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北斎 平成の世へ
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――平成7年(1995) 1月――
「む……。ここは、一体どこだ」
いやに寒い。季節は夏だったはずなのだが、何処かおかしい。目を開けると、そこには濁りに濁った隅田川が佇んでいる。見たこともないような色。地面をさする。なんだ、この経験したことのない手触りは。ハッと見た建物に、木材のかけらもない。また出てきた、見たこともないような色。
ギュン!自身の体の真横を何かの塊のようなものが過ぎ去った。馬をも優に超える速さである。聞いたこともないような音。これは……いや、向こうを見てみろ、もっと大きい、蛇のような怪物が、物凄い速さで川を横切っている。おそろしい。
つぎは、鼻を嗅いでみる。……いつもの潮の匂いがしない!色だけでなく、匂いも変わっちまっているのか。おい。訳がわからん。頭が痛くなってきた。ここはどこだ。本当に江戸なのか。
ほんの十年か前に、天狗に連れ去られたとかいう、子どもの話があったっけか。あんな戯言、儂は構うものかと思ってはいたが……本当かもしれねえ。よく考えれば、こんなことが儂の身に起こっても、不思議じゃねえご時世だった。はあ。一体どうすりゃいいのだ。
「……おい、そこの人。ここはどこだい」
恐る恐る、北斎は道ゆく人に尋ねたが、彼は気づく様子まるでなく、足早に去っていった。
「おい!いくな!ちっ。やつら、儂のことが見えてねえとみえる。変な召し物なんざ着やがって。どうも好かねえ」
彼はいくらか歩いて、こう思うようになった。
へえ、なるほど……。これが極楽浄土ってやつかい、いや、儂には地獄が似合うな。ふん、ついに人魂になったか……どうせなら、いまここで画稿でも描きてえな……。何から描く?画材は?くそっ、手ぶらで出てきちまった……。ふふ、ここが地獄だと思ったら、案外怖くなくなってきたな。妙に納得してしまうのが北斎という男の恐ろしさである。彼の意識は、とっくに周りの摩訶不思議より、一刻も早く絵筆を持つことに向いていた。
「描こうつったって、何もねえ。ようし、こうなりゃ自分の血で……」
思い切り爪を噛もうとした、その時である。
視線の先に、明らかに様子がおかしい者がいる。訝しげに、こちらの顔を見ている。眼鏡をかけた、ひょろりとした外見の男だ。
「あ……」
彼は目が合ってしまったことを後悔しているようだ。……しかし、声にならない。唇の振動だけが淡く伝わった。
「おお、お前、儂が見えるのか?」
「見えま、すけど」
小刻みに頭を上下に揺らしている。
「そうかい、そうかい。そりゃ都合がいい。もう、お前さんしか頼りがねえ。筆、貸してくれねえか」
「……筆?」
「そうだよ。描くものだ。描くものが欲しいんだ」
「筆か……。僕の家なら、ありますけど……」
「そうか。じゃあ、連れて行ってくれ」
「そうは言ったって……貴方、一体誰です?こんな昔の格好をして。イベントの類ですか」
「ああもう、うるさい!はやくに描かせろ!それだけでいいんだ」
苛立った表情で、ぐっと北斎が男に詰め寄った。
「やめてください!分かりました、分かりました!行きましょう!」
北斎はにやりと笑って、
「そうだ。それでいい」
と呟いた。
男の自宅は、歩いて十分の安アパートの一室である。奥にはよく整頓された木の机。左には「画集」とシールが貼られた棚。その中には、幾つもの分厚い本が生真面目に並んでいる。太陽の光が窓から不意に差し込む。
「お前さん。こんな綺麗な部屋で、よく息をしていられるね」
「いや、掃除は当然でしょう」
「けっ。すぐに引っ越せば良いものを。まあ、とにかく、描くものは、と……」
どかりと偉そうに座って、辺りを見回すと、少しばかり変わったものが目についた。
「おい。こんなものなんかで、描けるのか」
「ああ。これはGペンって言いまして……。ご存じないですか?」
「こりゃあ。面白えや。しかし硬いな……。お、ここにもあるじゃねえか」
「これは、どこにでもある鉛筆ですよ!」
「……?」
北斎は首を傾げ、こう続けた。
「手に馴染むかどうかはわからねえが、まあ、いいか。おい、次は紙だ、紙」
「はあ。まあなんでもどうぞ」
「おお。こんなもんか。ちと、質が違えが…。お前、よくこんなに持っていたな」
「一応、マンガ家志望なもんで……」
男がこう呟いた時には、北斎は目をかっと見開いて、ひとり、真白の海に漕ぎ出でていた。
地べたにぐぐっとしゃがみ込み、爪の先から、髪の毛の一本まで、一切が北斎の視界を共有しているようだった。そう、彼の体すべてが、眼。ものを見るために生まれた眼なのである。それが偶々、絵描きになった、と言わざるを得ない。特に、北斎の作品を一度でも見たことのある人間は……。
さて、北斎のこの姿を見て、男は「先生」と初めて会った日を思い出した。かれこれ6年も前のことである。
「ぼくの、アシスタントになりたいって?」
「はい。この通り!先生!」
「若いねえ、君。そうか」
汗に塗れた手拭いを、ぐっと締め直し、何も言わずに机に戻った。その背中である。
