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8 さらの入院
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さらからの送金を受け取って、思いを巡らせながらボストン行きの準備をしていた。
その頃さらは週二回ほど健康のためにプールの中を二十分ほど歩いて、そのあとストレッチをすることにしていた。
妊娠がわかってから、医師のアドバイスで泳ぐのではなく、ゆっくり水の中を歩くだけのほうが良いと言われていたらしい。
その日もいつものように両手で水をかくようにゆっくり歩くだけにしていた。
歩き始めてすぐ何の前触れもなく突然頭に強烈な激痛が走る。
今まで感じたことのない頭が割れそうな強烈な痛みだった。
その直後、体が思うように動かなくなってしまう。
痛みを堪えてやっとの思いでなんとか自力で上半身だけプールサイドにもたれ込むようにうずくまった。
その後、そのまま意識を失う。
スタッフがびっくりして飛んできて、顔を覗き込むと、その時さらの黒目はいびつな動きをしていて、緊急事態だと理解する。
一刻を争うと判断して急いで救急車を呼んだ。
スタッフの手際良い判断と行動で、すぐに病院に運ばれたが、そこでさらの状態を見た医師は、くも膜下出血だろうとの判断。
しかも極めて危険な状態であることがわかった。
眼球の動きを見て手術を断念せざるを得ないかもしれないという医師の初見だった。
その後、詳しく検査をした結果、すでに手遅れだという診断は覆らなかった。
そんな事態が起きていることを映美は知るはずもない。
映美がボストンに出発する夏休みが始まる4日前のことだった。
何も知らない映美はさらに何かプレゼントを持っていきたいと考えていた。
贈り物のためにさらから送られたお金を使うべきではない。
それでは気持ちが込められない。
でも映美にはお金の余裕はない。
でも何かしたい。
いろいろ考えを巡らせていた。
中学1年の時、習っていた手作りのプリザーブドフラワーのことを思い出した。
花を特殊な液体で枯れないように加工してとても美しい。
ドライフラワーのように枯れた感じにならない加工で初めてみた時は感動した。
花屋さんで買う綺麗な花ではなく、線路沿いに咲いている花にしたい。
いつも可愛い花だなあと映美が思っていた花でやってみたい。
さらと再会した時のことを考えながら、線路沿いの花を観察しに行った。
その日の昼過ぎ。
突然外国人の男性から電話がかかって来る。
さらのご主人からだと勘が囁く。
声の感じで受話器を持つ手が固まった。
ところどころ日本語を混ぜながら慌てて話している。
聞き取れたのは
sara hospital almost die
さら? 病院? 死にそう?
この3つだけだった。
almost dieとそこだけゆっくり話してくれた。
almost die?(死にそうだ?)大変な事態が起きたのだと一瞬で血の気が引いていく。
自分の両手と頬が震えているのがはっきりわかった。
状況を詳しく聞く英語力はない。
聞かされても理解出来ない。
ご主人の声の背後から慌ただしい病院の様子が伝わってくる。
医療機器のデジタル音や若い看護師らしい女性の早口の言葉が飛び交っていた。
現実の出来事だとは思えない。
落ち着くんだ!
落ち着くんだ!
自分に言い聞かせる。
足まで震え出してきた。
ご主人は落ち着いてきて日本語だけで話してくれた。
「さらは死ぬです。」
変な日本語だったが、それが現実味を増して私の恐れは耐えきれないレベルにまで達していた。
映美は声を振るわせ、カタカナのような英語で
「 I will come as soon as pasible.
Let me know hospital... address and phone namber !」
「すぐにそっちにいく。病院の住所と電話番号を教えて!」とつまりながら英語で話した。
伝わったかどうか心配だったが、一刻も早くさらに会いに行かなければ!
そのことで頭がいっぱいだった。
ご主人の「OK」という言葉が聞こえ電話は切れた。
心臓が締め付けられる。
頭が混乱している。
過呼吸だ。
足の震えが止まらない。
almost die!almost die!
