嘉永の虎

有触多聞(ありふれたもん)

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平賀幻想譚

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――『平賀幻想譚』は、未完だったのである――
「最後のお願い」か……やっぱり、先生、解っていたんじゃないですか……。ゆっくりと次のページを捲った。
 ――舞台は、両国――
思った通りだ。読み進めてみよう。あ、先生そっくりなキャラがいる。
「何だこれは。中々腕の立つやつが描いたな。自力が見えるぞ」
北斎が耳元で大きな声を出した。
「ちょっと黙って!」
「おう、こりゃあ、わりい……」
すごすごと北斎は退いた。
初めて先生の作品を読んだ子供の頃のように、岡田は夢中になって読んだ。
……なるほど、主人公は売れないマンガ家で、一度、絶望のあまり吾妻橋から飛び降り自殺を図る、と……。その時、そこに偶然現れたのは……平賀源内だって!教科書でみた、肖像画にそっくり。へえ、源内の知恵を借りて、描く意欲が湧いてきた、と。ははは、源内はこんなこと言わないでしょ!ほんとかな?「杉田玄白は真面目すぎるやつ」だって?そんなこと言っちゃダメだろう。他にも、先生がマンガを描いてるところを源内が邪魔して、そこから新作のギャグが生まれるところもいい。……先生のマンガ、やっぱり面白いなあ。岡田は思わずため息が出た。

先生の作品は、基本的にギャグマンガである。ナンセンスではあるのだが、優しさに溢れているようで、元気になる。「ぼくのマンガは誰かのビタミン剤にならなきゃいけない」は口癖で、門下にもそう教えていた。下戸で、酒にすぐ酔っ払うと、自分のマンガの登場人物を、まるで友達のことのように喋っていた。
 先生のセンスはギャグだけではない。それは何と言ってもコマ割りに現れる。それは恐らく映画に根付いたものであろう。街の女性をハッとクローズアップで捉えれば、それはまるでグレタ・ガルボの輝きであるし、すっと市場を俯瞰で捉えれば、その世界はベン・ハーの闘技場に匹敵する。それほどに、ダイナミクスの使い分けが天才的であった。

いよいよ最後のページまで読み進めた。なになに……二人の会話で終わりを迎えるようである。「作品が売れてきたから、ぼくは引っ越さなくちゃいけなくなった」「それはおめでたいね」「きみは……江戸に帰らなくていいのかい?」、「ああ。構わないさ」「それじゃあ、江戸に残した人はどうするんだね」「いや、本当にいいのサ……だって……」
マンガはここでぷつりと終わってしまった。

『平賀幻想譚』は、実話であるらしい。ついこの間であったならば、また冗談を、と言って笑っていたかもしれない。岡田は傍で暇そうにしている北斎を見た。先生、僕に「完結させる」自信はありません。けれど、何かできることがあるかもしれない。足掻いてみよう。
岡田の胸に希望の光が灯った。
 ……完成させる鍵は、平賀源内。恐らく、彼もまた江戸から現代日本に来たひとりだろう。もしこのマンガの話の通りであるなら、平賀源内は、“江戸には帰らなかった”ようだ。おかしい、確かに江戸時代に死んだはず。もしや、まだ両国のどこかにいるのか?
岡田は原稿の端を綺麗に合わせて、もとの封筒の中へ戻した。
「北斎さん。江戸に帰りたいですか?」
「そりゃあ、帰れるなら帰りてえけどよ」
「貴方のように、未来に来たと思われる人がいます。その人物の名は、平賀源内。ご存じですか」
「ああ。知っているとも。天下一の変わり者で、評判だった。しかし、儂が若い時に、とっくに死んでいるはずだがね」
「僕もそう思っていたんですが……どうも、この両国にいるみたいなんです。北斎さんと近い状況、きっと力になってくれます」
「そんなことありえないだろうよ!」
「いやいや、貴方がここにいるのも、訳がわからんでしょうが」
「おうおう。そうだった、そうだった」
二人は大口を開けて、笑いに笑った。
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