彼は小さく
「先生?」
と呟いた。こぢんまりとした一室は、その輪郭をどんどん失って、緩やかに奇妙な時間へ溶け出していった。
「む……。ここは、一体どこだ」
いやに寒い。季節は夏だったはずなのだが、何処かおかしい。目を開けると、そこには濁りに濁った隅田川が佇んでいる。見たこともないような色。地面をさする。なんだ、この経験したことのない手触りは。ハッと見た建物に、木材のかけらもない。また出てきた、見たこともないような色。
ギュン!自身の体の真横を何かの塊のようなものが過ぎ去った。馬をも優に超える速さである。聞いたこともないような音。これは……いや、向こうを見てみろ、もっと大きい、蛇のような怪物が、物凄い速さで川を横切っている。おそろしい。
つぎは、鼻を嗅いでみる。……いつもの潮の匂いがしない!色だけでなく、匂いも変わっちまっているのか。おい。訳がわからん。頭が痛くなってきた。ここはどこだ。本当に江戸なのか。
ほんの十年か前に、天狗に連れ去られたとかいう、子どもの話があったっけか。あんな戯言、儂は構うものかと思ってはいたが……本当かもしれねえ。よく考えれば、こんなことが儂の身に起こっても、不思議じゃねえご時世だった。はあ。一体どうすりゃいいのだ。
「……おい、そこの人。ここはどこだい」
恐る恐る、北斎は道ゆく人に尋ねたが、彼は気づく様子まるでなく、足早に去っていった。
「おい!いくな!ちっ。やつら、儂のことが見えてねえとみえる。変な召し物なんざ着やがって。どうも好かねえ」
彼はいくらか歩いて、こう思うようになった。
へえ、なるほど……。これが極楽浄土ってやつかい、いや、儂には地獄が似合うな。ふん、ついに人魂になったか……どうせなら、いまここで画稿でも描きてえな……。何から描く?画材は?くそっ、手ぶらで出てきちまった……。ふふ、ここが地獄だと思ったら、案外怖くなくなってきたな。妙に納得してしまうのが北斎という男の恐ろしさである。彼の意識は、とっくに周りの摩訶不思議より、一刻も早く絵筆を持つことに向いていた。
「描こうつったって、何もねえ。ようし、こうなりゃ自分の血で……」
思い切り爪を噛もうとした、その時である。
視線の先に、明らかに様子がおかしい者がいる。訝しげに、こちらの顔を見ている。眼鏡をかけた、ひょろりとした外見の男だ。
「あ……」
彼は目が合ってしまったことを後悔しているようだ。……しかし、声にならない。唇の振動だけが淡く伝わった。
「おお、お前、儂が見えるのか?」
「見えま、すけど」
小刻みに頭を上下に揺らしている。
「そうかい、そうかい。そりゃ都合がいい。もう、お前さんしか頼りがねえ。筆、貸してくれねえか」
「……筆?」
「そうだよ。描くものだ。描くものが欲しいんだ」
「筆か……。僕の家なら、ありますけど……」
「そうか。じゃあ、連れて行ってくれ」
「そうは言ったって……貴方、一体誰です?こんな昔の格好をして。イベントの類ですか」
「ああもう、うるさい!はやくに描かせろ!それだけでいいんだ」
苛立った表情で、ぐっと北斎が男に詰め寄った。
「やめてください!分かりました、分かりました!行きましょう!」
北斎はにやりと笑って、
「そうだ。それでいい」
と呟いた。
男の自宅は、歩いて十分の安アパートの一室である。奥にはよく整頓された木の机。左には「画集」とシールが貼られた棚。その中には、幾つもの分厚い本が生真面目に並んでいる。太陽の光が窓から不意に差し込む。
「お前さん。こんな綺麗な部屋で、よく息をしていられるね」
「いや、掃除は当然でしょう」
「けっ。すぐに引っ越せば良いものを。まあ、とにかく、描くものは、と……」
どかりと偉そうに座って、辺りを見回すと、少しばかり変わったものが目についた。
「おい。こんなものなんかで、描けるのか」
「ああ。これはGペンって言いまして……。ご存じないですか?」
「こりゃあ。面白えや。しかし硬いな……。お、ここにもあるじゃねえか」
「これは、どこにでもある鉛筆ですよ!」
「……?」
北斎は首を傾げ、こう続けた。
「手に馴染むかどうかはわからねえが、まあ、いいか。おい、次は紙だ、紙」
「はあ。まあなんでもどうぞ」
「おお。こんなもんか。ちと、質が違えが…。お前、よくこんなに持っていたな」
「一応、マンガ家志望なもんで……」
男がこう呟いた時には、北斎は目をかっと見開いて、ひとり、真白の海に漕ぎ出でていた。
地べたにぐぐっとしゃがみ込み、爪の先から、髪の毛の一本まで、一切が北斎の視界を共有しているようだった。そう、彼の体すべてが、眼。ものを見るために生まれた眼なのである。それが偶々、絵描きになった、と言わざるを得ない。特に、北斎の作品を一度でも見たことのある人間は……。
さて、北斎のこの姿を見て、男は「先生」と初めて会った日を思い出した。かれこれ6年も前のことである。
「ぼくの、アシスタントになりたいって?」
「はい。この通り!先生!」
「若いねえ、君。そうか」
汗に塗れた手拭いを、ぐっと締め直し、何も言わずに机に戻った。その背中である。
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