(死にそうなんだ!)(死にそうなんだ!)
震えが大きくなってきた。
呼吸のコントロールが難しい。
耳の奥の方から自分の鼓動が聞こえる。
さらが送ってくれたお金を持って今すぐ空港へいくんだ!今すぐだ!
空港に着くまでに連絡先を送ってくれるはずだ。
映美は海外に行ったことは1度もない。
しかし、さらにまた会える日が来ることを願っていたので、さらの退職とボストンに住むことを知った次の日の夕方にパスポートの申請に行っていた。
さらに初めて手紙を渡したその日の夕方にはふたつ目の行動も起こしていたのだ。
鳥かご理論というのを聞いたことがあったからだ。
鳥を飼いたいと願っているなら、まず鳥籠を用意しておくことが重要だという教えだった。
何事も現実になることを信じて受け入れ体制を準備しておくと現実からも近づいて来てくれるという教えを覚えていた。
時間がない!急ぐんだ!
用意しておいたスーツケースではなく、いつものリュックに少しの着替えとスマホと真っさらのパスポート、お金を入れて急いで家を出た。
夏休みはまだ始まっていないが、大学には明日連絡すればいい。
すぐに家を出て急いで空港に向かう。
途中でスマホを見るとサラのご主人から病院名と連絡先が送られていた。
ボストンのローガン空港と書いてある。
病院はそこからすぐ近くらしい。
自分は病院を離れられないので、妹が空港まで迎えにいくと書いてあるようだ。
間違って解釈してはいけないので、翻訳アプリを使って確認する。
日本語を少し話せるようだが、文字は書けないようだ。
すぐ見つかるように妹さんの写真も送ってくれていた。
チケットはスムーズに予約できた。
ローガン空港の到着時間だけを書いて送った。
さらの様子は聞かない。聞くのが怖い。
搭乗ゲートが見えた時、家の鍵をかけ忘れたことに気がついたが、考えないことにした。
そんなことはどうでもいい!
急いで機内に向かう。
耳の奥から聞こえる自分の心音が止んでくれない。
機体からの音と混じって嫌な興奮が襲ってくる。
席に座ってもまったく落ち着かない。
神様、さらを守って下さいと何度も心の中で叫んでいた。
胸の奥から湧き出てくるような嫌な予感を深呼吸で吐き出そうとしてみたが全く効果はない。
不安は容赦なく襲いかかってくる。
怖い。
息が詰まる。
指先がずっと震えている。
隣の席に座っている年配の外国人の女性が心配そうな顔で
「Are you OK?Are you OK?」
と何度も聞いてくる。
誰の目にも私は異常なほど怯えているように見えていたはずだ。
私は返事も出来ず、変な愛想笑いのような顔しか出来ない。
気がつくとその女性は私の背中に手を置いてゆっくりさすってくれていた。
手のひらの温かい感じが深呼吸の何倍も私を落ち着かせてくれた。
何やらつぶやいている。
何を言っているのかわからなかったが、最後のイン、ジーザスネーム、エーメン(イエスの名前によって祈ります)と言っていたのが聞き取れた。
見ず知らずの私のために祈ってくれていたのだ。
人の心の温かさに癒される。
しかし、寒くもないのに震えが止まらない。そのまま一睡もしないまま空港に着いた。
手荷物だけなので、急いでゲートに向かいすぐ妹さんを探す。
すぐに会えた。
手で引きちぎったようなダンボールにひらがなでえみさんと大きく書いてあった。
走っていって映美ですと声をかけた。
彼女は少し険しい顔で頷くだけで、笑顔も挨拶もなく私の右手を掴み、
「hurry !hurry !」
と言って痛いくらい私の手を掴んで駐車場まで引っ張ってゆく。
急ぎ方からして、さらが危険な状態にあることが嫌でもわかる。
私を車に押し込むようにしてドアを閉め、彼女は急発進でタイヤを鳴らしながら車を走らせた。
彼女の運転の荒々しさで一刻を争う事態なのだということが伝わってくる。
彼女が言う。
「10minites。10minutes。」
病院は空港のすぐ近くにあるらしい。
緊張と不安が押し寄せる。
病院の前に着くと、車をそのままにして彼女が叫ぶ。
「hurry!hurry!」
私の手を取り病室に引っ張っていく。
ICUとも一般病棟とも見えるがドアはほとんどなくオープンなスペースで日本の病院とは感じが違っていた。
広い空間にベッドが10台ほど並んでいた。
さらだ!
