片翼のエール

乃南羽緒

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第四章

74話 ちいさな本音

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 ──どうして?
 すごく似合うと思うけどなぁ。
 私はあんまりそういう色合いが似合わへんのよ。不思議やね、おんなじ顔しとるのに。
 ええから着てみて。
 ほら、思うたとおりや!
 すっごくかわいい。
 ほんなら私はこっちの色にしよか。
 うん、色違いでお揃いにすんねん。いかにも双子って感じでええやろ。──

 ──伊織!
 うふふ、なんでもない。
 呼んでみただけ。──
 
 ──ねえ、試合しよ。
 私、伊織のプレー大好き。
 いっしょにテニスしよるとホンマに楽しい。
 ずっといっしょにテニスしようね。
 伊織が飽きた言うても、引きずってでも付き合うてもらうからね。
 あははっ。
 もちろん伊織のことも大好き。──

 ──伊織。
 伊織、はよ起きんと。
 伊織。──
 
 ────。
 ──。
 がばりと身を起こした。
 耳元で呼ばれた気がして周囲を見渡してみるけれど、見慣れぬ壁と天井、襖を隔てた向こう側でねむる愛織がひとりいるばかり。
「アカン、寝てもた」
 伊織はごしごしと顔を手で擦る。
 夕べおこなわれた通夜から今まで、伊織は寝ずの番を買って出た。寝ずの番とは夜通しろうそくの火や線香が絶えぬよう、故人のそばで見守るお役目。現代社会においては不要ととられることも多いが、単に伊織がやりたくて手を挙げた。
 そっと襖の向こうを覗く。
 おどろいたことに、ろうそくがあと数センチもないほどまで短くなっていた。辛うじて揺らめく灯火は、必死に消えまいと持ちこたえているらしい。
 あわてて新たなろうそくに火を移す。
 伊織はフフ、とわらった。
「愛織が起こしてくれたん?」
 返答はない。
 当たり前のことだが、ろうそくの灯りに照らされる彼女の顔はほんとうに眠っているようで、肩をちょいと揺らせば起きるのではないか、なんて衝動に駆られる。
 彼女の頭の横で、伊織は胡座をかいた。
 静かだ。
 となりの部屋には千秋と蓮十郎もいる。物音がしないので、いまごろは疲れ果てて眠っているのだろう。
「夕方な」
 つぶやく。
「女の子に会うてん。春子ちゃん。ずっと愛織と仲良うなりたかってんてグズグズ泣いてはった。来月には退院できるねんて──良かったよね」
 でも、と続けてうつむいた。
「あの子が愛織に近づかへんままやったら、愛織──生きてたんちゃうん。……」
 こんなことを愛織が聞いたら怒るだろうか。
 いや、きっと彼女なら笑い飛ばして終わるだろう。そんなわけないやん、と言って伊織の顔を覗き込みながら、
 ──本心ちゃうやろ?
 なんて首をかしげてわらうのだ。
 伊織は姉の顔に手を添えた。血の通わない皮膚はゴムのようで、その温度はゾッとするほど冷たい。
 ハァ、と短く息を吐き出した。
 意識的に呼吸をしなければいつの間にか息を吐くことすら忘れている。胸にくすぶるこの感情も、一度でも咽び泣いてしまえば楽になろうが、愛織の顔を見てもなぜだか涙は出なかった。
 ふいに、背後の襖が開く音がした。
 スウェットを着込んだ如月千秋が、髪をかきあげて部屋に入ってくる。彼は掠れた声で、
「交代していいよ」
 と言った。
 寝ずの番のことである。が、伊織はううんと首を振る。
「うちここにいたい」
「あ、そ。……」
「寝ててええで」
「眠れねーから来たんだよ」
「あ、そ。……」
 コートに立つ如月千秋とは別人であった。いつでも滲む余裕の笑みはなく、愛織の顔をじっと見つめたまま動かない。
 しばらく沈黙がつづく。
 が、とつぜん千秋が線香立てから一本抜き取ってろうそくの炎で火をつけた。見れば、すでにあげられた線香も大部分が炭と化している。これも寝ずの番のお役目のひとつである。
 彼は手で線香の火を扇ぎ消しながら、おもむろに口をひらいた。
「関東大会、おめでとう」
「え?」
「なんだ聞いてないの。才徳が3-2で王者桜爛を破って関東制覇したって、井龍から聞いたよ。才徳も誰かしらから連絡来てるだろ」
「ああ──そういえば今日あれからずっと携帯見てへんかった。どの試合に勝ったん」
「S3とダブルス二本だと」
「わ、あまりんスゴいやん。勝てたんや」
 D1は酷かったらしいぜ、と千秋は苦笑した。
「播磨なんか報せを聞いてからの出番だったから、ゲーム間でいちいち泣き出しちゃってもう大変。試合どころじゃなかったってさ」
「はは、……でもそうなると、井龍くんは聞いてからでもちゃんと倉持クンに勝てたんやなぁ。あの人やっぱりスゴいな」
「桜爛のエース張るだけあるだろ」
「うん」
 ぽとり、と新しい線香から灰が落ちる。
 伊織が自身の携帯電話を取り出すと、着信やメール、ラインなど様々な連絡が多方から入っていた。とくに多かったのは杏奈である。
 彼女は病院にこそ来なかったものの、最後まで試合を見届けてくれていたらしい。励ましと温かなメッセージを見て、伊織はフッと口角をあげた。
「みんなめっちゃうちのこと心配してくれてる」
「そりゃそうだろ。後を追うんじゃないかって、味楽のおやっさんなんかハラハラしてたよ」
「んなアホな。……」
 クスクスとわらったが、内心でそれもよいかとおもう自分もいた。だってここにはもう、なにより大切であった母も姉もいない──。
 やめてくれよ、と千秋がつぶやいた。
「後追いなんて冗談。とうぶんいやだぜ、僕。またこんな思いするの」
「せえへんわ。でも、ホンマに──愛織やのうてうちやったら良かったのに」
「は?」
 千秋の顔がゆらりと伊織に向けられる。
 視線にこもる怒りの感情に気が付いた。が、伊織は続けた。
「うち知ってるもん。ふたりおんなじこと想ってたことくらい」
「なに言ってんだよ。だからってどっちがどうとかないだろ、くだらないこと言うんじゃない」
「くだらなくない。少なくとも愛織は本気やったで、アンタも知っとるやろ──せやからうちアンタのこと嫌やってん。いつもいつもそうやって」
「なんだ文句あるなら言ってみろよ、聞いてやるから!」
「そん」

