスケ談義に花を咲かせている。
 テニス部が集まれば、自然と視線も集まるもの。ましてそこに大神がいればなおのことである。教室や廊下がざわめくなか、ふと大神が教室内にいる姫川に気が付いた。
 おい姫、と廊下に面した教室の窓から顔を出す。大神と姫川はおなじAクラスなのである。
「うわっ大神だ──」
「文句あんのか。予鈴鳴るぜ、人の教室でなにやってんだ。はやく来い」
「保護者が来たな朝陽。早くもどれよ」
「アイツいろんなとこ派手なくせに真面目だよな。しかも姫って呼び方マジやめろし」
「わるぶって遅刻するよりよっぽどええやん」
「朝陽!」
「わかったようるせーなっ。クソ、あ。なあ修学旅行の自由行動いっしょに回るから空けとけよふたりとも。あとで話そうぜ!」
「わかったわかった」
「はよせんと向こうでオカン切れとるで」
 と、いまにも吹き出しそうな顔をする倉持と伊織に、姫川はあわてて大神のもとへ駆けていく。案の定頭を小突かれ、C組の蜂谷とともに教室まで連行されてゆく姫川。
 入れ替わりに、杉山が来た。
 よほど激しいゲームをしたのか、汗で肌に貼りつくワイシャツを脱ぎ捨ててカバンから部活用の黄色いティーシャツを取り出す。
「あっちィ。なになに、修旅の話?」
「自由行動いっしょにまわろうってよ。たしか二、三回くらいあったよな」
「二日目の夕方はうち、杏奈たちとまわる約束してるねんけど──」
「じゃあほかの時で調整しようぜ。俺から言っとく」
「うん!」

 名門私立才徳学園の修学旅行といえば、オーストラリアやフランスなど国外に行くものと言われがちだが、創業者の『日本の歴史や文化、平和学習を重んじる』という意向から、京都や奈良や九州地方、沖縄あたりが主流らしい。昨年度は沖縄だったそうだが、今年は生徒たちの声もあって四泊五日の近畿旅行に決まったとのこと。
 総合の時間、担任の神村から日程表が配られた。行動班として伊織と机を合わせる五名には杉山と倉持、女子では一番仲のよい諸星杏奈もいる。
 日程表を見た伊織は「エェッ」と眉を下げた。
「京都奈良、大阪ァ? なんで金払てわざわざホーム帰らなあかんねん……」
「ホンマやで。私立ともなりゃあもっと国外とかまで奮発してほしいわ、なあ神村センセー」
 と、班別に座ったことによって伊織の向かいに座る杉山が苦言を呈する。担任の神村誠は苦笑した。西出身の生徒をふたりも受け持つ立場として、たしかに気の毒だ──とおもったらしい。まして伊織は数ヵ月前に大阪から来たばかりなのである。
「気持ちも分かるけどなぁ。文句なら、京都とか奈良をアンケートにあげた生徒に言ってくれ。先生だって北海道行きたかったよ」
「せやな、神村センセは悪ないで杉やん。こうなったら久しぶりの西の風に思う存分当たろう」
「しゃあないな、そうしよか」
「しかし──」
 と、倉持は気にせず日程表を眺めた。
「四泊五日もあるとけっこう行けるもんだな。俺、自分で旅行の計画とか立てたことねーからわかんねえや」
「班行動の計画書は、この時間が終わったら班長がまとめて提出するように。自由行動時間は日程表のとおりだから、ルールの範囲内でかるく日程を立ててくれ。その上で心配事があったら先生に相談しなさい。先生からは以上だ」
 という神村のことばが終わるころ、授業終了のチャイムが鳴った。

「伊織──」
 と。
 めずらしくテニス部が休みのため、帰り支度をする伊織のもとに諸星杏奈がやってきた。初日からなにかとよくしてくれる優しい子である。
 いまではクラスのなかでも一番仲良くなり、修学旅行の自由行動でもすでに約束をしている。伊織の顔がパッとあかるくなった。
「杏奈おつ~」
「今日さ、ちょっとお茶しない?」
「もちろん! ええけど──なにどしたん、ちょっと暗いで」
「そんなことないよ。駅前のカフェでいい?」
「あっ、それやったら行きつけの喫茶店あんねん。そこにしよ!」
 よかった、と杏奈ははにかむようにわらって、ちらりと視線をよそに向けた。それは一瞬のことだったが、伊織は目ざとくその視線の先を見ていた。
(あ。あれ?)
 行こう、と杏奈に手をひかれた伊織はあわててカバンをひっつかみ、教室を出る。
 その間際。
 まさか──と伊織はちらとうしろを見た。先ほど杏奈の視線が向いた先、
「じゃあな伊織」
 と手を振る、倉持慎也のすがたを。
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