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先生と遺書
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岡田はその夜、眠れなかった。それは決して寒さのせいだけでは無い。ふと、彼の中の遠い記憶が呼び覚まされた――じつに、一年と三ヶ月前のことである。
突然、仕事中に先生は倒れた。原因は間違いなく、過労である。偶然に岡田が仕事場にいたから良かったものの、後数分でも連絡が遅れていれば、最悪の状況であった。お見舞いに行ったのは、2日後のことである。
「先生、……?」
「はは、大丈夫さ。それより仕事を……」
急に痩せこけてしまった先生の姿を見て、岡田は言葉が続かなかった。もう少し、僕が気付くのが早ければ、もう少し、先生の仕事を手伝えれば……よかったのに。後悔の念がずきんずきんと、胸を締め付ける。
「岡田くん、ファンレターが来ているみたいだ……。返事を……」
「だめです、先生」
「貸しなさいと、、、言っているだろう!……」
先生の怒号を聞いたのは、これは最初で最後だった。弱々しい指先を引きずりながら、何十通と届くファンレター、応援メッセージにサインを描いた。先生のサインは蝶々、その両羽にイニシャルを添えた、非常に可愛らしいものだった。元気な時と、寸分狂わない絵柄に、岡田は驚いてしまった。長いメッセージには、先生は何と蝶々を二頭も描いていたのだ。まるで番いのように。
「何週も休載してる……これではだめだ」
「何週って……まだ二回しか、休載してませんよ」
「いや……休んではいられない……新作の構想も、山ほど……」
看護師の話によると、夜な夜な起き出しては、ネームを描いていたそうだ。見回りに来た看護師の一人が注意をしたが、まるで聴こえていなかったそうである。それが先生の寿命を縮めたのは、もちろん否定はできないのだが。
岡田は先生の一番の兄弟子であり、後輩たちは殆ど連載を抱えていた。皆、仕事があって忙しいというので、岡田が毎日病院に赴いた。
「せっかく来てくれたんだし、ここで……描いていきなさい」
「ありがとうございます。先生」
「岡田くん、入院したって言ってもね、悪いことばかりじゃ……ないんだ。ぼく、今まで朝日もろくに浴びてこなかった。でもこの201病室をみてよ。……すごい日当たりがいいじゃない。これをネタに新しい話でも描けそうだ」
岡田は一瞬考えて、こう口にした。
「そうです、先生。いっぱい描いてください。何でも」
「そうだよね。描かなくちゃね……。そうだ、ちょっと趣向を変えてみよう」
先生の声色が元気になった。岡田としては、それだけで満足だった。
入院して一ヶ月が経ち、先生は活力を取り戻しつつあった。
「先生、今日も来ました」
「おう、よく来たね。最近は筆の進みも良くてね。医者もびっくりしてるんだ。そろそろ、連載に戻ってもいいか?って聞いたら、まだ大事を取ってくださいだって」
「そうでしたか……ところで先生、趣向を変えてみるって仰ってましたけど、新作ですか?」
「いや……ぼくね、一度自分のことを、マンガに描いてみようって思ってさ。若い頃の自分をモデルに……はは、何を驕り高ぶっているんだろうね……」
「いいじゃないですか!読ませてください」
「まだ完成してないから、だめ」
「……それは楽しみです」
「さて、今日もファンレターを返さなくちゃ。ほら、帰った、帰った」
「お元気そうで、何よりです。僕、これから忙しくなりそうで、ちょっと来る頻度が落ちるかもしれません。今日は、これで」
「ありがとね」
先生はニコニコ笑っていた。
今から考えれば、漫画の神様が先生に、最期の力を与えていたのかもしれない。それ程までに先生の創作意欲は旺盛であり、全盛期とまではいかなくとも、それに追随するほどの精力を見せていた。ある朝、ペンを握りながら眠るようにして亡くなったと、担当の看護師から知らされるまで、岡田は何も意識することなく、生活していたのだ。
葬儀の場で、先生の年老いた両親から、とあるものを預かっていると聞かされた。
「これ、息子が岡田さん宛に……」
中には原稿が入っているようだった。紙のしなり具合から、熱心に描いていたことが窺える。汗もよく乾いていないようだった。それを手で触れた瞬間、抑えていたはずの涙が滝のように溢れ出た。宛名が記された下に、鉛筆で書かれたタイトルらしき文字が見える。
岡田くんへ 『平賀幻想譚』
前書き
マンガの癖に、前書きとは!と思うかもしれませんが、一つ断っておきたいことがあります。この話は全て、実話に基づいた物語であることです。僕のこの話を、誰も信じませんでしたが……
岡田はここまでしか読むことができなかった。後悔と自責の念で、どうしても、手がわなわなと震えて動かない。岡田はついに原稿を棚の奥にしまって文字通り封印してしまったのである。その後長い間、ひとつも手をつけなかった。
ジリリリリ……
騒々しく目覚ましが鳴る。朝日が部屋の埃を黄金の雪のように照らした。北斎はまだ床に横になっている。時たま、耳元をガリガリ掻きむしりながら。
この人は北斎だよな……ううむ、先生の「平賀幻想譚」……“ひらが”……?平賀源内?……この話は、実話である……?誰も信じなかった……?この状況、先生の話と、近しくはないか?
