私以外居なくなってた―職場改革のはざまで

田中葵

文字の大きさ
9 / 19
CHAPTER 3

◆ 小さな事件 ― 青天の霹靂

しおりを挟む
 消失の直後、ナコハはあることを思い立った。

 それは、ほんのささやかなことだった。
 昼に食べる弁当を、自分のためだけに詰めるということ。


 輪っぱの弁当箱は、ずっと前から持っていた。
 結婚祝いでもらったものだったが、職場に持っていくことはほとんどなかった。
 匂いが出るとか、目立つとか、そういう理由を後づけして。

 炊いたのは魚沼産のコシヒカリだった。
 以前、実家から少しだけ送られてきたもの。
「もったいないから」と言い聞かせて、ずっと冷暗所にしまってあった。


 今までは、職場に持っていく弁当にはブレンド米を使っていた。
 皆が同じような値段帯で、同じような量で、同じような昼を過ごしていたから。
 誰かの視線を理由にするのは、いつも簡単だった。

 おかずは、おばんざいをいくつか。
 派手ではないけれど、ご飯に合うもの。
 自分が「これでいい」ではなく、「これがいい」と思った組み合わせ。


 蓋を閉めたとき、ナコハは少しだけ手を止めた。
 罪悪感というほど大きなものではない。

 ただ、誰にも配慮していない感触が、指先に残った。


    ―――


 昼休み。
 フロアには、相変わらず人の気配がないほどの静けさ。

 席が、いくつか空いている。
 誰がいなくなったのかを、もう正確には思い出せない。
 名前も、机の位置も、少しずつ曖昧になっていた。

 ナコハは自席で、輪っぱの蓋を開けた。
 湯気がふわりと立つ。
 白が、きれいだ。

 箸を伸ばそうとした、そのとき。

「……いい匂い」

 声がして、心臓が跳ねた。
 思ったより近くから聞こえた。

 顔を上げると、新社長が立っていた。
 就任してまだ日が浅く、職場に「溶け込んでいる」と言えるほどではない存在。

 視線が、弁当箱に向けられている。

 いつものようにタブレットを片手に、
 まるで廊下を歩く延長で、ここにいるような自然さだった。




「それ、いいお米ね。香りでわかるわ
 新潟の……」

「えっ……あ、魚沼産のコシヒカリです」

 ナコハは、反射的に謝りそうになった。
 でも、何に対してかがわからず、言葉が出てこない。

 一瞬、彼女の眉が上がる。

「やっぱり」
 そう言ってから、少しだけ笑った。

「私はね、産地は違うけど青天の霹靂が好き。
 粒が立ってて、主張しすぎないのに、芯がある」

 そう言って、新社長は楽しそうに笑った。
 さらに輪っぱの中を覗き込み、
 ひじきと鮭を見て、満足そうにうなずいた。

「いい組み合わせ。
 あなた、アタシと気が合いそうね!」

 軽い調子。
 冗談めいていた。

 でもナコハは、
 その瞬間、箸を持ったまま固まった。
 胸の奥で何かが引っかかるのを感じたからだった。

 ――気が、合う。

 今まで、
 誰かと「気が合う」と言われる側に立ったことが、
 ほとんどなかった。

「みんなに合わせられる」
「空気を壊さない」
「便利」

 そういう評価ばかりだった。

 ただ、

 ――合う、だろうか。

 好みの話なら、そうかもしれない。
 でもこれは、合わせたわけではない。


 今まで、ナコハは選ぶたびに少しずつ調整してきた。
 値段、量、匂い、話題性。
「みんな」の中で浮かないように。


 今日の弁当は違う。
 誰の顔も思い浮かべずに詰めた。


「……ありがとうございます」

 そう返すのが精一杯だった。

 新社長は、そこで言葉を止めた。

 ほんの一拍。
 会話としては不自然なほど短い沈黙。

 ナコハはその間に、気づいてしまった。

 この人は、同じだと思ったのだ。
 同じ価値観で、同じ基準で選んだのだと。

 けれど、ナコハは初めて、
 自分の基準で選んだだけだった。


 新社長は微笑みを戻し、何事もなかったように言った。

「またおすすめ、教えてちょうだい」

 彼女はそれ以上踏み込まず、
「じゃ、ごゆっくり」と言って立ち去った。
 足音は相変わらず軽く、合理的で、迷いがない。


 去っていく背中を見送りながら、
 ナコハは心でつぶやく。

 ――やって、いけるかな?


 ようやく箸を取った。

 ご飯は、驚くほど美味しかった。

 その美味しさが、
 誰とも分け合わなくていいことが、
 なぜか少しだけ、怖かった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

冷遇された没落姫は、風に乗せて真実を詠う ─残り香の檻─

あとりえむ
恋愛
「お前の練る香など、埃と同じだ」 没落した名家の姫・瑠璃は、冷酷な夫・道隆に蔑まれ、極寒の離れに追いやられていた。夫の隣には、贅を尽くした香料を纏う愛人の明子。 しかし道隆は知らなかった。瑠璃が魂を削って練り上げた香は、焚く者の心根を映し出す「真実の鏡」であることを。 瑠璃が最後に残した香の種を、明子が盗み出し、手柄を偽って帝の前で焚き上げた瞬間。美しき夢は、獣の死臭が漂う地獄へと変貌する。 「この香りの主を探せ。これほど澄み切った魂が、この都に在るはずだ」 絶望の淵で放たれた一筋の香りに導かれ、孤独な東宮が泥の中に咲く白蓮を見つけ出す。 嘘と虚飾にまみれた貴族社会を、ひとりの調香師が浄化する、雅やかな逆転劇。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

Husband's secret (夫の秘密)

設楽理沙
ライト文芸
果たして・・ 秘密などあったのだろうか! むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ  10秒~30秒?  何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。 ❦ イラストはAI生成画像 自作

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

雪嶺後宮と、狼王の花嫁

由香
キャラ文芸
後宮に降る雪は、呪いではなく嘆きだった。 巫女として献上された少女セツナは、 封じられた狼王の“花嫁”としての前世を思い出す。 人と妖、政と信仰の狭間で、 彼女が選ぶのは従属ではなく均衡。 雪嶺を舞台に描く、異種婚姻×後宮伝承譚。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...