私以外居なくなってた―職場改革のはざまで

田中葵

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CHAPTER 3

◆ 連想 ― 私は何を遠慮してきたんだろう/一人用の日常へ/しばらくして

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 一人用の日常へ


 しばらく箸を動かしながら、
 ナコハの頭の中に、点々とした記憶が浮かび始める。

 ――このお米、高いよね。
 ――一人だけ良いの使うの、なんか気まずい。
 ――みんな同じでいいじゃん。
 ――浮かないようにしよう。
 ――目立たないように。


 遠慮。

 それは、優しさのつもりだった。
 協調性のつもりだった。
 大人の振る舞いのつもりだった。

 でも本当は、
「嫌われないための予防線」
 だった気がする。

 誰かに何か言われる前に、
 自分で自分を小さく畳む癖。


「気が合いそう」

 その一言が、
 畳んでいた角を、少しだけ戻してしまった。

 ――私、
 ――誰かと“好み”の話をしても、よかったんだ。

    ―――

 午後の仕事は、相変わらず静かだった。

 でも、
 静けさの質が少し変わった。

 誰かのために音量を下げる必要も、
 匂いを気にする必要も、
「これでいいかな」と周囲を見回す必要もない。

 コーヒーは、
 インスタントではなく、豆を挽いた。

 おやつは、
「分けやすい個包装」ではなく、
 好きな焼き菓子を一つ。

 デスクの引き出しに、
 小さな観葉植物を置いた。

「誰かの邪魔にならないかな」
 という発想が、もう出てこない。

 世界が“自分サイズ”に縮んだのではなく、
 ようやく、自分の輪郭に合った大きさになった
 気がした。


 ナコハは、
 今日の弁当箱を洗いながら思う。

 ――私、
 ――遠慮してたのは、贅沢じゃなくて、
 ――自分の好みそのものだったんだ。


 輪っぱの内側に残る、
 白米の甘い匂い。

 それはもう、
 誰かと分け合う前提の匂いではなかった。




 しばらくして


 その日の夜、ナコハは母からのメッセージを受け取った。

 > 最近どう?
 職場、落ち着いた?



「落ち着いた」という言葉に、少し考えてから返す。

 > 人は減ったけど、私は元気だよ



 既読がつくまでが早かった。

 > そう。
 あんまり無理しないでね
 皆いなくなって大変でしょう



 ――皆。

 ナコハは、その言葉を画面越しに見つめた。
 昼に食べた弁当のことが、なぜか頭をよぎる。

 > 最近ね
 お弁当、ちゃんとしたの持っていってる



 少しだけ、誇らしさの混じった報告だった。

 返事は、少し間を置いてから来た。

 > えらいじゃない
 でも、あんまり自分だけ贅沢しすぎないようにね
 周りが大変なときなんだから



 贅沢。
 自分だけ。

 その二語は、ナコハの中でゆっくりと重なった。

 電話が鳴ったのは、その翌日だった。
 元同僚の名前が表示されている。

「久しぶり~」

 明るい声。
 でも、すぐに話題は本題へ移った。

「そっちはどう?
 なんかさ、急に雰囲気変わったって聞いたけど」

「変わった、というか……人が減った」

「あー、やっぱり。
 でもナコハは残ってるんでしょ?」

 言い方が、少しだけ引っかかる。

「まあ、うん」

「すごいよね。
 空気読めるっていうか、要領いいっていうか」

 笑いながら言われたその言葉に、
 ナコハは返事ができなかった。

「だってさ、みんな大変なのに
 一人だけ平然としてるように見えるって」

 見える。
 そう、見えるのだ。

 輪っぱの弁当も、静かな昼も、
 全部。

「別に責めてるわけじゃないよ?
 ただ、ちょっと自分勝手かなって思う人もいるかもね」

 電話を切ったあと、
 ナコハはしばらく動けなかった。

 自分勝手。

 それは、ずっと避けてきた評価だった。
 だからこそ、
 今まで“遠慮”を選んできたのだと、改めて気づく。

 ――一人用の快適さは、
 ――誰かの不快さと、どこかで繋がっている。

 その考えが、胸に沈殿していく。


 翌日、ナコハは呼び出された。

 新社長との面談。
 理由は「近況確認」。

 応接室は、静かで、整っていた。
 二人分のコーヒーが用意されている。

「最近、調子どう?」

 雑談のような入り方だった。

「……特に問題はありません」

「そう。
 でも、少し変わったわよね」

 ナコハは、息を吸った。

「変わった、というと」

 新社長はカップを持ち上げ、少し考えるように間を取った。

「自分のペースを持ち始めた、って感じかしら」

 その言い方は、肯定とも否定とも取れなかった。

「それって、悪いことでしょうか」

 思わず出た言葉だった。

 新社長は、すぐには答えなかった。

「悪い、とは言ってないわ」

 それから、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「ただね。
 組織って、“一人用”じゃないの」

 ナコハは、黙って聞いていた。

「あなたが心地よくなると、
 周りは『自分もそうしていいのか』って迷い始める」

「……」

「それを、責任って言う人もいる」

 責任。

 ナコハは、昼の弁当の蓋を閉めたときの感触を思い出す。

「あなたは、ちゃんと選んだ。
 だから、ここまで来た」

 新社長は、そこで一度言葉を切った。

「でもね」

 その一言に、
 ナコハは、次に来るものを直感した。

「選ぶ人は、
 選ばせない側にもなれるのよ」

 室内に、沈黙が落ちる。

 新社長の表情は穏やかだった。
 しかしそこには、
 “同じだと思っていた違い”を測る視線があった。

 ナコハは、その視線から逃げなかった。

 ここが、分かれ目なのだと、
 はっきりわかっていた。



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