さらが横たわっている。
現実を突きつけられた。
男性の医師と、看護師とご主人らしき人がさらを囲んでいる。
「映美です。」
それだけしか言えない。
ご主人らしき人に背中を押されてさらの顔の近くまできた。
口に人工呼吸器のプラスチックが装着されていて痛々しい。
「さら...さら...」
声をかけたが目を瞑ったまま反応はない。
ご主人の目が赤く充血している。
何も聞けない。
さらの手を握った。
とても綺麗な手だ。
人工呼吸器のシュー、シューという音が怖い。
ご主人とも妹さんともほとんど挨拶もしていないが痛みを共有していることだけはお互いわかる。
さらはどんな状態なのか?
何も聞かされない。
私も聞かない。
さらのおでこに手を当て、頬に手を当てた。
もう一度、
「さら...さら...」
と声をかけた。
その時だ!
さらの左目から一筋の涙が耳の辺りまで流れた!
はっきり見た。
さらは昏睡状態に見えるが、聞こえているのだ。
さらの耳元で
「映美だよ、映美だよ」
泣きそうな顔になってしまった。
反応はない。でも絶対聞こえている。
私はたまらなくなってさらの顔に抱きついた。
さらの頬と私の頬がくっついた時、これは現実なんだとあらためて実感させられる。
さらの左目から流れた涙にそっと触れてみた。
その時私は神に触れたような不思議な感じがした。
思い過ごしかもしれないが、さらはこの状況の中で私のために祈ってくれていると感じたのだ。
自分のことは既に神に委ねているように思えた。
さらの体から静かな波動のようなものが放たれているように感じる。
私が冷静さを失っていて、いろんなことを勝手に感じ過ぎていたのかもしれない
同時に適応障害で味わった時のような、自分の心が誰かに乗っ取られるような感じも少し蘇っていた。
落ち着くんだ!
しっかりするんだ!
自分に言い聞かせる。
今私の目の前に横たわっているこの人は、神様からの使命を持って生きてきた人なんだ。
やっぱりそんな気がする。
神にしか与えられない平和を持っている。今の私にも分かる。
単なる上品さや気品などというものだけではない。
刺さるように感じた。
初めてあの図書館で見たさらの美しい目と眼差しの正体を見る思いがした。
*
さらが昏睡状態になって3日が経った。
担当の医師が私たちに今のさらの状態を詳しく説明するという。
さらはすでに脳死状態だとはっきり告げられた。
そして、私たちの目の前で5秒ほど口から人工呼吸器を外してみせた。
さらが自分で呼吸していないことを家族に確認させるのだ。
確かにその五秒間さらは呼吸していなかった。
今まで呼吸してるように見えたのは、人工呼吸器がリズム良く酸素を送っていたからだった。
家族は決断を迫られる。
このまま人工呼吸器をつけたままにするか、それ以外を考えたいか。
ご主人はもう少しこのままにしたいと伝えたらしい。
私はさらが自分で呼吸していないことがまだ受け入れられない。
もう本当に助かる可能性はないのだろうか?
可能性で考えたくはない。
この世界は奇跡で満ちているという言葉を信じている。
適応障害になり高校へも行けずにいた私が、奇跡的に大学生になれたのだ。
さらに奇跡が起こらないはずはない!
可能性よりも奇跡を信じたい!