 チーン。

 と、ふいに枕元の輪が鳴った。
 伊織と千秋は一気に口をつぐみ、顔を見合わせてパッと手を取りあい身を寄せる。ふたりとも輪に手は触れていない。とはいえ、なにかが触れなければ音は鳴るはずもない。仲のわるい兄妹は同時に愛織の顔へ視線を移した。
「あ、愛織かいまの?」
「ほら心なしか表情がちょっと怒ってはるで」
「やめろよそういうの」
「喧嘩すんなって怒ったんかな」
「ああ、いつも止めに入ってきてたからなぁ。……枕元でうるさかったね、ごめんな愛織」
 千秋がやさしく愛織の頬を撫でる。
 あんまりやさしいその手つきに、伊織はふいに胸の奥から込みあがった。ぐっと眉間にシワを寄せ、うつむいた。
「アンタはいつも──愛織にはほんのちょっと優しかったんや」
「おまえにだって優しかろ」
「そういうことちゃうねん。うちはそれ見るたんびにいつも気色わるゥ思て」
「気色わるいとか言うな。傷つくから」
「──でもいつもほんのちょっぴり、嬉しかってん。……愛織が嬉しそうやったから」
 声が掠れた。
「…………」
 千秋が伊織の肩を抱く。
 空いた方の手で、胸の上に組まれた愛織の手を握った。ひんやりと冷たくて硬い感触に、千秋は苦笑した。
 それからふたりの間に会話はなかった。
 互いに肩を寄せあったまま、やがてどちらともなく微睡み、ねむる。
 朝を迎えて蓮十郎が部屋を覗くと、そこには愛織に寄り添うようにねむる兄妹のすがたがあった。
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