片翼のエール

乃南羽緒

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第四章

75話 父兄の期待

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 葬儀には愛織のクラスメイトほか、事故に居合わせた小児患者の春子、桜爛大附と才徳学園のテニス部レギュラーなどが弔問に訪れた。
 喪主は父蓮十郎が務め、兄妹も弔問客対応に終われて悲しむ暇もなく。その代わりと言わんばかりに味楽の大将がおんおんと泣き出すものだから、伊織はそれを宥めるのに必死でなおさら涙も引っ込んだ。
 読経、焼香ののち、棺を閉める前の最期のお別れ時には弔問客のほとんどが涙を流したが、そのなかでも兄妹はシャンと背筋を伸ばして見守った。みながひとしきりお別れを述べたのち、視線は自然と兄妹へ向けられる。伊織が千秋を見た。千秋はうなずき、ともに棺へ歩み寄る。
 顔を見られるのもこれが本当に最期。
 伊織はおもむろに、ふところからあるものを取り出した。
「むこうに行ったらおかんといっしょに読んでや」
 ということばとともに姉の枕元に添えたのは昨夜遅くにしたためた手紙。それを見た弔問客はまた、泣いた。千秋が棺の窓から手を差し入れて愛織の頬を撫でる。
「────」
 ちいさく囁いた彼のことばは誰にも聞こえない。
 聴こえたのはきっと愛織だけ。その瞬間、千秋の瞳からぽろりとひとしずくだけ涙がこぼれた。伊織の手が千秋の背に添えられた。先ほど囁かれた彼のことばこそ聞こえなかったけれど伊織には分かっていた。彼の想いも、涙の意味も。
 兄妹そろっていまいちど合掌をしたのち、伊織が千秋を支えるように棺から離れた。
 棺の窓は閉められて、四隅に釘が打たれゆく。
 葬儀屋からの儀礼的な挨拶をさいごに、棺は火葬場へと送られた。

