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すばらしく悲しい
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夜明け前の、深く青い空の下。
アパートの古びたベランダで、ミサキはコーヒーカップを両手で包み込んでいた。カップから立ち上る白い湯気が、静かな冷気をわずかに揺らしている。
彼女の視線の先には、同じ建物の一室があった。窓には灯りがともっている。もうすぐ、彼が仕事へ向かう時間だ。彼——ユウジは、ミサキにとって「かつて」の恋人であり、今はただの隣人、そして何よりも、彼女の親友であるリツコの夫だった。
ユウジとリツコは、三ヶ月前に結婚した。そして、このアパートのミサキの隣の部屋に引っ越してきた。ミサキは、二人の結婚を心から祝福した。ユウジと別れてから五年、ミサキは彼に対して未練など一つも残っていないと思っていた。ただ、親友と、かつて愛した人が結ばれるという事実に、祝福以外の感情の居場所を見つけられなかったのだ。
けれど、毎朝、このベランダから、ユウジの部屋の灯りを見るたび、ミサキの胸はきゅっと締め付けられた。それは、恋しさとは違う、もっと複雑で、もっと静かな痛みだった。
ユウジは、ミサキと付き合っていた頃と何も変わっていなかった。早朝に起きて、淹れたてのコーヒーを飲み、窓辺で少しだけ本を読む。そのルーティンを、ミサキは五年経った今も、空気のように把握していた。
「ミサキ、起きてたの?」
隣のベランダのドアが開く音。ユウジが立っていた。いつもの、少し寝ぼけたような、穏やかな笑顔。
「うん。コーヒー飲んでた」
ミサキは努めて明るい声を出した。
「早いね。…リツコは?」
「まだ寝てるよ。夜勤明けだから、今日はゆっくりするみたい」
ユウジの瞳が、リツコへの愛情で満たされているのを見て、ミサキの胸の奥で、何かが静かに崩れていった。それは、ユウジへの未練などではなく、もっと自分勝手なものだった。
――彼は、こんなにも優しく、こんなにもまっすぐに、一人の女性を愛することができる人なんだ。それを、私は知っている。そして、その相手が私ではなく、私の大切な親友であるリツコで、ユウジは本当に幸せそう。
この事実は、あまりにも美しく、そしてあまりにも残酷だった。
ユウジは、コーヒーを飲み終え、カップをテーブルに置いた。
「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。…リツコによろしく」
「ああ、もちろん」
彼は微笑み、ベランダから部屋に戻った。やがて、玄関のドアが閉まる音。そして、静寂。
ミサキは、冷たくなったコーヒーを一口飲んだ。苦味が喉の奥に広がる。
この感情は、「悲しい」という一言では到底言い表せないものだった。ユウジとリツコは理想的な夫婦であり、彼らが築いている幸せは、ミサキが心から願っていたものだった。だから、嫉妬はない。ただ、彼らのあまりにも完璧な幸せが、彼女の過去の喪失を、そして彼女自身の未来の不確かさを、静かに浮き彫りにするだけだった。
「すばらしい…」
ミサキは、絞り出すように呟いた。
「すばらしく、悲しい」
最愛の人と親友の、あまりにも清らかで揺るぎない幸せ。それは祝福すべき光景でありながら、その光が強ければ強いほど、ミサキ自身の心に落ちる影もまた濃くなる。
ミサキは、冷たいベランダの手すりに寄りかかり、ユウジの部屋の窓をもう一度見た。灯りは消えていた。リツコが起きたら、また灯りがともるだろう。
彼女は、静かに涙を流した。その涙は、誰にも見られることのない、透明で、そして、祝福に満ちた悲しみだった。
ユウジとリツコの幸せは、彼女が唯一失いたくないものだった。だから、彼女はこの、誰にも言えない、しかし「すばらしい」としか形容できないこの悲しみを、静かに抱きしめて生きていくのだろう。
夜明けの光が、遠くの山並みをオレンジ色に染め始めた。新しい、美しい一日が始まる。その一日もまた、ミサキにとっては「すばらしく悲しい」一日の連続になるのだろう。
