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《79》優しい先輩
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扉が閉まる音と共に、広場には静寂が訪れた。
フィアンの頬に触れる。
殴られた箇所は腫れ、熱をともしている。
ノワは肩口で呼吸を繰り返した。
自分を助けてくれたはずの男は、ついさっき、どんな敵よりも恐ろしく感じたのだった。
「もう大丈夫だ」
すぐ耳元で囁かれ、ノワははたと我に返った。
両手いっぱいに抱き締めたのは逞しい上半身。
股に感じるのは暖かな温もりだ。あろう事かフィアンの片膝に跨っていた。
「ご、ご、ごめんなさ····」
青ざめるノワ。
身体を離そうとするが、背には大きな手がまわされていた。
「ありがとな」
甘い余韻を含んだ声が、鼓膜にくすぐったい。
心臓はバックンバックンと呼吸する。
「ら、ラッキースケベ·····」
「は?」
無意識のうちに本音を漏らしてしまい、ブンブンと首を横に振る。
しっかりしろ、自分。
「あ、いや!すぐに退きま····──ひっ?」
こちらを覗き込んだフィアンの身体が動き、跨った内腿がこすれる。
足に力が入らない。
腰を抜かしてしまったらしい。
股下へ喰い込まれた膝から逃げることも出来ず、ノワはあわあわと視線を泳がせた。
リダルのことを無礼だとか非難できる口ではない。
股間をこすりつける変態野郎だなんて思われた日には、崖から身投げしようと思う。
(今だけ死にたい·····)
「怖かったよな」
俯いたノワに静かな声が囁く。
「今回みたいなことは、もう起きないから」
背に伸びていた手のひらが腰へ滑り、ノワを引き寄せる。
「!」
きっと、これに深い意味は無い。
怖い思いをした後輩を落ち着かせようとする、優しい先輩のそれだ。
分かっているが、大好きな人に抱き寄せられたのだから、喜ばずにはいられない。
ノワは頬のほてりに気付かれないよう真下を向いて、彼の抱擁を甘受していた。
一方、赤く色付いた耳元を眺めながら、フィアンはそっとほくそ笑んだ。
早足なノワの鼓動は耳をすませばしっかり聞こえてきてしまう。
しかし相手は気付かれまいと必死なので、こちらも気づかないふりをすることにする。
腕の中のノワを更に引き寄せてみた。
「あ·····っ」
下げられた眉は震えている。
細い腕は、戸惑うように胸元へ添えられた。
ノワの表情に滲んでいるのは隠しきれぬ悦びだ。
犬だったらしっぽを振っているところだろうか。
悪くない気分だ。
フィアンはしばらくノワを眺めていた。
「あの、あの、フィアン様」
皮膚の薄いくちびるが慌てたように名を呼ぶ。
腰を抜かしてしまったらしい。少し褒美をやりすぎたのかもしれない。
手を貸してやろうかと思ったフィアンは、こちらへ向けられた瞳にピタリと動きを止めた。
縋るように自分を見上げた瞳に湧き上がったのは、ある種の高揚感だ。
背筋をゾクリとしたものが駆けていった。
自分の言動一つでコロコロと表情を変えるノワ。
もう少し、この腕の中に彼をおさめていたのなら、潤んだ瞳はどうなるのだろう。
溢れた涙はとうとうこぼれ落ちるだろうか。それとも必死に耐えてみせるのだろうか。
その先にあるのは、自分だけが見ることの出来るノワの表情だ。
ただの気に入っている後輩に抱くにしては、あまりに意地の悪い好奇心だった。
「い、犬!」
「ん?」
ノワは咄嗟に叫んだ。
「か、飼ってるって仰っていたわんちゃんは、元気ですか?!」
気を紛らわす為、無理やり別の話題を振る。
突飛な話題だが、彼に股がって興奮していると知られるよりはずっとマシだ。
暫くして、うんと、短い返事が来た。
「そうだな····構ってやれない間はクンクン鳴くんだが───」
フィアンが思い出すように話し始める。
彼に飼われる犬は世界一幸せな飼い犬だろう。
羨ましい。ノワは羨望のため息を漏らした。
「いざ褒美をやると、待ち望みすぎていたせいか、肝心の喜び方が分からないみたいだ」
切れ長の目元が、ふとこちらを仰ぎ見る。
「すごく可愛いんだ」
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