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プロローグ(2)
しおりを挟む「おれの家は、おふくろが料理の先生だったけれど、おれに料理を教えてくれたのは、家の本棚にあったたくさんの本たちだ。おふくろ、料理は得意だったけれど、仕事が忙しくて、土日も祝日も、おれが知らない人たちに料理を教えてばかりだったからな。今回だって、会社から帰宅して、大阪にいけっていわれたって話をしようとしても、おふくろの帰りが遅くて待ちきれなくて、冷蔵庫の缶ビールを出したくらいだから」
と、アキヒトは、苦い顔を微笑みでおおいながら口を開いて言葉を発した。
母子家庭のアキヒトの家では、アキヒトが社会人になったあとも、母親が精を出して仕事をしている。
「大阪転勤の話を、わたしに真っ先に電話で教えてくれた日ね。ハムとタマゴとナスとチーズを使っておつまみを用意してしまったから、冷蔵庫の缶ビールを手にしたら、そのまま三本くらいは、次から次へと飲んでしまいそうだって」
「そうそう。おふくろの帰りが遅いのは小学生のころからだけれど、あの晩は、料理教室の生徒さんのお別れ会があったらしく、特におふくろの帰りが遅い日だった。結局、缶ビールを四本も空にしてしまったんだ」
自信の持てる料理といえば目玉焼きくらいのサクラだ。アキヒトの母親が料理上手だと知り、あたりまえのように心がひるんだ。
恋人のアキヒトだって、軽食くらいならパパッと作ってしまう人だから……
『おれは、料理上手の女性っていうのが、どうにも苦手みたいなんだ。理由はハッキリしてる。おふくろだ。他人さまの家に温かい家庭料理の心得ばかり届けているあの人が、小学生のおれには、なんだかダメだったみたいだ。おふくろのことは嫌いじゃない。でもな、男女の関係を意識しないといけない、料理上手の女性に近づかれると、すごく嫌な感じをおぼえる。学生時代にも、社会人になってからも、手作りナントカ――菓子や軽食を持って近づいてきてくれる人がいた。だけれど、近づかれると逃げ出したくなってばかりだった』
いつぞや、アキヒトがそのようにサクラに告げてきたことがある。
サクラは、短大時代の友人が主催するバーベキュー会に参加したときにアキヒトに出会った。
アキヒトも大学時代の友人に連れてこられた口で、一緒に焼きそばを作る係を担当したのが互いに恋に落ちるきっかけとなった。
まるで恋愛ドラマによくある展開が詰まったコップに二人で入れられて、マドラーでしっかりとまぜられたような、そういった出会いかただったが、サクラとアキヒトは、堅実な愛を育んできた。
『今からいうことは、決して、サクラをけなしている意味じゃない。えっと……あのな、サクラが、焼きそばに入れるキャベツ一個を切る方法もわからないって様子を見せてくれたのが、なんていうか……かわいらしく思えて……ほら、おれが料理の腕を磨いたのは、独学だろ? えっと……だからな、おれが自分の力で、サクラにキャベツの切りかたを教えているっていうのが、すごく楽しかった……ごめん。うまく話せてないな』
サクラは気づいている。
アキヒトは、たしかに母親のことを尊敬している。嫌ってなどいない。アキヒトにとって、料理を誰かに教えてみたいというのが、尊い行為なのだ。
あのバーベキューの日、サクラの友人がすぐ近くで魚をさばいていた。その友人とともに、魚料理を担当していたアキヒトの友人は、女性のてきぱきとした指示のもと、さばいて出た内臓を片づけたり、魚を棒にさしたり、包丁やまな板などの洗いものをこなしたりしていた。
『わたしは、一生、魚をさばけるような腕が身につかないかもよ? もしも、おすそ分けで、釣った魚をご近所からたくさんもらったら困るかもよ?』
サクラがそのようにいうと、アキヒトは愉快であるという感情を、口元にも、頬にも、目尻にものせた。顎が突き出るほど笑っていた。
『魚のさばきかたなら、本で読んでおぼえた。実際に、人生で頻繁に魚をさばく機会があったよ。釣った魚をご近所からたくさんもらったら、おれがさばけばいいだろ? サクラは、それをおいしそうに食べてくれればいい。よし、問題ない!』
サクラが料理の腕のことで気が滅入って、半ば愚痴をこぼすたびに、アキヒトは、自分の料理の腕をさりげなくアピールしてくれた。男として、愛する女性を守っているような、騎士の気分になれると、アキヒトは大きく喜んだ。
そんな会話を繰り返すうちに、いつの間にか、サクラは自分が料理の腕に自信がないことを気に留めなくなっていった。
不要な懸念を抱かずに、アキヒトとの交際に集中できていた。
「あった。この本だ。背表紙に、“四季がうれしくなるちょっとしたレシピ”って書いてあるから……うん……サクラが図書館で借りた本で間違いなさそうだ」
昔の、いろいろなことを思い出しながら、サクラはアキヒトのあとをついて歩いていた。
サクラは、駅ビルの中に入る本屋の料理本コーナーで、まだ、過去の塩辛さがまじった夢見心地の海のうえに浮かんでいた。
店内には、本に使われる、独特な紙類のにおいが漂っていた。
本屋にいるのだからあたりまえなのだが――
迫る、アキヒトとの一年間の別れを意識したくなくて、思い出の詰まっていないデート先として思いついたのが図書館だった。
アキヒトは、一人の時間にたまに図書館にいっていたらしい。
借りたい本が頭に浮かんでこないサクラを、新居のインテリア配置のアイデアになりそうな本が並ぶコーナーに、アキヒトはスムーズな動きで案内してくれた。
そこは、文学っぽい本が並んでいないエリアで、ファッション誌などのコーナーも近い場所だったが、雑誌を含む料理の本たちが、インテリアなどを扱う本棚の横で、背表紙を来館者に向けていた。
「よし、あってるな」
二人分で二冊の“四季がうれしくなるちょっとしたレシピ”の会計を済ませたアキヒトは、エレベーター付近に移動して、人の流れの邪魔にならないように注意を払いながら、図書館で借りてきた本を図書バッグから取り出すと、たった今買った二冊の本と念のため確認をしていた。
「はい。これ、サクラとおれが暮らす予定のマンション用。管理番号シールのないほうを、間違えて図書館に返却しないように気をつけて」
サクラは、右手と左手で握るそれぞれの本を見比べる。
そういえば、図書館に漂うにおいは、人がたくさん触れた紙だと思われるにおいだった。人の指がページをめくったからこそ、あのにおいが漂っているような気がする。
今いる本屋のにおいは、同じように紙が放っているものなんだろうけれど、まだ、人にほとんど触れられていない。
これは、新鮮なにおいといってよいのだろうか?
二人で住む新居の予定で購入したマンションは、新築だ。
しばらく独りで住むことになるそこは、新鮮なにおいがするのだろうか?
アキヒトにも、来客してくれるほかの人たちにも、はやく新居のあちこちに、たくさん触れてほしいような気がしてきた。
いつの間にか、サクラは、管理番号シールが貼られた図書館で借りたほうの本ばかりを見つめてしまっていた。
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