*
主治医から人工呼吸器の取り外しの検討を伝えられて四日が経っていた。
私はずっとさらの部屋に泊めてもらっている。
部屋は何から何まで綺麗に整理されていて、この部屋にはご主人も入らない約束をしていたらしい。
個人のプライバシーが夫婦でも守られているとご主人が言っていた。
日本とは住宅事情も違うが、それだけではない。
自由やプライバシーに対する向き合い方もその歴史も違うみたい。
アメリカではそれが普通なのですか?と聞いたら、あまり聞いたことはないが、私達はそうしているとだけ答えてくれた。
その日の夕方、さらの部屋でひとりベッドに腰掛け、これからどうなってしまうんだろうかと不安に押しつぶされそうになっていた。
その時、微かにご主人の声が聞こえたような気がして耳を澄ましてみる。
声を押し殺したような、うめきのような小さな声。
泣き声だった。その声がだんだん大きくなっていく。
大人の男性が泣く声を聞くのははじめてかもしれない。
妻を想う気持ちが怖いくらい溢れ出ていた。
ご主人は私の何倍も辛いに違いない。
しばらくして玄関のドアを開ける音がして、そしてバタンと閉まった。
外に出て行かれたようだ。
2階の部屋の窓から覗くと、頭を下げてトボトボ歩く姿が見えた。
リタイヤ寸前のランナーのように崩れ落ちそうな後ろ姿が、夕暮れの琥珀色に溶けていく。
私に泣き声を聞かせたくなかったのか、ひとりになりたかったのかわからない。
だんだんその声は大きくなっていった。
あの物静かで優しい紳士が大きな声で泣きながら出ていった。
その時分かった!
ご主人は人工呼吸器を外す決断をしたのだ。
もうこれ以上耐えられなかったんだ。
妻を思う気持ちがそうさせるんだ。
私はこの時の茜色に染まった夕焼けを一生忘れることはないだろう。
時を止めることも戻す事もできない。
地球の自転は情け容赦がない。
私もこの現実を噛みしめなければならない。
覚悟を決めなければならないんだ。
その夜は一睡もできないまま次の日の朝になった。
階段を降りると、ご主人が朝日を浴びながら立ったままキッチンでコーヒーを飲んでいた。
その横顔に大きな決断を済ませた人間の覚悟とやすらぎが漂っている。
泣き声のことは私もご主人も触れない。
目がひどく充血しているが、その表情は紳士そのものだ。
「今日はコーヒーがいい?紅茶がいい?ミルクもオレンジジュースもあるよ」
優しい声で聞いてくれる。
こんな状況でもいつも私に気を使ってくれる。
私が食事の手伝いや後片付けを手伝おうとしても「大丈夫、大丈夫」と言って自分ですべてこなされる。
無言のまま2人だけの食事が終わり、2杯目のコーヒーを入れてくれた。
ご主人も2杯目のカップを握りながら、ゆっくり椅子に腰掛け、軽く笑顔を見せてくれる。
その笑顔がゆっくり神妙な顔付きになる。
落ち着いた口調だった。
「あなたに話したいです。今日さらにさようならします」
やはり人工呼吸器を外す決断をされたのだ。
私にも覚悟はあったが、ご主人の言葉を聞いた瞬間、体温を奪ったお湯のような大量の涙が一気に溢れ出してしまった。
その場から逃げるようにさらの部屋に戻って、急いでバスタオルを口に押し当てる。
車が急ブレーキをかけたような声を出して思いっきり泣いた。
自分がまだ十代なのだということを思い知らされる。
まるで子供の泣き方だ。喉が痛い。
どのくらい時間が経ったのかわからなくなるほど泣きじゃくった。
横隔膜がだるくなってしまった。
私はそれでも心の底で奇跡を信じていた。
神がおられるなら奇跡は起こるはずだ。
神はさらが言っていたように全知全能なのだから。
人工呼吸器の取り外しをしないようにご主人に伝えたかったが、それは口出ししてはならない。
わきまえなければならない。
ご主人は早く病院に戻りたかったと思うが、黙って私が正気を取り戻すのを待っていてくれたようだった。
そのことに気がついて、私は自分勝手を恥じた。
