とける

田中葵

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「イヤ」と「スキ」

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第1話 イヤなのにウケる

 朝いちばんの光がガラス越しに差し込む。
 開店準備の音と一緒に、エスプレッソマシンの蒸気が立ち上がる。
 カウンターの中で、結花は今日も黙ってミルクを泡立てていた。

 ドアのベルが鳴る。
「おはよう、結花ちゃん。今日も笑顔がいいねぇ」
 声の主は中尾さん。毎朝8時ちょうどに来る常連の男性。
 68歳、退職後はカメラと散歩が趣味で、最近はSNSを始めたばかりだという。

 結花は反射的に笑った。
「ありがとうございます」
 マニュアルどおりの笑顔。それ以上のものは出したくなかった。

 けれど中尾さんは、注文のあと必ずスマホを構える。
「今日も撮っていいかな?」
「……どうぞ」
 断る勇気は、まだない。

 シャッター音。
 白い湯気の中で笑う自分の顔が、きっとまたどこかに投稿される。



 昼すぎ。休憩中にスマホを開くと、
「#かわいいバリスタさんシリーズ」
がトレンド入りしていた。
 まさかと思って開いたら、やっぱり――。
 中尾さんの投稿。自分の写真が何枚も。
 コメント欄は「おじいちゃん可愛い!」「癒やし」「理想の朝」
 いいねは一万を超えていた。

 ――何が癒やしだろう。
 あのシャッター音が、どんなに嫌だったか知らないくせに。

 指先でコメントをスクロールするたび、
「素敵な関係」「こんな世代交流いいなぁ」と、
知らない誰かの“善意”が刺さる。
 いいねの数が、彼の投稿を「いい話」に変えていく。

 夕方。片付けの最中、店主が笑いながら言った。
「結花ちゃん、人気者だねぇ。あの人、ほんと嬉しそうだったよ」
「……そうですか」
「嫌じゃないでしょ? ああいう人に好かれるのは」

 嫌じゃない、って言葉。
 そう言われること自体が、いちばん嫌だった。



 夜、家に帰ってから、
結花は鏡を見つめながらスマホを握りしめた。
 自分の笑顔がどれも他人の視線に汚されている気がした。
「#かわいいバリスタさん」を検索して、
ひとつずつ通報ボタンを押していく。
 けれど通知は止まらない。
 フォローリクエスト、「DMいいですか?」
 「癒やされました」「どこのお店ですか?」

 もう、どこにも“私”はいなかった。
 画面の中では、見知らぬ人たちが「スキ!」を連打していた。



 翌朝。
「おはよう、結花ちゃん。昨日、すごい反響だったね!」
 中尾さんは嬉しそうにスマホを差し出す。
 結花は、一瞬だけ口角を上げた。
「……そうですか。私には、ちょっと“イヤ”でしたけど」

 老眼鏡の奥で、中尾さんの目がぱちぱちと瞬いた。
 沈黙のあと、彼は笑って言った。
「そっか。ま、照れ屋さんなんだね」

 その笑い声の向こうで、マシンの蒸気が勢いよく噴き上がった。
 今日も湯気は、すべてを曖昧に包み込む。
 「イヤなのにウケる」――この街では、それが普通の朝だった。




第2話 スキなのに引かれる

 凪(なぎ)は、スマホのカメラを逆に向けて、自分を映す。
 レンズの向こうで、光が跳ね返る。
 白いシャツのボタンを一つ外し、首もとを少しだけ見せる。
 それだけで、“フォロワー数”が増えるのを、凪はもう知っていた。

 SNSのハンドルネームは〈nagixx〉。
 フォロワーは十万人。
 「自分を好きでいる練習中」というプロフィール。
 動画では性別をぼかした服装で踊ったり、化粧をしたり、時々泣いたりもする。
 フォロワーのコメント欄はいつも賛否両論だった。

> 「あなたみたいな人、ほんと救われます!」
「その肌の見せ方、フェミ的にどうなん?」
「スキって自由じゃないの?」



 凪は毎回、スクロールしながら心の中で笑っていた。
 “正解”なんてどこにもない。
 でも、「スキ」って言葉を使うと、いつも誰かが怒る。



 ある夜、凪は祖父――中尾さんの投稿を見つけた。
 「#かわいいバリスタさんシリーズ」
 そこには、あの喫茶店の若い店員の写真が並んでいた。
 コメント欄にはハートと平和の絵文字。

「うわ、マジでじいちゃん……」
 凪は頭を抱えた。
 善意の笑顔、柔らかい言葉、その奥にある「距離の無神経さ」。
 SNSではそれすら“美談”として消化されていく。

 祖父に悪気がないのは知っている。
 でも、悪気がないからこそ、タチが悪い。
 結花さん――その名前だけを、投稿の中で凪は覚えた。



 翌週、凪は動画を撮った。
 背景は白壁。
 タイトルは《“スキ”って、いつから怖くなった?》

「好きな服を着る。好きな人に会う。
 好きなものを語る――それだけで『調子乗ってる』『刺激が強い』って言われる。
 なのに、“おじいちゃんの愛”は『ほほえましい』で済むの?
 “スキ”って、誰の都合で決まるんだろう」