 ※
 ちょっといいかい、と。
 告別式が終わり棺が火葬炉に入ってまもなく、大神は如月蓮十郎に声をかけられた。骨揚げは親族のみというアナウンスのため帰り支度を終えた矢先のことだった。
 蓮十郎は外で話そう、とジェスチャーをして大神を連れ立ち中庭へ出る。
「ほんとうにいろいろとありがとう」
 開口一番、蓮十郎は頭を下げた。
 大神は恐縮した。礼を言われるようなことはなに一つしていないつもりだったからである。結局愛織にしてやれたことは、振り返れば何もなかった──と、告別式のあいだずっと考えていたほどだ。
 そんなことはない、と蓮十郎が中庭のベンチに腰かける。
「愛織の体調のこともそうだが──なにより伊織のことだ。母親を亡くしてまだ半年も経ってないあの子が、ここまで短期間で前向きになってくれた」
「それはアイツの努力です。初めて会った日からずっと伊織は変わってない。それは、愛織もおなじくそうだったのだとおもうけど」
「ああ。強い子たちだよ、いや──強いんじゃない。本当は強くなんかないんだけど、強く在らなくちゃいけない環境に私が置いてしまったんだ。香織が──あの子たちの母親が死んだときもちょうど全英オープンで試合中だった。死に際に立ち会うことができなくて、ふたりには心細い思いをさせちまって」
「あの大会の直後に引退を表明されましたね」
「続けていく自信がなくなった。いや、続ける意味を見失っちまった。振り返ってみりゃァ私のテニス人生は香織がいてこそのものだったから」
 蓮十郎はうなだれる。
 その感覚は弱冠十七歳の大神には共感し得ぬ感覚であろう。大神にとって──いや多くの高校生選手にとってのテニスは、あくまで自分が本能からやりたいと思うものであり、だれかのために戦うものではない。
 如月蓮十郎という男はコートの上で縦横無尽に駆けまわる猛獣選手だった。そのプレーを初めて見たのは大神が五歳のころだったろうか。アメリカの地でテニスに出会い研鑽を積む少年は、しかし周囲との人種の違いに幼いながらに悩まされた。
 骨格も筋肉もなにもかも、周囲の西洋人とくらべれば発達は遅く、ずいぶんと負け越したものだった。そんななかテレビで彗星のごとくあらわれた日本人プロ。体格などものともしないそのプレーにどれほど勇気づけられたことか。
 如月蓮十郎プロは大神謙吾にとって、テニスを続ける糧であったことは間違いない。
 その憧れだった選手もしょせんは人なのだ──と大神はいま痛感している。とはいえ、その人間臭さは嫌いじゃない。蓮十郎のとなりに腰をかけ、大神は高校生らしい好奇心を発揮した。
「失礼を承知でうかがいますが、その──如月プロには奥さまがふたりいらっしゃるっていう認識でいいんでしょうか」
「あ、いや。恥ずかしいな。はは──日本は一夫多妻は認められてねえからなあ。正妻というか、戸籍上は千秋の母親が妻なんだ。ただ香織とは妻よりも前に知り合ってた。妻とはありがちな見合い結婚だ」
「へえ」
「もちろん妻のことは大事におもってるよ。なんだかんだここまで文句も言わずについてきてくれてるし、香織とその娘たちのことに関してもずいぶん寛容だった。まあ、たぶん承知の上だったんだとおもう」
「承知というと」
「私の気持ちが、香織にあったことにだよ」
「…………」
「高校生にこんな話をするのも恥ずかしいけどさ。香織はもともとスポーツトレーナーとして所属してたんだ。私の試合のときもよくスタッフとしてついて来てた。伊織たちを見りゃ分かると思うが、そりゃあもう香織は綺麗な子だった。女に足りてた当時の私でも目がくらんだ」
「ふ、」
「でも彼女はどっかぽや~っとしてる子で、男に言い寄られても気付かない。恋愛というものもあんまりよく知らない。ってまあ箱入り娘みたいな娘だった。数多の女と寝てきた私も初めてだったんだ、ああいう子は」
 ああ恥ずかしい、と蓮十郎は頬を赤らめた。
 まるで心は二十代当時にもどったかのようすに、大神はクスクスとわらう。
「それはもう夢中になって迫った。好きだって気持ちをずっと伝え続けて、でも一向に躱されるもんだからとうとう一度はあきらめてさ。当時、いい加減身を落ち着かせろともらってた見合いを承諾したんだ。それがいまの妻ね」
「はい」
「踏ん切りつかなかったからいっそ既成事実も作っちまおうって子ども作ってさ、とうとう俺が結婚するってなったときに香織が泣いたんだよ。やっと気付いたんだって、いままで応えられなくてごめんなさいって。もうさ、わかる? ずっと好きだった女が自分にそう言ってひとりで泣いてんだぜ。たまんねーだろ」
「…………そうですね」
「どうしても好きだった。ずっと好きだったから、ほかの男のものになるなんて考えたくもなくて──その」
「ヤッちまったんですね」
「ヤッ、ちまったんだなァ」
「子どもが出来てどうしたんです」
「もちろん父親になるって言ったよ。このことで妻のことはそうとう傷つけちまったけど、だからって香織のことは捨て置けるわけねえ。三人の父親になるって宣言したわけだ。まあ、出来たのは金銭援助とたまにテニスを教えてやることくらいのもんだったけどさ。……」
 まあそんな感じ、と蓮十郎は空を仰ぐ。
 大神もつられて見上げた。建物の煙突から煙が立ち昇る。まるで空に続く梯子のように伸びて、伸びて──魂というものが目に見えたなら、きっと彼女は一段一段を踏みしめてあがっていることだろう、と大神はおもった。
 火葬場は全面のガラス張りになっており、遠目ながら中が見える。才徳や桜爛のテニス部員たちは千秋や伊織を囲んで何ごとかを話している。そこそこ笑顔も見えるあたり必死に励まそうとしているようだ。
 先ほどひとしずくの涙をこぼした千秋も、すっかり笑顔にもどっている。
「千秋がキミに」
 蓮十郎がふとつぶやいた。
「伊織と試合をしろと言ったろう」
「はい──インターハイのあとにそう言われました」
「もうした?」
「いえ。ただ、打ち合っただけでも千秋さんの言いたいことは分かった気がします」
「そう。……伊織は、アイツは昔から筋がよくて。もちろん愛織の方がいろいろうまいんだけど、いざ本番勝負ってなると愛織は頭を使って難しくプレーを組み立てちまう子だった。逆に伊織はもう頭よりも身体が先に動くタイプで──そらもう面白いんだ」
「わかります。でも、愛織が言ってました。伊織はシングルスがスランプなんだと」
 そうなんですか、と大神は前傾して蓮十郎を覗き込む。俺もわからんのだよ、と姉妹の父は苦笑した。
「伊織は中学にあがってからテニスと向き合いたがらなくなった。もちろん打つのは好きで俺の友人たちとはよく練習したけど、実力を見せつけるような場面をいやに嫌った。千秋が発破をかけようが俺がなにを言おうが、アイツは突っぱねて──俺も千秋も、前みたいに奔放なテニスで貪欲に勝ちをとりにいくあの子のテニスが見たかった。おそらく愛織もそうだったはずだ」
「…………」
「去年の全国からキミのことは知っていたんだ。千秋も、キミのテニスはおもしろいと常々言ってた。だから香織があんなことになってあの子たちを関東に呼んだとき、伊織に才徳を提案したんだ」
 蓮十郎の視線が大神に移る。
「キミがいるからだ。キミと試合をすることで、あの子のなかのテニスがなにか変わるんじゃないかと期待した。だから──」
「俺から七浦というヤツに注目させるよう、千秋さんが仕向けたんですね」
「そういうことだ。でも結局……愛織がこうなってしまった以上、伊織は今度こそテニスを捨てちまうかもしれんな。あの子は俺と似てだれかのためにテニスをやってきた子だから」
「…………」
 巻き込んですまない、と苦悩する父親はぐっと目頭をおさえる。
「でも才徳に入ってあの子が変わったのもたしかだった。今後は俺みたく、テニスはやめちまうかもしれないが──せめて卒業するときまでは仲良くしてやってくれるとうれしい」
 ということばを最後に、蓮十郎は黙った。
 大神は一瞬口をひらいたけれども、結局なにを返すこともなかった。けれどいまこの瞬間、彼のなかでひとつ確固たる思いが芽生えたのはたしかだ。遠目に見えるガラス窓の向こうで微笑する伊織を、大神はまばたきひとつせずに見つめ続けた。
 
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