その頃さらは週二回ほど健康のためにプールの中を二十分ほど歩いて、そのあとストレッチをすることにしていた。
妊娠がわかってから、医師のアドバイスで泳ぐのではなく、ゆっくり水の中を歩くだけのほうが良いと言われていたらしい。
その日もいつものように両手で水をかくようにゆっくり歩くだけにしていた。
歩き始めてすぐ何の前触れもなく突然頭に強烈な激痛が走る。
今まで感じたことのない頭が割れそうな強烈な痛みだった。
その直後、体が思うように動かなくなってしまう。
痛みを堪えてやっとの思いでなんとか自力で上半身だけプールサイドにもたれ込むようにうずくまった。
その後、そのまま意識を失う。
スタッフがびっくりして飛んできて、顔を覗き込むと、その時さらの黒目はいびつな動きをしていて、緊急事態だと理解する。
一刻を争うと判断して急いで救急車を呼んだ。
スタッフの手際良い判断と行動で、すぐに病院に運ばれたが、そこでさらの状態を見た医師は、くも膜下出血だろうとの判断。
しかも極めて危険な状態であることがわかった。
眼球の動きを見て手術を断念せざるを得ないかもしれないという医師の初見だった。
その後、詳しく検査をした結果、すでに手遅れだという診断は覆らなかった。
そんな事態が起きていることを映美は知るはずもない。
映美がボストンに出発する夏休みが始まる4日前のことだった。
何も知らない映美はさらに何かプレゼントを持っていきたいと考えていた。
贈り物のためにさらから送られたお金を使うべきではない。
それでは気持ちが込められない。
でも映美にはお金の余裕はない。
でも何かしたい。
いろいろ考えを巡らせていた。
中学1年の時、習っていた手作りのプリザーブドフラワーのことを思い出した。
花を特殊な液体で枯れないように加工してとても美しい。
ドライフラワーのように枯れた感じにならない加工で初めてみた時は感動した。
花屋さんで買う綺麗な花ではなく、線路沿いに咲いている花にしたい。
いつも可愛い花だなあと映美が思っていた花でやってみたい。
さらと再会した時のことを考えながら、線路沿いの花を観察しに行った。
その日の昼過ぎ。
突然外国人の男性から電話がかかって来る。
さらのご主人からだと勘が囁く。
声の感じで受話器を持つ手が固まった。
ところどころ日本語を混ぜながら慌てて話している。
聞き取れたのは
sara hospital almost die
さら? 病院? 死にそう?
この3つだけだった。
almost dieとそこだけゆっくり話してくれた。
almost die?(死にそうだ?)大変な事態が起きたのだと一瞬で血の気が引いていく。
自分の両手と頬が震えているのがはっきりわかった。
状況を詳しく聞く英語力はない。
聞かされても理解出来ない。
ご主人の声の背後から慌ただしい病院の様子が伝わってくる。
医療機器のデジタル音や若い看護師らしい女性の早口の言葉が飛び交っていた。
現実の出来事だとは思えない。
落ち着くんだ!
落ち着くんだ!
自分に言い聞かせる。
足まで震え出してきた。
ご主人は落ち着いてきて日本語だけで話してくれた。
「さらは死ぬです。」
変な日本語だったが、それが現実味を増して私の恐れは耐えきれないレベルにまで達していた。
映美は声を振るわせ、カタカナのような英語で
「 I will come as soon as pasible.
Let me know hospital... address and phone namber !」
「すぐにそっちにいく。病院の住所と電話番号を教えて!」とつまりながら英語で話した。
伝わったかどうか心配だったが、一刻も早くさらに会いに行かなければ!
そのことで頭がいっぱいだった。
ご主人の「OK」という言葉が聞こえ電話は切れた。
心臓が締め付けられる。
頭が混乱している。
過呼吸だ。
足の震えが止まらない。
almost die!almost die!