「うう、朝か。なんだか五月蝿いな。もう少し寝させろい」
そんな爺いの戯言は岡田の耳にまるで入っていない。手当たり次第に棚の中を探した。……!この古い茶封筒は!
「あったぞ……『平賀幻想譚』」
勢いよく封筒の中から取り出したが、岡田はふと思った。これほど薄かっただろうか。もっと枚数が嵩んでいたような気がするが……気のせいだったのかもしれない。横から北斎が覗き込む。
「何だあ、これは」
「いや、北斎さん、帰れるかもしれないですよ」
岡田は無意識に「北斎さん」と言った自分に少し驚いた。
「おう。そうか。ところでお前、儂の昔の雅号をいつ知ったんだ?」
「詳しい話はあと!まずこれを読まないと……」
岡田は目を閉じ、よしと決心して、原稿を捲った。変わらぬ前書きである。文章は、こう続いていた。
僕のこの話を、誰も信じませんでしたが、きみにだけは、伝えておこうと思います。そして出来れば、このマンガをきみの手で“完結”させてほしいのです。それが、ぼくの最後のお願いです。
突然、仕事中に先生は倒れた。原因は間違いなく、過労である。偶然に岡田が仕事場にいたから良かったものの、後数分でも連絡が遅れていれば、最悪の状況であった。お見舞いに行ったのは、2日後のことである。
「先生、……?」
「はは、大丈夫さ。それより仕事を……」
急に痩せこけてしまった先生の姿を見て、岡田は言葉が続かなかった。もう少し、僕が気付くのが早ければ、もう少し、先生の仕事を手伝えれば……よかったのに。後悔の念がずきんずきんと、胸を締め付ける。
「岡田くん、ファンレターが来ているみたいだ……。返事を……」
「だめです、先生」
「貸しなさいと、、、言っているだろう!……」
先生の怒号を聞いたのは、これは最初で最後だった。弱々しい指先を引きずりながら、何十通と届くファンレター、応援メッセージにサインを描いた。先生のサインは蝶々、その両羽にイニシャルを添えた、非常に可愛らしいものだった。元気な時と、寸分狂わない絵柄に、岡田は驚いてしまった。長いメッセージには、先生は何と蝶々を二頭も描いていたのだ。まるで番いのように。
「何週も休載してる……これではだめだ」
「何週って……まだ二回しか、休載してませんよ」
「いや……休んではいられない……新作の構想も、山ほど……」
看護師の話によると、夜な夜な起き出しては、ネームを描いていたそうだ。見回りに来た看護師の一人が注意をしたが、まるで聴こえていなかったそうである。それが先生の寿命を縮めたのは、もちろん否定はできないのだが。
岡田は先生の一番の兄弟子であり、後輩たちは殆ど連載を抱えていた。皆、仕事があって忙しいというので、岡田が毎日病院に赴いた。
「せっかく来てくれたんだし、ここで……描いていきなさい」
「ありがとうございます。先生」
「岡田くん、入院したって言ってもね、悪いことばかりじゃ……ないんだ。ぼく、今まで朝日もろくに浴びてこなかった。でもこの201病室をみてよ。……すごい日当たりがいいじゃない。これをネタに新しい話でも描けそうだ」
岡田は一瞬考えて、こう口にした。
「そうです、先生。いっぱい描いてください。何でも」
「そうだよね。描かなくちゃね……。そうだ、ちょっと趣向を変えてみよう」
先生の声色が元気になった。岡田としては、それだけで満足だった。
入院して一ヶ月が経ち、先生は活力を取り戻しつつあった。
「先生、今日も来ました」
「おう、よく来たね。最近は筆の進みも良くてね。医者もびっくりしてるんだ。そろそろ、連載に戻ってもいいか?って聞いたら、まだ大事を取ってくださいだって」
