嘉永の虎

有触多聞(ありふれたもん)

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地獄旅行

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「ふう。どれ、手に馴染むかと言われれば微妙だが……」
「これは……」
思わず声を失ってしまうほどだった。この爺さん、一体何をみた。何より、出来上がるのが早い。これは恐らく、形からして両国橋。向こうに、大蛇?それにしては四角いな。ここに描いてあるのは、人間か?妙に直線的だな……。足の形も角張って……。何を描いたのか?
「これは、なんですか」
「いや、これはここへ来た時みた、風景さ」
この爺さんはどうもニヤリと笑う癖があるようだ。この人物、何者だ……。
男は不審がりながらも、絵から目を離せなかった。
「さて。そろそろ閻魔様のところへ連れて行ってくれるか。次は閻魔を描く。手本がありゃあ、儂は伝説の良秀にも負けはしねえ。早く連れてけ、連れてけ」
北斎は両腕をずいと差し出す。男が不思議そうな顔をすると、北斎はこう繰り返した。
「おい。だからよ、早く連れて行け」
「貴方、変な格好して、何を言ってるんです?ここ、日本ですよ」
相変わらずきょとんとした顔をしている。彼は繰り返した。
「本当にわかってないのかな……。ここ、日本」
「そんなわけないだろうよ。……ここがあの世じゃないだって。それはおかしい。そうじゃなけりゃ、儂が見たのはなんだったんだ!」
北斎は自分の描いた絵をばっと指差した。
「これは、両国の……」
そう言い切らないうちに、北斎は大きな声で怒鳴り立てた。
「とっとと儂を榛木馬場あたりまで還しやがれ!」
「うん?お爺さん。今、榛木馬場は跡地に……」
そこまで言って、彼ははっとした。待て、この奇怪な身なり。現世の人間とは思えない。いや、小説じゃあるまい。ありえない。恐る恐る、聞いてみる。
「……お爺さん。今、平成何年?」
北斎は両の目をぐいっと右に上げて、こう答えた。
「へいせい?そんなもん知らねえな。……儂がいるのは江戸の……。忘れちまったよ」
ぎょっとした。江戸、あの江戸か?教科書に出てくるような?動揺が隠せない。
また、先生の言葉を思い出した。

「某大先生が、締切直前まで、あの傑作のアイデアがでなかったって、知ってたかい?」
「へえ。そうなんですか」
「新連載の予告ですら、描けなかったらしい。……やっぱりね、不思議なことって、漫画家なら、一度や二度は当たり前にあると思うんだ」
「はあ」
「岡田くん。きみ、信じてないでしょ」
「先生、譬え話でしょう?そんなわけがありません」
「違うの!きっとあるの、この世の摩訶不思議っていうやつは!」

彼は思わずふっと笑ってしまった。
「おい!何が可笑しい?」
北斎はぎょろりとした目で問いかけた。
「いや。貴方……多分、江戸時代から来たんですよ。きっとそうだ。ははは。そうか!本当にこんなことがあるんだ!」
「おいおい。一人で納得するな。早く説明しやがれ。江戸時代とはなんだ」
彼は目を見開いて、
「つまり、貴方は未来に来たんです。時を超えて、未来の日本に」
「みらい?なんだ、それは」
「貴方の生きている時代から、ずっと先の日本のこと」
「ほう……」
北斎は、あれこれ頭で思案している。その眼は天井よりも遥か先を見ているようだった。
「ふん。なるほどな。ところで、お前さん、名は?」
「岡田です」
「ほん。そうか。仕方ない。帰り方もわかんねえな。しばらく、地獄旅行といこうかね……」
「だから、ここは地獄じゃないですって」
北斎は歯と歯の間から大きく息を吸い込んだ。
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