(死にそうなんだ!)(死にそうなんだ!)
震えが大きくなってきた。
呼吸のコントロールが難しい。
耳の奥の方から自分の鼓動が聞こえる。
さらが送ってくれたお金を持って今すぐ空港へいくんだ!今すぐだ!
空港に着くまでに連絡先を送ってくれるはずだ。
映美は海外に行ったことは1度もない。
しかし、さらにまた会える日が来ることを願っていたので、さらの退職とボストンに住むことを知った次の日の夕方にパスポートの申請に行っていた。
さらに初めて手紙を渡したその日の夕方にはふたつ目の行動も起こしていたのだ。
鳥かご理論というのを聞いたことがあったからだ。
鳥を飼いたいと願っているなら、まず鳥籠を用意しておくことが重要だという教えだった。
何事も現実になることを信じて受け入れ体制を準備しておくと現実からも近づいて来てくれるという教えを覚えていた。
時間がない!急ぐんだ!
用意しておいたスーツケースではなく、いつものリュックに少しの着替えとスマホと真っさらのパスポート、お金を入れて急いで家を出た。
夏休みはまだ始まっていないが、大学には明日連絡すればいい。
すぐに家を出て急いで空港に向かう。
途中でスマホを見るとサラのご主人から病院名と連絡先が送られていた。
ボストンのローガン空港と書いてある。
病院はそこからすぐ近くらしい。
自分は病院を離れられないので、妹が空港まで迎えにいくと書いてあるようだ。
間違って解釈してはいけないので、翻訳アプリを使って確認する。
日本語を少し話せるようだが、文字は書けないようだ。
すぐ見つかるように妹さんの写真も送ってくれていた。
チケットはスムーズに予約できた。
ローガン空港の到着時間だけを書いて送った。
さらの様子は聞かない。聞くのが怖い。
搭乗ゲートが見えた時、家の鍵をかけ忘れたことに気がついたが、考えないことにした。
そんなことはどうでもいい!
急いで機内に向かう。
耳の奥から聞こえる自分の心音が止んでくれない。
機体からの音と混じって嫌な興奮が襲ってくる。
席に座ってもまったく落ち着かない。
神様、さらを守って下さいと何度も心の中で叫んでいた。
胸の奥から湧き出てくるような嫌な予感を深呼吸で吐き出そうとしてみたが全く効果はない。
不安は容赦なく襲いかかってくる。
怖い。
息が詰まる。
指先がずっと震えている。
隣の席に座っている年配の外国人の女性が心配そうな顔で
「Are you OK?Are you OK?」
と何度も聞いてくる。
誰の目にも私は異常なほど怯えているように見えていたはずだ。
私は返事も出来ず、変な愛想笑いのような顔しか出来ない。
気がつくとその女性は私の背中に手を置いてゆっくりさすってくれていた。
手のひらの温かい感じが深呼吸の何倍も私を落ち着かせてくれた。
何やらつぶやいている。
何を言っているのかわからなかったが、最後のイン、ジーザスネーム、エーメン(イエスの名前によって祈ります)と言っていたのが聞き取れた。
見ず知らずの私のために祈ってくれていたのだ。
人の心の温かさに癒される。
しかし、寒くもないのに震えが止まらない。そのまま一睡もしないまま空港に着いた。
手荷物だけなので、急いでゲートに向かいすぐ妹さんを探す。
すぐに会えた。
手で引きちぎったようなダンボールにひらがなでえみさんと大きく書いてあった。
走っていって映美ですと声をかけた。
彼女は少し険しい顔で頷くだけで、笑顔も挨拶もなく私の右手を掴み、
「hurry !hurry !」
と言って痛いくらい私の手を掴んで駐車場まで引っ張ってゆく。
急ぎ方からして、さらが危険な状態にあることが嫌でもわかる。
私を車に押し込むようにしてドアを閉め、彼女は急発進でタイヤを鳴らしながら車を走らせた。
彼女の運転の荒々しさで一刻を争う事態なのだということが伝わってくる。
彼女が言う。
「10minites。10minutes。」
病院は空港のすぐ近くにあるらしい。
緊張と不安が押し寄せる。
病院の前に着くと、車をそのままにして彼女が叫ぶ。
「hurry!hurry!」
私の手を取り病室に引っ張っていく。
ICUとも一般病棟とも見えるがドアはほとんどなくオープンなスペースで日本の病院とは感じが違っていた。
広い空間にベッドが10台ほど並んでいた。
さらだ!
