花の命

てまり

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第五話 空木春子 されど我が子

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 まだ午後の五時だというのに酷い豪雨のせいで外はすでに真っ暗だ。私はカーテンを閉め、夫の裕司が傘を持たずに出勤して行ったことを思い出した。職場は徒歩圏内なので傘を持って迎えに行こうかと思った。あえて傘を一つだけ持って迎えに行こうかと迷っていると、突然ドアが開け放たれ、外の豪雨と雷の音が、それ以外の音を遮断した。私は何事かと慌てて後ずさったが、それは帰宅した夫だった。雨に降られた夫は走って来たのだろうか、酷く息を切らして鞄を抱え背中を丸めていた。私は慌ててバスタオルを洗面所から持ってきて彼の頭に被せた。
「今から傘を持っていこうと思っていたのに、走って来たの?体冷やす前に早く拭いて・・・」
お風呂に入って、と言う前に私は彼が抱えているものが、鞄だけでは無いことに気付いた。彼の腕の中でかろうじて濡れずにいたのは、タオルで厳重に包まれた小さな赤ん坊だった。
「今日から俺たちの子供だ。」
彼がそう言ったのと同時に雷の音が部屋中に響き渡った。その音に驚いたのか、突如赤ん坊が耳をつんざくような声で泣き叫んだ。
 気が付くと私はソファにもたれ掛かり息を切らしていた。まだ動機が収まる気配はない。私はゆっくり深呼吸をした。
「ただいま。」
私は後ろから突然聞こえた声に肩を跳ね上がらせた。
「音もなく後ろに立たないでよ!びっくりするでしょう!?」
私は全くもう、と怒りながら「おかえり」と付け足した。裕司は少ししゅんとしながら隣に座った。
「大丈夫?疲れてるのか?」
私は「え?どうして?」と聞き返した。
「帰ってきて声かけたけどぐっすり眠ってたからそっとしておこうと思ったら、二時間くらい眠ってたぞ。もうお風呂も入ってご飯も食べたよ。」
「え?そんなに寝てた?ごめん心配かけて。大丈夫。ただよくない夢を見ただけ。」
否、本当はそれだけではない。夫はもう缶ビールを開けてくつろいでいた。私はそれを横目に試すようなことを言ってみた。
「菖蒲がこの家に来た日の夢を見たの。」
彼は少しドキッとしたのか目を見開き、ビールを飲む手を止めた。
「菖蒲と、何かあったのか・・・?」
彼は静かに口を開いた。私は彼の質問を蹴り、感情的に言い放った。
「菖蒲と生活するようになってもう十七年よ!私も菖蒲も本当のことを知る権利があるはず!いい加減話してくれても良いでしょう?」
裕司は俯いたままだ。
「あの子知ってるわよ。私達が本物の親じゃないこと。」
私は菖蒲に見せられた鑑定結果の書類を裕司の顔の前に突き付けた。「さっき二人で話した。」と一言付け足した。書類に一通り目を通し、裕司は「もう時効か。」と呟き決心したようにこちらに向き直った。
「単刀直入に言う。菖蒲は人工的に作られた人間だ。だから親が居ないんだ。」
「は?」
私は思わず笑った。
「じゃあ菖蒲は『人造人間』だとでも言うの?」
「そうだ。」と彼は至って真面目な表情で言ってのけた。私が何を言っているのだと顔をしかめていると、裕司は続けた。
「俺の上司の子供は、生まれつき心臓に疾患を抱えていた。そこで、その上司は大学の時の同級生で、臓器移植に関する研究をしている人に手を借りることにした。その時にドナーとして作られたのが菖蒲だ。だが、突然心臓移植の必要が無くなった。理由は詳しくは知らされなかったが、その上司は子供を自分で育てられないからと俺に託したんだ。」
先輩の同級生の人は、人間がやってはいけないことをしてしまったから、ずっと言えなかったんだ、と裕司は言った。
「じゃあ、菖蒲が生まれた理由は、心臓移植のためだけだったってこと?」
私は涙を流していた。菖蒲の存在意義に絶望し、同情すると同時に、心臓移植されずにここに来てくれたことに心から安堵した。
「生きててくれて良かった。本当に良かった・・・。」
私は手で顔を覆いながら、気が済むまで涙を流した。彼も話せて気が軽くなったのか、すすり泣きながら私に寄り添い肩をさすってくれた。
 翌朝、私は菖蒲に本当のことを話せなかった。まだ話せるほど私は菖蒲と距離が縮まったようには感じられなかった。しかし、いつか必ず話さなければならない日が来る。例えこの事実が菖蒲を苦しめることになっても、このまま知らずに生きて苦しむよりはまだマシだろう。それに、人間を「作る」などという背徳的かつ無責任な行為をした裕司の先輩とその同級生を私は許せなかった。許されるべきではないと思った。だから私は必ず菖蒲に事実を伝えることを心に誓った。
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