嘉永の虎

有触多聞(ありふれたもん)

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この男、北斎

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最近、父の様子がおかしい。
前から変な人だったけれど、絵筆を持つ手が止まらない。
「任せた」なんて言ったきり、飯も食わずに仕事場へ。
七十過ぎて、ますますお盛ん。聞こえはいいけど、娘にゃ堪える。
鋭い視線、練達の腕は魚の如く。それが描くは江戸の風。
……申し遅れました、私の名は阿栄(おえい)。
希代の天才、葛飾北斎の娘でござい。

――天保2年(1831)、夏――

ミーンミンミンミンミーン……
「今日も暑いなア……」
ほんの少し前まで、父はぼうっと外を眺めておりました。世間様では、ちょうど一幽斎廣重(歌川広重)の『東都名所』が出たばかり。世間での評判を相当気にしていたのでしょうか。父とは全く異なる作風があそこまでうける。きっと自信を無くしていたのでしょうね。まあ父にとっては珍しいことです。
「面白くないなア……」
筆も進んでいないご様子。「もう歳だから」なんて言ったら、まあカンカン。烈火の如く怒り出して、「そんなに死んでほしいならば、もうここで今死んでやる!」とまで言う始末。……それは何とか止めました。
 大好きなクワイを出しても「いらない」の一辺倒。本当に気の抜けた爺い。そのままぽっくり逝くものかと思っていました。
 ある日、版元の西村屋与八さんが来られた時も、無愛想なまま。
「先生、仕事はどうするんです」
「フン……」
「そうこうしている間に、天下の為一の名が、版元から消えますぜ」
「……」
反応がない父に、西村屋さんは何かを察して、私のいるところへいらっしゃいました。
「栄さん、私としては、こう、何というか、大きいものを、作りたいんですがね……弓張月に負けないような、ね」
何が大きいものを、だ。本当は、父に頭を下げたくないだけなのに。
「私の方からも……」
「お願いしますよ!版元の命がかかってるんです!私はもう失礼しますよ」
急に大きな声を出して「命がかかっている」なんて、人から嫌われる元でございますね。