さらが横たわっている。
現実を突きつけられた。
男性の医師と、看護師とご主人らしき人がさらを囲んでいる。
「映美です。」
それだけしか言えない。
ご主人らしき人に背中を押されてさらの顔の近くまできた。
口に人工呼吸器のプラスチックが装着されていて痛々しい。
「さら...さら...」
声をかけたが目を瞑ったまま反応はない。
ご主人の目が赤く充血している。
何も聞けない。
さらの手を握った。
とても綺麗な手だ。
人工呼吸器のシュー、シューという音が怖い。
ご主人とも妹さんともほとんど挨拶もしていないが痛みを共有していることだけはお互いわかる。
さらはどんな状態なのか?
何も聞かされない。
私も聞かない。
さらのおでこに手を当て、頬に手を当てた。
もう一度、
「さら...さら...」
と声をかけた。
その時だ!
さらの左目から一筋の涙が耳の辺りまで流れた!
はっきり見た。
さらは昏睡状態に見えるが、聞こえているのだ。
さらの耳元で
「映美だよ、映美だよ」
泣きそうな顔になってしまった。
反応はない。でも絶対聞こえている。
私はたまらなくなってさらの顔に抱きついた。
さらの頬と私の頬がくっついた時、これは現実なんだとあらためて実感させられる。
さらの左目から流れた涙にそっと触れてみた。
その時私は神に触れたような不思議な感じがした。
思い過ごしかもしれないが、さらはこの状況の中で私のために祈ってくれていると感じたのだ。
自分のことは既に神に委ねているように思えた。
さらの体から静かな波動のようなものが放たれているように感じる。
私が冷静さを失っていて、いろんなことを勝手に感じ過ぎていたのかもしれない
同時に適応障害で味わった時のような、自分の心が誰かに乗っ取られるような感じも少し蘇っていた。
落ち着くんだ!
しっかりするんだ!
自分に言い聞かせる。
今私の目の前に横たわっているこの人は、神様からの使命を持って生きてきた人なんだ。
やっぱりそんな気がする。
神にしか与えられない平和を持っている。今の私にも分かる。
単なる上品さや気品などというものだけではない。
刺さるように感じた。
初めてあの図書館で見たさらの美しい目と眼差しの正体を見る思いがした。
*
さらが昏睡状態になって3日が経った。
担当の医師が私たちに今のさらの状態を詳しく説明するという。
さらはすでに脳死状態だとはっきり告げられた。
そして、私たちの目の前で5秒ほど口から人工呼吸器を外してみせた。
さらが自分で呼吸していないことを家族に確認させるのだ。
確かにその五秒間さらは呼吸していなかった。
今まで呼吸してるように見えたのは、人工呼吸器がリズム良く酸素を送っていたからだった。
家族は決断を迫られる。
このまま人工呼吸器をつけたままにするか、それ以外を考えたいか。
ご主人はもう少しこのままにしたいと伝えたらしい。
私はさらが自分で呼吸していないことがまだ受け入れられない。
もう本当に助かる可能性はないのだろうか?
可能性で考えたくはない。
この世界は奇跡で満ちているという言葉を信じている。
適応障害になり高校へも行けずにいた私が、奇跡的に大学生になれたのだ。
さらに奇跡が起こらないはずはない!
可能性よりも奇跡を信じたい!