彼女は、冷たいコーヒーカップを手に、深く息を吸い込んだ。
アパートの古びたベランダで、ミサキはコーヒーカップを両手で包み込んでいた。カップから立ち上る白い湯気が、静かな冷気をわずかに揺らしている。
彼女の視線の先には、同じ建物の一室があった。窓には灯りがともっている。もうすぐ、彼が仕事へ向かう時間だ。彼——ユウジは、ミサキにとって「かつて」の恋人であり、今はただの隣人、そして何よりも、彼女の親友であるリツコの夫だった。
ユウジとリツコは、三ヶ月前に結婚した。そして、このアパートのミサキの隣の部屋に引っ越してきた。ミサキは、二人の結婚を心から祝福した。ユウジと別れてから五年、ミサキは彼に対して未練など一つも残っていないと思っていた。ただ、親友と、かつて愛した人が結ばれるという事実に、祝福以外の感情の居場所を見つけられなかったのだ。
けれど、毎朝、このベランダから、ユウジの部屋の灯りを見るたび、ミサキの胸はきゅっと締め付けられた。それは、恋しさとは違う、もっと複雑で、もっと静かな痛みだった。
ユウジは、ミサキと付き合っていた頃と何も変わっていなかった。早朝に起きて、淹れたてのコーヒーを飲み、窓辺で少しだけ本を読む。そのルーティンを、ミサキは五年経った今も、空気のように把握していた。
「ミサキ、起きてたの?」
隣のベランダのドアが開く音。ユウジが立っていた。いつもの、少し寝ぼけたような、穏やかな笑顔。
「うん。コーヒー飲んでた」
ミサキは努めて明るい声を出した。
「早いね。…リツコは?」
「まだ寝てるよ。夜勤明けだから、今日はゆっくりするみたい」
ユウジの瞳が、リツコへの愛情で満たされているのを見て、ミサキの胸の奥で、何かが静かに崩れていった。それは、ユウジへの未練などではなく、もっと自分勝手なものだった。
――彼は、こんなにも優しく、こんなにもまっすぐに、一人の女性を愛することができる人なんだ。それを、私は知っている。そして、その相手が私ではなく、私の大切な親友であるリツコで、ユウジは本当に幸せそう。
この事実は、あまりにも美しく、そしてあまりにも残酷だった。
ユウジは、コーヒーを飲み終え、カップをテーブルに置いた。
「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。…リツコによろしく」
「ああ、もちろん」
彼は微笑み、ベランダから部屋に戻った。やがて、玄関のドアが閉まる音。そして、静寂。
ミサキは、冷たくなったコーヒーを一口飲んだ。苦味が喉の奥に広がる。
この感情は、「悲しい」という一言では到底言い表せないものだった。ユウジとリツコは理想的な夫婦であり、彼らが築いている幸せは、ミサキが心から願っていたものだった。だから、嫉妬はない。ただ、彼らのあまりにも完璧な幸せが、彼女の過去の喪失を、そして彼女自身の未来の不確かさを、静かに浮き彫りにするだけだった。
「すばらしい…」
ミサキは、絞り出すように呟いた。
「すばらしく、悲しい」
最愛の人と親友の、あまりにも清らかで揺るぎない幸せ。それは祝福すべき光景でありながら、その光が強ければ強いほど、ミサキ自身の心に落ちる影もまた濃くなる。
ミサキは、冷たいベランダの手すりに寄りかかり、ユウジの部屋の窓をもう一度見た。灯りは消えていた。リツコが起きたら、また灯りがともるだろう。
彼女は、静かに涙を流した。その涙は、誰にも見られることのない、透明で、そして、祝福に満ちた悲しみだった。
ユウジとリツコの幸せは、彼女が唯一失いたくないものだった。だから、彼女はこの、誰にも言えない、しかし「すばらしい」としか形容できないこの悲しみを、静かに抱きしめて生きていくのだろう。
夜明けの光が、遠くの山並みをオレンジ色に染め始めた。新しい、美しい一日が始まる。その一日もまた、ミサキにとっては「すばらしく悲しい」一日の連続になるのだろう。
彼女は、冷たいコーヒーカップを手に、深く息を吸い込んだ。
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