それからしばらくして、奥の方にいた父が突然口を開きました。
「おうい。出かけてくる。もう、帰ってこねえかもしれねえが」
「ああ、そう」
相変わらず田舎者みたいな服装で、そそくさと出てゆきました。
その時の父は、どこか虚な目をしていたように思います。互いに目を合わせて話したりはしないのですけれども、どこか遠くを見つめていました。
こんな暑い中、いったいどこまで行くのだろう。頭を冷やせる所なんて何処にもないのに……。
私はずっと野良猫の相手をしたり、散らかった紙を少しばかり横に寄せてみたりして、父の帰りを待っておりました。しかし、流石に日が暮れてくると、心配になります。心当たりのある場所へ探しに行こうと思いました。
まずは版元。
「父を探していて」
「いや。こちらには来られていませんねえ」
「はあ……」
次は、知り合いのお宅へ。
「父を……」
「来たらすぐ分かる。来たら、知らせる。こっちは今忙しいんだ」
「失礼しました」
中村座にも顔を出しました。
「父が……」
「へえ。そうなのかい。おい!そこのお前、爺さんがいないんだってよ。来たかい?」
「いやあ。私は何も……」
「そうかい。てまあ、こんなもんよ。すまねえなあ」
「ありがとうござんす」
方々歩き回って、ほとほと疲れ切ってしまいました。もうすぐ夜が訪れようとした、その時です。藤の何某といった男が、父の姿を見たと言うのです。
「ああ、あのご老人、両国橋あたりをふらふら歩いていたよ。まるで魂抜けたみたいだったぜ」
「そこからどこへ行ったとかって、ご存じないですか」
男の目の色ががらりと変わりました。
「……あんた、ここから儂の話を、信じてくれるかい?」
「信じますとも」
「あの爺さん、橋を渡り切ったあたりで、すーっと消えていったんだ。いやあ、びっくりしたねえ」
「ええ……」
私は、口をあんぐり開けて、言葉を失ってしまいました。
「おお?信じてねえな」
その軽い口ぶりを聞いていると、無性に腹が立ってきました。こっちは真剣に行方を探しているっていうのに。
「お前さん、なんだい。何を言い出すかと思えば。冗談言っちゃいけねえよ。そんなこと、平賀源内でも言わねえや」
胸ぐらを掴んで、男を問い詰めました。
「いやいや。本当だよ。俺が、嘘ついてるように見えるかい」
「見えるね」
「そりゃ辛いよ。女。離してくれよお」
どうも、本当のことだそうなので、手を離してやると、男はひいひい言いながら逃げてゆきました。しかし、父のことは全くわかりません。どうしたものか。頬杖をついて橋の方を見つめても、何もありゃしない。結局、橋の上で待ちぼうけになりました。戌の刻まで粘って、その日は諦めました。
それから、かれこれ二、三日は経ちましたかねえ。周りの人も心配して、いよいよ大ごとかと思った頃に、奴さんが帰ってきたのです。バタバタ足音鳴らして、何やら紙切れのようなものを抱えて。
「鉄蔵ぉ!どこに行ってたんだよ!」
鉄蔵は、私の父親のことです。
「後で話す。それより、今は天保何年の何月だ」
「……天保二年の葉月!それより、ちょっとは私に説明したらどうなんだい。心配していたんだよ」
「うるせえ!後と言ったら後だ。ふん……“あれ”からあまり時間は立ってないと見える。“あいつ”の話は本当だったか。こりゃいいぞ」
父はにやにやしながら絵筆をばさっと取り出して、せっせと奥へ行ってしまいました。そうなりゃ、誰も邪魔できません。とは言うものの、帰ってきて早々「うるせえ」とは、ひどすぎやありませんか?
例の紙切れが一枚、落ちていました。……こんな材質は見たことがない。変な光沢があって、そこには本物を嵌め込んだような牡丹の花が描かれています。こりゃあ、相当の腕の立つ奴が描いたなと、感心するほどでした。
ちょうどその時です。浮世絵師で父の弟子、渓斎英泉がやってきました。
「おう、栄。久しぶりに来たが、先生、忙しいのかい」
「ああ。そうなんだよ。すまないねえ」
「ちょっと、あがらしてもらうぜ」
「なにサ。用事もあるまいに」
「暇潰し、と……お前、機嫌悪いのか?」
昔から図々しい男です。
「ほっといてくれよ……英泉、あんたは……今、あまり絵を描いてないだろう」
英泉は、苦笑いをして、
「ハハ、それを言われちゃ困るな。いやなに、お前、俺の画風を知ってるだろ?」
「もちろん、知ってるけれどサ」
「あの類、そろそろ禁じられるかもしれねえ、と思ってな。最近、どうもお上の取り締まりが厳しくなってきたような気がするんだ。それもひとえに老中の……」
「これ以上はおよしよ。はは、お前、今頃反省しているのかい。天下の英泉が女を描かなくなったら、何を描くって言うんだい!」
「なにを!女を描くのはお前も同じだろうが!」
「悪いけど、あんたとは違うね」
「くっ。まあいいサ。俺もそろそろ、真っ当に、ね」
「そろそろとは、馬鹿らしい。“そろ”いも“そろ”って、だろ?」
「ちっ。面白くねえや」
ああ、実に、くだらない。そばにあったキセルをくわえてみても、何にもなりゃしない。
「なあ。栄。お前、そこに置いてあんのは、なんだい?」
「ああ。これ、鉄蔵がね、持ってきたんだ」
「へえ。こりゃ不思議だねえ。油絵の類か……?」
「それがわからないんだよ」
「それにしては、よくできてるよな」
英泉は寝転んで、下から覗き込むように見ていました。
「こりゃ、おそらく和蘭のもんだな。先生、どうやって手に入れたんだろう」
「それも、わからない」
話をしていると、仕事場の方からドタドタ、足音が聞こえてきます。
「おい。おめえたち、どうせろくでもねえ話でもしてるんだろ」
「これは、これは先生。今は、えーと、為一……?」
「はっ。雅号なんて忘れた。英泉、おまえ、いい加減描くもの描けってんだ。為永春水のとこに入り浸ってることぐらい、知ってるからな。ったく、せっかくおめえに号をやったと言うのに」
「俺も名前なんて気にしたことねえし……誰かに似ちまったかな」
「ああン?」
「ハハ……。ごめんなさい」
「それよりサ、鉄蔵、ずっと聞きたかったんだけど、これ、何なんだい」
「うっ。見たのかヨ。栄」
父は口を尖らせながら、茶化したように言いました。
「勝手に落としていったんだろ」
「先生、俺も気になってるんです。差し支えなければ、教えてください」
「差し支えって言えば、ないけどよ……」
「じれったい!おめえ、そういうのが一番嫌いだろ!」
「わあった、わあったよう。儂が、この二日、どこに行ってたか……」
ごくり。唾を飲み込んで、父はこう繰り返しました。
「ちょっと、な。“へいせい”七年の、日本に……」

 一同、呆気に取られて、言葉がなかなか出ませんでした。
「一体、何を言ってるんだい?」
「先生、へいせいって言うのは……?」
「よくしらん、しかしどうも江戸ではなかったぞ」
父は至ってあっけらかんとしています。
「へえ……。は、ははは、冗談およしよ、そんなもの聞いたことない。つまらない夢でも見てたんじゃないかい?」
「はっ。信じてもらわねえで結構だよ。アゴ」
アゴ、とは栄、私のことであります。
「煩いね。爺い」
「しかし、どうも不思議ですね。我々が知らないような」
「そう。その“しゃしん”とやらが証拠さ」
父は仕事場から何枚か持ってきて、ばさりと床に落としました。
「ほほう。へいせいの世界からの、土産ってわけですか」
「詳しいことはわからんが、面白え代物だと思ってよ。持って帰えってきた」
「勝手に人様の……今に罰が当たるよ」
「そっちの世界の奴が、いいって言ったんだ」
「ははは。先生、そっちの世界の奴っていうのは?」
「ハッ。儂らと同じ人間よ。だが……何とも不思議な世界だった」
「ほう。もっと教えてくだせえよ。先生」
「ふふ。知りてえかい……?」
「知りてえですよ。そりゃあ!」
「へっへっへ……。英泉、誰にも言うなよ……」
その時の父は、久しぶりに子供のような顔をしていました。
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