*
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私はずっとさらの部屋に泊めてもらっている。
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個人のプライバシーが夫婦でも守られているとご主人が言っていた。
日本とは住宅事情も違うが、それだけではない。
自由やプライバシーに対する向き合い方もその歴史も違うみたい。
アメリカではそれが普通なのですか?と聞いたら、あまり聞いたことはないが、私達はそうしているとだけ答えてくれた。
その日の夕方、さらの部屋でひとりベッドに腰掛け、これからどうなってしまうんだろうかと不安に押しつぶされそうになっていた。
その時、微かにご主人の声が聞こえたような気がして耳を澄ましてみる。
声を押し殺したような、うめきのような小さな声。
泣き声だった。その声がだんだん大きくなっていく。
大人の男性が泣く声を聞くのははじめてかもしれない。
妻を想う気持ちが怖いくらい溢れ出ていた。
ご主人は私の何倍も辛いに違いない。
しばらくして玄関のドアを開ける音がして、そしてバタンと閉まった。
外に出て行かれたようだ。
2階の部屋の窓から覗くと、頭を下げてトボトボ歩く姿が見えた。
リタイヤ寸前のランナーのように崩れ落ちそうな後ろ姿が、夕暮れの琥珀色に溶けていく。
私に泣き声を聞かせたくなかったのか、ひとりになりたかったのかわからない。
だんだんその声は大きくなっていった。
あの物静かで優しい紳士が大きな声で泣きながら出ていった。
その時分かった!
ご主人は人工呼吸器を外す決断をしたのだ。
もうこれ以上耐えられなかったんだ。
妻を思う気持ちがそうさせるんだ。
私はこの時の茜色に染まった夕焼けを一生忘れることはないだろう。
時を止めることも戻す事もできない。
地球の自転は情け容赦がない。
私もこの現実を噛みしめなければならない。
覚悟を決めなければならないんだ。
その夜は一睡もできないまま次の日の朝になった。
階段を降りると、ご主人が朝日を浴びながら立ったままキッチンでコーヒーを飲んでいた。
その横顔に大きな決断を済ませた人間の覚悟とやすらぎが漂っている。
泣き声のことは私もご主人も触れない。
目がひどく充血しているが、その表情は紳士そのものだ。
「今日はコーヒーがいい?紅茶がいい?ミルクもオレンジジュースもあるよ」
優しい声で聞いてくれる。
こんな状況でもいつも私に気を使ってくれる。
私が食事の手伝いや後片付けを手伝おうとしても「大丈夫、大丈夫」と言って自分ですべてこなされる。
無言のまま2人だけの食事が終わり、2杯目のコーヒーを入れてくれた。
ご主人も2杯目のカップを握りながら、ゆっくり椅子に腰掛け、軽く笑顔を見せてくれる。
その笑顔がゆっくり神妙な顔付きになる。
落ち着いた口調だった。
「あなたに話したいです。今日さらにさようならします」
やはり人工呼吸器を外す決断をされたのだ。
私にも覚悟はあったが、ご主人の言葉を聞いた瞬間、体温を奪ったお湯のような大量の涙が一気に溢れ出してしまった。
その場から逃げるようにさらの部屋に戻って、急いでバスタオルを口に押し当てる。
車が急ブレーキをかけたような声を出して思いっきり泣いた。
自分がまだ十代なのだということを思い知らされる。
まるで子供の泣き方だ。喉が痛い。
どのくらい時間が経ったのかわからなくなるほど泣きじゃくった。
横隔膜がだるくなってしまった。
私はそれでも心の底で奇跡を信じていた。
神がおられるなら奇跡は起こるはずだ。
神はさらが言っていたように全知全能なのだから。
人工呼吸器の取り外しをしないようにご主人に伝えたかったが、それは口出ししてはならない。
わきまえなければならない。
ご主人は早く病院に戻りたかったと思うが、黙って私が正気を取り戻すのを待っていてくれたようだった。
そのことに気がついて、私は自分勝手を恥じた。
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