片翼のエール

乃南羽緒

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第三章

41話 大神ファンクラブ

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 才徳学園高等部修学旅行は、初日から二日目にかけて奈良県をめぐる。悠久の都が包有するいにしえの空気は、いまも点在する寺社や自然からも感じ得る。
 とくに二日目に登った吉野山のうつくしさたるや。現在においても神々が住まう場所と疑いなき荘厳な景観は、観るものすべてがため息をついた。
 宿は奈良駅周辺にとったこともあり、吉野山からはバスで移動。移動中は、ふだん喧しい子どもたちも登山疲れかすっかり寝入ってしまった。B組でいまだに元気なのはテニス部の杉山、倉持、伊織くらいのものだ。伊織のとなりでは杏奈もすやすやと寝入っている。
 ならんで座る男子ふたりの、通路を挟んだとなりに座る伊織がクスクスとわらった。
「ふたりとも朝練までやったのに、元気やな!」
「これくらいで疲れたって言ってるようじゃ、全国どころか関東大会だって乗り切れねえよ」
「でもたぶんA組のバスんなかじゃ、朝陽寝とるやろな」
「俺としちゃ、お前が起きてることにもビックリだけどな。杉山」
「そぉ?」
「ふふ、神村先生正解やったな。……修学旅行のしおりに部活道具の持参禁止って書いといて」
「なんでだよ」
「書かへんやったらぜったい持ってきてたやろ。口を開けばテニスやもん。なあ!」
 伊織はぐっと前の席を覗き込む。
 すこしくたびれた顔の担任が、ホントだなぁと倉持たちを見た。
「初めてだぞ。しおりにこんなこと書いたの──まさかうちのテニス部が強豪の仲間入りするとはおもわなかったよ。ほら俺、体育教師だろ。当然テニスだってそれなりにやってたから、この学校じゃ出来る方だったんだよ。でもお前らには勝てないだろうなあ──よくやってるよホント」
「先生も関東大会は応援来てや。夏子もおんで」
「天谷先生がいるのは関係ないだろう……まあでも、受け持ち生徒が三人もいるんだから応援はしたいなぁ。関東じゃ休みとれなきゃ無理だけど、全国ならクラスをあげて応援に行くから」
「イェーイ。ほんなら大丈夫や、うちのテニス部は全国優勝する予定やから」
「ハッハッハ! マネージャーがいちばん頼もしいな──そういえば、全国ともなると当然このあたりの学校の子たちも来るわけだ。お前ら西の申し子たちなら、知り合いもいるんじゃないか?」
 と、神村が車窓を覗く。
 夕方の奈良市には、ちらほらと学生服を見にまとう若者のすがたが見られる。関西のテニスプレイヤー事情ならば、中学時代に中体連と関西ジュニアテニス大会に出ていた杉山が詳しい。
 とはいえ、あれから二年の月日が経ったいま、関西地区の友人とはずいぶんご無沙汰になっている。
 せやなぁ、と車窓を覗いて杉山がつぶやいた。
「久しぶりに連絡とってみるかな。……」

