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琥珀色の錯覚
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喫茶店「月光」の窓際の席で、山岸雄一(やまぎし・ゆういち)は、向かいの席に座る女性、高梨美佐(たかなし・みさ)の様子をじっと見ていた。
(全く、酷い女だ)
雄一は内心で舌打ちした。彼女とのこのぎこちない対面は、全て数日前のあの「事故」のせいだ。
彼から見れば、美佐は極めて身勝手で冷酷な人間だった。
先週の土曜日、雄一は商店街を歩いていた。突然、角から飛び出してきた老人が、抱えていた大量の荷物と共に転倒した。その瞬間、彼の視界に入ったのは、転倒した老人に目もくれず、ただまっすぐ、急ぎ足でその場を立ち去る美佐の姿だった。
美佐は彼に気づかなかった。その背中が「私には関係ない」と語っているように見えた。雄一は憤慨した。急いで老人に駆け寄り、散乱したリンゴや野菜を集める手伝いをした。美佐は、社会の規範や人情を完全に無視した、自分勝手な人間だと雄一の心に刻まれた。そして、今日、共通の友人の紹介で、まさか彼女と向かい合うことになるとは。
「山岸さん、申し訳ありませんでした」
美佐が深々と頭を下げた。雄一は憮然として「何のことですか」と突き放す。
「先週土曜日の、あの事故のことです。私が、もっと周りを見ていれば…」
雄一はますます理解できなかった。彼女が謝るべきは、見て見ぬふりをしたことではないのか。
*
一方、高梨美佐の心の中は全く違っていた。
(ああ、どうしよう。あの人はきっと私をひどい人間だと思っている)
美佐は数日前の出来事を思い出し、胸が締め付けられるようだった。
土曜日、美佐は急を要する用事に向かっていた。彼女の飼っている老犬が突然倒れ、動物病院から「すぐに来てください」と電話があったのだ。一刻を争う事態だった。
商店街の角を曲がった時、美佐は老人が転倒するのを目撃した。荷物が散らばり、老人が苦痛に顔を歪めている。
(手伝いたい。でも、犬の命が……)
美佐は一瞬立ち止まった。しかし、犬の病状が頭をよぎり、そのまま走り去るしかなかった。美佐が通り過ぎる寸前、彼女は別の人が老人に駆け寄るのを目撃した。その男性(雄一)が優しく声をかけ、荷物を集め始めたのを見て、美佐は涙が出そうになった。
「優しい人だ。私が今、最も必要としている思いやりを持っている人だ」
美佐は、その男性の親切に心の中で深く感謝し、犬の元へと急いだ。あの時、立ち止まれなかった自分を責めた。今日、彼と会うことになり、美佐はまず「見殺しにした」と彼に思われたであろうことを謝罪しなければ、と思ったのだ。
「先週土曜日の、あの事故のことです。私が、もっと周りを見ていれば…」
美佐が口にした「事故」とは、老人の転倒ではなく、“彼女が商店街を急いで走ったせいで、うっかり雄一の足を踏みそうになったこと”、そしてその時、“走り去ることに集中して彼に会釈もできなかったこと”を指していた。美佐は、親切な雄一に対し、自分の無礼を詫びたかったのだ。
*
「…私、急いでいたんです。どうしても。でも、あなたの親切を見て、心が救われました。あなたが、すぐに助けてくださったから、私は安心して急ぐことができたんです」
美佐は、ようやくそう告げることができた。
雄一は、琥珀色の照明が美佐の横顔を照らすのを見て、初めて彼女の言葉の意味を理解しようとした。
(親切? 助けてくれた? まさか、彼女はあの時、別の何かを見ていたのか?)
