片翼のエール

乃南羽緒

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第四章

65話 俺が託したのは

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 ベンチコーチの大神の顔は、渋い。
 試合開始から五ゲーム終了後、いまだ倉持のスタミナは万全だ。となりのベンチに腰かけて顧問のアドバイスを聞く馬場園の方が疲労は濃い。サービスゲームは死守し、外野で見守る才徳陣営から見ても上々の試合をしているとおもわれるほどのゲームだが、どうも大神は納得していないらしい。
 倉持はドリンクを片手に、大神のとなりへと腰かけた。
「固いな」
「そうかな。……」
「フォームが崩れてる。気持ちが急いて、バックのときに身体がひらいてんだよ」
「ああ──分かった」
 倉持の表情も浮かない。
 大神の片眉がぴくりと動く。
「おまえ、」
 と声をかけるも、チェンジコートの時間は限られているため倉持は立ち上がった。つぎは倉持のサービスゲーム。馬場園はこのあたりでゲームをブレイクしに全力でかかってくるだろう。タオルで顔の汗を拭いてから倉持は黙って奥のコートへ移動した。
 大神のこめかみに汗が一筋流れる。

 イヤな予感は的中した。

 倉持サーバー、一ポイント目のファーストサーブがフォルト。慎重に叩き入れたセカンドサーブによって隙が出来たところを、馬場園は容赦なく叩いてきた。深く伸びるストレートがベースライン上で大きく跳ねる。倉持のラケットはバウンド後のボールにわずか届かず、リターンエースを決められる。
 そこからガクッと流れが変わった。
 いつもならばこの程度、彼の強靭なメンタルの前にはたいした問題ではない。が、今日の倉持には響いたらしい。
 その後のサーブは、軒並みファーストサーブがネットやフォルト。馬場園優勢のままポイントは進み、まさかの倉持サービスゲームがブレイク。その後も持ち直せぬまま、馬場園リードのゲームカウント5-2を迎えて、四度目のチェンジコートとなった。
「…………」
 外野の才徳陣営には会話もない。
 いつの間にかいっしょに観戦している松工レギュラー陣のなかには、半ば予祝の雰囲気すら滲み出はじめている。
 ここで負ければ、全国大会出場など夢のまた夢。明前ら一年生はともかく、二年生たちはこれが最後の機会なのである。
「倉持──」
 杏奈が、祈るように指を組んだ。

「──わるい」
 倉持はひと言つぶやいて、ベンチに座った。
 それがなんの謝罪か。大神は問うことはしなかった。
「俺が、」
 倉持を見もせずに、その顔にはすこし笑みすら浮かべて、言った。
「なぜたかが捻挫くらいで、関東大会の試合に出ねえと決めたか知ってるか。思慮深くて実はだれよりも慎重なこの俺様がよ」
「…………」
「全国までに足が悪化するから? 関東大会出場校を甘く見たから? 馬鹿か」
 そんなわけねえだろ、と大神はわらった。
 倉持はうなだれた頭をゆっくりとあげて大神を見る。
「才徳にゃテメーがいるとおもったからだよ」
「え?」
「俺が抜けて、才徳のS1を任すに足る人材が誰もいねえとおもったら、わざわざ兄貴の忠告まで聞いて辞退なんざするわけねえだろ。唯一、百歩譲ってテメーなら──と考えての決断だ」
「────」
「この俺の判断が、まさか信じられねえと言いてえのか。おまえ」
 倉持の眉がわずかに下がる。
 図星であった。これまで強靭なメンタルとタフなスタミナを誇っていた倉持だが、そのメンタル安定の裏には、やはりほかのメンバー同様に『まだS1には大神がいるから』という絶対的な信頼があってのものだったと、気付いたからだ。
 サービス練習のときだった。
 才徳S1という立場の言い知れぬプレッシャーが、馬場園の球をうけた瞬間から猛烈に襲い来た。
 バカやろう、と大神はまた言った。
 ムッと子どものようにむくれて、倉持の頬をつねる。
「なっ、いてえよっ」
「勘違いすんじゃねーよ。俺が託したのは才徳のS1であって、才徳大神の代わりじゃねーんだぞ」
「あ、」
「いつもの部内戦みたいなテメーの迫力はどこにいった? 北斎の波が高く上がって、大鷲が両翼広げるようなテメーのテニスはどこ行った!」
「ああ、──」
「テメーが負けるのは俺だけだろ。よく見ろ、相手は俺じゃねえ」
 ほら行ってこい、と。
 大神は倉持の胸をドン、と叩いた。その瞬間、倉持の胸につかえて取れなかったモヤモヤがからだから抜け出た、気がした。
 倉持は立ち上がった。
「……勝ってくる」
「待ってるよ」
 フランクに手を上げた大神に、倉持はとびきりの笑顔でハイタッチをした。