 ※
 奈良公園の鹿をひとしきり愛でたのち、宿にもどって夕食と入浴。部屋に戻るべく廊下をひとり歩いていると、ふいに腕をとられた。あわててそちらを向く。よく知らない女子生徒がそこにいた。
 七浦さん、と女子生徒は口の端だけひきつらせた笑みでこちらを見ている。伊織はたじろいだ。
「あ。ごめん──他クラスの子ォ、まだ覚えてへんねん」
「いいんですのよ。アタクシC組の椿ふゆ子と申します、仲良くしてね」
「ああ! ほなふゆちゃんって呼ぶわ。こっちも七浦やのうて伊織でええで。うちいままで双子の姉貴がそばにおってんからさぁ、名字で呼ばれ慣れてないねん。七浦って呼ばれると、いつもふたり同時に振り向いてもてさぁ。ほんで、なんか用?」
 と、快活にわらう伊織。
 ふゆ子は目を白黒させて、マシンガンのように語られた伊織の自己紹介もどきを受け止めた。しゃべり方に滲み出るたいそうな家柄に生まれ育った彼女にとって、伊織の持ち味である達者なコミュニケーションはカルチャーショックだったらしい。
 やるわね、と脂汗を額に浮かべてつぶやく。
 するとロビーから、パタパタと小鳥がはばたくような足音を立て、数名の女子生徒が駆けてきた。そのいずれも伊織は知らない。
「ふゆ子さん、大丈夫?!」
「ええ──すこし驚いてしまっただけよ」
「なになに。ふゆちゃんどっか具合わるいん」
「いっ、いいえ。そうではなくてその、アタクシたち貴女に聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
 伊織は、自分を取り囲む女子生徒の顔をひとりひとり見回して、最後にふゆ子へと視線を戻す。なぜか彼女たちはみな怒りや恨みをはらんだ瞳で、こちらを睨み付けているように感じる。
(あれ、これは──)
 とおもった矢先、ふゆ子はツンと顎をあげて腕組みをした。
「アタクシ、大神謙吾くんファンクラブの会長をつとめておりますのですけれど。この二ヶ月ほど貴女の行動を見させていただいて──すこし見過ごせないことが多々あってね、こうしてお呼びだてしたのよ」
「ワーオ!」
 と、唐突に伊織がとびあがった。
「大神ファンクラブ──出た。ホンマに存在してたんや! やはははははッ」
「な、なにか可笑しくてッ?」
「いや可笑しいやろ──ブフォッ。キムタクやあるまいし、なにが悲しくて同級生男子追っかけなアカンねん!」
「な、な、なんですって──」
「ねねね、ファンクラブって具体的にどんな活動してはんの? 試合応援とかしてくれはる? このあいだ見に来てたんかな、気付かへんかった。もしかして校内に大神のポスターが点在してんのって、あれファンクラブの人が貼ってんの?」
「な、な、な、──」
「ほんなら大神の家族構成とか嫌いなものとかも知っとるんちゃうん。アイツいっつも完璧人間みたいな澄ました顔しよってから、なんか弱点のひとつもないとつまらんやんか。知っとったら教えてや、意外に虫嫌いとかありそうやな」
「う、うぅ……」
 椿ふゆ子は口ごもり、頬をりんごのように染めるやたちまちワッと泣き出した。
 周囲で伊織に威圧感をかけようと取り囲む女子生徒たちがワッと慌て出す。
「ちょっと七浦さんどういうつもり!」
「ふゆ子さまかわいそう──」
「エッ!?」
 どういうつもりもなにも、質問しただけである。大神の弱点を聞いたくらいで泣かれるとはおもわず、ポケットからしわくちゃになったハンカチを取り出して、子どものように泣きじゃくるふゆ子に差し出した。
 いったい何が彼女の涙を生ませたのかは、いまだもってさっぱりわからないが。
 そのときである。

「おい」

 と、よく通る声が廊下に響いた。
 大浴場からもどる道すがら、通りかかったらしい男子生徒の集団が目に入る。途端、周囲の女子生徒がざわめいた。もはやこちらまで泣きそうな伊織が顔を上げると、そこにいたのは風呂上がりのため頬を上気させた五名のテニス部員。
 先頭の大神が、伊織と、それを取り囲む多数の女子生徒を見比べ、わずかに呆れた顔でこちらにやってくる。
「いじめか?」
「お、大神ァ」
「おいたが過ぎるな、伊織」
「せやねん──って、はあ!? なんでうちが苛めとることなっとんねん。この情勢見えへんかコラ!」
「椿が泣いてるぜ」
 という大神の声に、うつむいて涙をぬぐうふゆ子の肩がびくりと揺れた。
「いや知らんがな! 勝手に詰め寄ってきて勝手に泣き出してん! むしろこっちが泣きたいわ」
「バーカ。テメーのコミュニケーションは育ちの良い人間にゃ刺激が強ェんだよ」
「さてはいまうちのこと育ちのわるい人間って言うたな? 聞き逃さへんで──」
「それよりちょうど良かった。お前ちょっと俺の部屋に来い」
 ざわっ。
 周囲の女子生徒がざわつく。先ほどまで涙に暮れていたふゆ子も、大きな瞳をかっぴらいて伊織を凝視している。
「なんで」
「明日の朝練についての説明と、ランニングコースの確認だ」
「ハア……」
「不服そうだな。おい椿ふゆ子」
「はっ──はい!」
「こいつ、借りるぜ」
「も…………もちろん構いませんわッ」
 ふゆ子は、背筋をピンと伸ばして大きくうなずいた。
 ふてぶてしい表情で大神に引きずられる伊織は、ふゆ子に向かって大きく手を振りながら、
「泣かしてもてごめんやでーっ」
 と眉を下げてさけんだ。

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