上 下
81 / 342

《79》優しい先輩

しおりを挟む









──────────────





扉が閉まる音と共に、広場には静寂が訪れた。

フィアンの頬に触れる。
殴られた箇所は腫れ、熱をともしている。

ノワは肩口で呼吸を繰り返した。

自分を助けてくれたはずの男は、ついさっき、どんな敵よりも恐ろしく感じたのだった。


「もう大丈夫だ」


すぐ耳元で囁かれ、ノワははたと我に返った。

両手いっぱいに抱き締めたのは逞しい上半身。
股に感じるのは暖かな温もりだ。あろう事かフィアンの片膝に跨っていた。


「ご、ご、ごめんなさ····」


青ざめるノワ。
身体を離そうとするが、背には大きな手がまわされていた。


「ありがとな」


甘い余韻を含んだ声が、鼓膜にくすぐったい。
心臓はバックンバックンと呼吸する。


「ら、ラッキースケベ·····」


「は?」


無意識のうちに本音を漏らしてしまい、ブンブンと首を横に振る。
しっかりしろ、自分。


「あ、いや!すぐに退きま····──ひっ?」


こちらを覗き込んだフィアンの身体が動き、跨った内腿がこすれる。

足に力が入らない。
腰を抜かしてしまったらしい。
股下へ喰い込まれた膝から逃げることも出来ず、ノワはあわあわと視線を泳がせた。

リダルのことを無礼だとか非難できる口ではない。

股間をこすりつける変態野郎だなんて思われた日には、崖から身投げしようと思う。


(今だけ死にたい·····)


「怖かったよな」


俯いたノワに静かな声が囁く。


「今回みたいなことは、もう起きないから」


背に伸びていた手のひらが腰へ滑り、ノワを引き寄せる。


「!」


きっと、これに深い意味は無い。
怖い思いをした後輩を落ち着かせようとする、優しい先輩のそれだ。

分かっているが、大好きな人に抱き寄せられたのだから、喜ばずにはいられない。
ノワは頬のほてりに気付かれないよう真下を向いて、彼の抱擁を甘受していた。



一方、赤く色付いた耳元を眺めながら、フィアンはそっとほくそ笑んだ。

早足なノワの鼓動は耳をすませばしっかり聞こえてきてしまう。
しかし相手は気付かれまいと必死なので、こちらも気づかないふりをすることにする。
腕の中のノワを更に引き寄せてみた。


「あ·····っ」



下げられた眉は震えている。
細い腕は、戸惑うように胸元へ添えられた。

ノワの表情に滲んでいるのは隠しきれぬ悦びだ。
犬だったらしっぽを振っているところだろうか。

悪くない気分だ。
フィアンはしばらくノワを眺めていた。


「あの、あの、フィアン様」


皮膚の薄いくちびるが慌てたように名を呼ぶ。

腰を抜かしてしまったらしい。少し褒美をやりすぎたのかもしれない。
手を貸してやろうかと思ったフィアンは、こちらへ向けられた瞳にピタリと動きを止めた。

縋るように自分を見上げた瞳に湧き上がったのは、ある種の高揚感だ。
背筋をゾクリとしたものが駆けていった。

自分の言動一つでコロコロと表情を変えるノワ。
もう少し、この腕の中に彼をおさめていたのなら、潤んだ瞳はどうなるのだろう。

溢れた涙はとうとうこぼれ落ちるだろうか。それとも必死に耐えてみせるのだろうか。

その先にあるのは、自分だけが見ることの出来るノワの表情カオだ。

ただの気に入っている後輩に抱くにしては、あまりに意地の悪い好奇心だった。


「い、犬!」

「ん?」


ノワは咄嗟に叫んだ。


「か、飼ってるって仰っていたわんちゃんは、元気ですか?!」


気を紛らわす為、無理やり別の話題を振る。
突飛な話題だが、彼に股がって興奮していると知られるよりはずっとマシだ。

暫くして、うんと、短い返事が来た。


「そうだな····構ってやれない間はクンクン鳴くんだが───」


フィアンが思い出すように話し始める。

彼に飼われる犬は世界一幸せな飼い犬だろう。
羨ましい。ノワは羨望のため息を漏らした。


「いざ褒美をやると、待ち望みすぎていたせいか、肝心の喜び方が分からないみたいだ」


切れ長の目元が、ふとこちらを仰ぎ見る。


「すごく可愛いんだ」











しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

わたしが嫌いな幼馴染の執着から逃げたい。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:26,093pt お気に入り:2,768

前世の因縁は断ち切ります~二度目の人生は幸せに~

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:91,520pt お気に入り:2,129

ニコニココラム「R(リターンズ)」 稀世の「旅」、「趣味」、「世の中のよろず事件」への独り言

エッセイ・ノンフィクション / 連載中 24h.ポイント:639pt お気に入り:28

処理中です...