「そうでしたか……ところで先生、趣向を変えてみるって仰ってましたけど、新作ですか?」
「いや……ぼくね、一度自分のことを、マンガに描いてみようって思ってさ。若い頃の自分をモデルに……はは、何を驕り高ぶっているんだろうね……」
「いいじゃないですか!読ませてください」
「まだ完成してないから、だめ」
「……それは楽しみです」
「さて、今日もファンレターを返さなくちゃ。ほら、帰った、帰った」
「お元気そうで、何よりです。僕、これから忙しくなりそうで、ちょっと来る頻度が落ちるかもしれません。今日は、これで」
「ありがとね」
先生はニコニコ笑っていた。
今から考えれば、漫画の神様が先生に、最期の力を与えていたのかもしれない。それ程までに先生の創作意欲は旺盛であり、全盛期とまではいかなくとも、それに追随するほどの精力を見せていた。ある朝、ペンを握りながら眠るようにして亡くなったと、担当の看護師から知らされるまで、岡田は何も意識することなく、生活していたのだ。
葬儀の場で、先生の年老いた両親から、とあるものを預かっていると聞かされた。
「これ、息子が岡田さん宛に……」
中には原稿が入っているようだった。紙のしなり具合から、熱心に描いていたことが窺える。汗もよく乾いていないようだった。それを手で触れた瞬間、抑えていたはずの涙が滝のように溢れ出た。宛名が記された下に、鉛筆で書かれたタイトルらしき文字が見える。
岡田くんへ 『平賀幻想譚』
前書き
マンガの癖に、前書きとは!と思うかもしれませんが、一つ断っておきたいことがあります。この話は全て、実話に基づいた物語であることです。僕のこの話を、誰も信じませんでしたが……
岡田はここまでしか読むことができなかった。後悔と自責の念で、どうしても、手がわなわなと震えて動かない。岡田はついに原稿を棚の奥にしまって文字通り封印してしまったのである。その後長い間、ひとつも手をつけなかった。
ジリリリリ……
騒々しく目覚ましが鳴る。朝日が部屋の埃を黄金の雪のように照らした。北斎はまだ床に横になっている。時たま、耳元をガリガリ掻きむしりながら。
この人は北斎だよな……ううむ、先生の「平賀幻想譚」……“ひらが”……?平賀源内?……この話は、実話である……?誰も信じなかった……?この状況、先生の話と、近しくはないか?
「うう、朝か。なんだか五月蝿いな。もう少し寝させろい」
そんな爺いの戯言は岡田の耳にまるで入っていない。手当たり次第に棚の中を探した。……!この古い茶封筒は!
「あったぞ……『平賀幻想譚』」
勢いよく封筒の中から取り出したが、岡田はふと思った。これほど薄かっただろうか。もっと枚数が嵩んでいたような気がするが……気のせいだったのかもしれない。横から北斎が覗き込む。
「何だあ、これは」
「いや、北斎さん、帰れるかもしれないですよ」
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「おう。そうか。ところでお前、儂の昔の雅号をいつ知ったんだ?」
「詳しい話はあと!まずこれを読まないと……」
岡田は目を閉じ、よしと決心して、原稿を捲った。変わらぬ前書きである。文章は、こう続いていた。
僕のこの話を、誰も信じませんでしたが、きみにだけは、伝えておこうと思います。そして出来れば、このマンガをきみの手で“完結”させてほしいのです。それが、ぼくの最後のお願いです。
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