嘉永の虎

有触多聞(ありふれたもん)

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黒い夜 黒い川

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二人は、早々と部屋に戻ってきた。
「儂はな、弟子に教えんが為に、いくらか漫画を描いたことがある。森羅万象、描き切るつもりでやったが……」
「……」
岡田には北斎の言葉が入ってこない。岡田は背中を完全に丸めてしまっている。思い出したくなかった記憶が呼び覚まされたのである。

「先生。どうでしょうか」
「うん。上手くなったねえ。けど……」
「けど……?」
「君の描くようなものって……果たしてこの世にあるものかい?」
「あります。……たぶん」
「この服は?」
「たぶんどこかで見たことが」
「ファンタジー世界が、最後に頼るべきなのは、リアリズムだよ。岡田くん。がんばれ」
「はあ……」

……
「おい!聞いているのか!これと筆だけつかえ」
北斎は投げ捨てるかのように、岡田に定規を渡した。
「!……はい」
言われるがままに、ペンを握る、が、どう描けばよいのだろう。構図は?角度は?色付けは?そうだ、鳥瞰図にしようか。斜めから見えるような……。
北斎は岡田の描く姿を、じっと見つめていた。誰かしら弟子の姿を、想起したのだろうか。彼は多くの弟子がいたことでも知られている。同業者であるらしい岡田に、師としての感情が芽生えたのだろうか。

それからしばらく経った時である。
「できました」
岡田はぐいと右手をあげた。北斎はうとうとして、首をガクリと落としかけたところで目が覚め、
「うお……よし、できたか」
と言いながら、岡田の作品の方へ目を向けた。
「ふむ……お前さん、器用に仕上げたな……。そうだよな、こうだよな……」
何やらぶつぶつと呟いている。岡田は気付かぬうちに、しゃきっと背筋を伸ばしていた。内心には、不思議な疑問が芽生えていた。
この爺さん、かの有名な浮世絵師、葛飾北斎なのではないか?たとえそうではなくとも、相当な絵描きであるのはたしかだ。信じられないのと同時に、畏怖の感情も湧き上がった。彼はなにせ、神様と呼ばれる偉人の一人なのだから。
「ふふふ……。お前さん、隅田川をこう黒くしたのは、どうしてだい?」
突然北斎が岡田に尋ねた。
「黒に塗りたくった理由、ですか?ええと……」
「じっくり考えてみろ」
「汚いのは事実で、それは黒で描くのがいいかなと……」
岡田の返答に対して、北斎の言葉は意外なものだった。
「それは確かに理に適っている。わしがもしあれを描けと言われても、隅田川の色には苦心するだろう。だが、本当にこの色かい?これじゃあ、夜の闇と、違いがないんじゃないか。夜でもあの色は、きっと目にすることはできると思うがな……儂なら、こうする」
おもむろに北斎は鉛筆に手を伸ばし、岡田の描いたインクの上から、撫でるように何本かの線を引き始めた。……これは水紋であろうか。部屋の光とも反射して、うねるような隅田川が、紙の上にうかびあがった。
「なるほど……」
「ふふふ……この“えんぴつ”とやらは、一眼見て使えると思っとった。この世に筆は一本ではないのよ。そう思い込むからいけねえ。色ひとつでも、昔から摺師に頼り切るのはきらいだったんだ」
北斎は顎に手を当てた。
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