 倉持の顔に、もはや翳りはない。
 2-5のゲームカウント、倉持サーブから始まったゲームは、試合を観戦していた者たちがみな気付くほどに様子が違っていた。
 これまでわずかに強ばっていた倉持の身体はしなやかに動き、得意のフットワークとスタミナを駆使して自陣コートを駆け回る。
 このサービスゲームを死守して3-5、馬場園自慢のパワーストロークがだんだんと当初の威力に欠けてきた九ゲーム目。馬場園の深く切り込むストロークを、バウンド後すぐに返すライジングショットによってなんなく返球し、倉持にしてはめずらしく前に詰めた。
 浮いた球をショートクロスに叩き込み、まさかの四ポイントストレート奪取によって相手のサービスゲームをブレイク。
 あれよあれよという間に5-5へと追い付いてしまった。
 おいィ、と。
 フェンスに顔をめり込ませるほど夢中な杉山が、弾んだ声をあげた。
「ど、どないしたんや倉持ィ! アイツかつてないほどノリノリなっとんぞ!」
「さっきのチェンジコートがあってからだな。また大神がなんかうまいこと言ったんだろ」
「肉まん奢るとか言うたんかなぁ」
「いやだとしたら慎也さんチョロすぎでしょ」
「そんなことで元気になるのは伊織と廉也くらいだろな」
「オレそんなチョロくないッスよ」
「なんにせよ、見えてきましたね──初戦突破!」
 天城が跳び跳ねる。
 ともに観戦する松工レギュラー陣は、予祝ムードから一変。
 その後、守備力までも高くなった倉持の壁に立ち向かうも、馬場園がそれを越えることはかなわず、 ゲームカウント7-6(タイブレークカウント12-10)によって関東大会初戦の最終試合は幕を閉じた。
 
「団体戦結果3-2、勝者才徳。両者、礼」

 ありがとうございました、と。
 両校の登録選手がネットを挟んで向かい合い、礼と握手を交わす。松澤工業高校選手の頬はすっかり涙に濡れている。
 才徳は、次の対戦相手が決まるまで待機となる。みな粛々とした態度でコートからフェンスの外へ出た。
 とたん。
 姫川、杉山、星丸が倉持に覆い被さった。
「うわっ、なんだよ!」
 倉持がよろける。
 先ほどの試合、健闘を称えるように姫川はぐしゃぐしゃと倉持の短髪を掻き乱した。
「オイッ、なんだよさっきの試合は!」
「めちゃくちゃドキドキしたでホンマ。最初っからエンジンかけてェなたのむからぁ」
「マジでここで終わりかとおもってちょっと泣いちゃったッスよ。よく持ち直しましたね!」
「わ、わるかったって。次はねえようにするから……」
 そんな様子を遠目に見る伊織。
 世話のかかるヤツだったよ、と大神がうれしそうにつぶやく。
 何したんよ、と伊織の口角があがった。
「べつに。──アイツがいつまでもS2気分で試合してやがったから、発破かけただけだ」
「はあー。やっぱり才徳は大神おらんとアカンな」
「逆を言やぁ、俺が見てる限り負けはねーよ」
 クス、とふたりで笑い合う。
 が。

「大神部長、速報ですッ」
 飛び込んできた声は才徳学園テニス部部員のひとり。一同がそちらに目を向ける。
 次の対戦相手が決まったのかと、だれもが瞳に期待をこめる。部員はあわてたようすでトーナメント表を広げて見せた。指し示すのは、才徳とおなじBグループに所属する青峰学院高校──。

「青峰が初戦で破られました。初戦の相手は千葉代表のシード校──一色徳英高校です」

 青峰が?
 大神は険しい顔でつぶやいた。

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