 投稿から数時間で、コメント欄が燃えた。

> 「世代叩きやめろ」
「その服装で語るの草」
「でもわかる」「声を上げてくれてありがとう」



 再生数が跳ね上がる。
 その通知音の中で、凪の胸は不思議と静かだった。
 “スキ”を言葉にするたびに、心のどこかがすり減っていく。



 深夜。
 祖父からLINEが来た。
 〈凪、おまえ、あの動画……じいちゃんのこと言ってるのか?〉
 〈ごめん。〉と打とうとして、やめた。
 言葉にした瞬間、また誰かが“解釈”していく気がしたからだ。

 代わりに、短く返した。
 〈じいちゃん、バリスタさんの写真、消してあげて〉

 既読がついて、返事はなかった。



 翌日。
 カフェのSNSページから、すべての写真が消えていた。
 代わりに、ひとつだけ残された投稿。

> 「笑顔を撮らせてもらった彼女に、ありがとう。
そして、ごめんなさい。」



 凪はその投稿を静かにスクショして、ストーリーズに上げた。
 背景には一言だけ。

> 「“スキ”を、やり直せたらいいね。」




第3話 なんとかしなきゃ!?

 白いスタジオに、淡い照明が落ちていた。
 床には銀色のレール。
 カメラが滑らかに動くたび、出演者の笑顔をなめるように追っていく。

 ローカル局のトーク番組『わかりあえたら!』。
 テーマは「世代でちがう、“イヤ”と“スキ”」。
 司会は、軽妙な口調で人気の中堅タレント・坂東。

「はい今日も、なんとかしなきゃ!? のコーナーです!」
 スタジオの笑い声。
 観覧客が拍手を送る。

 結花は、まぶしいライトに目を細めた。
 カウンター越しではない誰かの視線を、こんなに浴びるのは初めてだった。
 横には凪が座っている。
 そして少し離れた席には、中尾さん。
 白いシャツにジャケットを羽織り、ネクタイの結び目を気にしている。



「いや~、今日のテーマ、SNS世代間ギャップということで!」
 坂東が笑う。
「若い人は“スキ”をすぐ言葉にして発信する。
 でも上の世代は“そんなこと公に言うのは恥ずかしい”と思う。
 この差、どう埋めたらいいんでしょうねぇ?」

 観客が頷く。
 スクリーンには、ハッシュタグ「#わかりあえたら生放送」が流れ始めた。

> 「バリスタさんかわいい!」
「おじいちゃん素敵」
「凪くん今日も神」



 コメントがリアルタイムで踊る。
 それを背に、結花はマイクを握った。

「……“スキ”って、言われるほうが困るときもあるんです」
「困る?」と坂東。
「はい。撮られたくないのに笑ってる写真が“ほほえましい”って言われる。
 嫌って言ったら、今度は“冗談なのに怖い子”って言われる。
 それが一番、怖いです」

 会場の空気がわずかに揺れた。
 中尾さんが、膝の上で指をもてあそぶ。
「わしは……」と口を開きかけて、途中で止まった。



 凪が代わりに言った。
「“スキ”って、自己表現でもあるけど、同時に力にもなる。
 それを振り回す側になっちゃうこともある。
 たとえば、“いいね”の数で、誰かの“イヤ”を消すみたいに」

 スタジオの隅で、スタッフがタイムキーパーのカードを掲げる。
 坂東が笑顔を取り戻し、空気を整えた。

「深いねぇ~!
 いや~でも、こういう話を明るくできる時代になったのはいいことですよ!」

 笑い声。拍手。
 その軽さが、結花の耳に金属のように響いた。



 番組のラスト。
 坂東がまとめに入る。
「結局ね、“イヤ”も“スキ”も、話し合えばわかりあえる――
 そういうことですよね!」

 拍手が起こる。
 観客席のどこかで誰かが小さくつぶやいた。

> 「やっぱ、こういう女の子が一番かわいいよね」



 音声マイクが、その声を拾わなかった。
 けれど結花には、はっきり聞こえた。

 カメラがズームアウトする。
 ライトの光がやわらぎ、エンドロールが流れる。
 番組の公式アカウントには、すぐに投稿が上がった。

> 「感動した」「世代を超えて共感」
「いい番組」「朝から泣いた」



 そのコメントの中で、凪がスマホを閉じた。
 そして小さく笑った。
「“なんとかしなきゃ”って言ってるうちは、
 たぶん、まだ“なんともできてない”んだよね」

 結花は頷いた。
 その横顔を、中尾さんは黙って見ていた。
 笑顔でも、謝罪でもない。
 やっと、沈黙のまま見つめるということを覚えた顔だった。



 スタジオの照明が落ちる。
 モニターの隅に、再生回数の数字が静かに増えていく。
 “イヤ”と“スキ”――どちらのボタンを押すかは、
 今日も、誰かの指先次第だ。




🕊️あとがき風メモ

> 「好き」という言葉が、他人の快楽に使われるとき、
「嫌だ」という感覚は、空気の中で薄まっていく。
――けれど、その薄まった場所にしか、生き残れない笑顔もある。
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