雄一は、美佐の澄んだ瞳の奥に、利己心とは程遠い、深い後悔と感謝の念を見出した気がした。彼は、自分が作り上げた「冷酷な女」という美佐のイメージが、音を立てて崩れ去るのを感じた。
「いえ、私こそ…誤解していました」
雄一は小さく呟き、テーブルに置かれた冷え切ったコーヒーカップをそっと持ち上げた。それは、ただの琥珀色の液体ではなく、二人の間にあった、全く真逆の視点から生み出された、苦くも温かい「思い違い」の証のように見えた。
(全く、酷い女だ)
雄一は内心で舌打ちした。彼女とのこのぎこちない対面は、全て数日前のあの「事故」のせいだ。
彼から見れば、美佐は極めて身勝手で冷酷な人間だった。
先週の土曜日、雄一は商店街を歩いていた。突然、角から飛び出してきた老人が、抱えていた大量の荷物と共に転倒した。その瞬間、彼の視界に入ったのは、転倒した老人に目もくれず、ただまっすぐ、急ぎ足でその場を立ち去る美佐の姿だった。
美佐は彼に気づかなかった。その背中が「私には関係ない」と語っているように見えた。雄一は憤慨した。急いで老人に駆け寄り、散乱したリンゴや野菜を集める手伝いをした。美佐は、社会の規範や人情を完全に無視した、自分勝手な人間だと雄一の心に刻まれた。そして、今日、共通の友人の紹介で、まさか彼女と向かい合うことになるとは。
「山岸さん、申し訳ありませんでした」
美佐が深々と頭を下げた。雄一は憮然として「何のことですか」と突き放す。
「先週土曜日の、あの事故のことです。私が、もっと周りを見ていれば…」
雄一はますます理解できなかった。彼女が謝るべきは、見て見ぬふりをしたことではないのか。
*
一方、高梨美佐の心の中は全く違っていた。
(ああ、どうしよう。あの人はきっと私をひどい人間だと思っている)
美佐は数日前の出来事を思い出し、胸が締め付けられるようだった。
土曜日、美佐は急を要する用事に向かっていた。彼女の飼っている老犬が突然倒れ、動物病院から「すぐに来てください」と電話があったのだ。一刻を争う事態だった。
商店街の角を曲がった時、美佐は老人が転倒するのを目撃した。荷物が散らばり、老人が苦痛に顔を歪めている。
(手伝いたい。でも、犬の命が……)
美佐は一瞬立ち止まった。しかし、犬の病状が頭をよぎり、そのまま走り去るしかなかった。美佐が通り過ぎる寸前、彼女は別の人が老人に駆け寄るのを目撃した。その男性(雄一)が優しく声をかけ、荷物を集め始めたのを見て、美佐は涙が出そうになった。
「優しい人だ。私が今、最も必要としている思いやりを持っている人だ」
美佐は、その男性の親切に心の中で深く感謝し、犬の元へと急いだ。あの時、立ち止まれなかった自分を責めた。今日、彼と会うことになり、美佐はまず「見殺しにした」と彼に思われたであろうことを謝罪しなければ、と思ったのだ。
「先週土曜日の、あの事故のことです。私が、もっと周りを見ていれば…」
美佐が口にした「事故」とは、老人の転倒ではなく、“彼女が商店街を急いで走ったせいで、うっかり雄一の足を踏みそうになったこと”、そしてその時、“走り去ることに集中して彼に会釈もできなかったこと”を指していた。美佐は、親切な雄一に対し、自分の無礼を詫びたかったのだ。
*
「…私、急いでいたんです。どうしても。でも、あなたの親切を見て、心が救われました。あなたが、すぐに助けてくださったから、私は安心して急ぐことができたんです」
美佐は、ようやくそう告げることができた。
雄一は、琥珀色の照明が美佐の横顔を照らすのを見て、初めて彼女の言葉の意味を理解しようとした。
(親切? 助けてくれた? まさか、彼女はあの時、別の何かを見ていたのか?)
雄一は、美佐の澄んだ瞳の奥に、利己心とは程遠い、深い後悔と感謝の念を見出した気がした。彼は、自分が作り上げた「冷酷な女」という美佐のイメージが、音を立てて崩れ去るのを感じた。
「いえ、私こそ…誤解していました」
雄一は小さく呟き、テーブルに置かれた冷え切ったコーヒーカップをそっと持ち上げた。それは、ただの琥珀色の液体ではなく、二人の間にあった、全く真逆の視点から生み出された、苦くも温かい「思い違い」の証のように見えた。
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