婚約者が浮気していたことを、婚約破棄の夜会で初めて知った人がいました。私以外の全員が

柴田はつみ

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第二章「半年前の朝」

 話は、半年前に遡る。
 春の朝だった。

 庭園の白い薔薇が、窓から見えていた。まだ朝露が残っていて、光を受けてきらきら輝いていた。鳥の声が聞こえて、一日の始まりを告げていた。
 穏やかな、美しい朝だった。

 マリア・フォン・ハルト伯爵令嬢は、その朝まで。
 ただの、大人しい令嬢だった。

 マリアは窓際の椅子に座って、本を読んでいた。
 静かな朝だった。
 エドワードとの夜会が昨夜あって、今日は何も予定がなかった。

 昨夜も、エドワードはクロエと話していた。
 マリアは少し後ろで、微笑んでいた。
 いつものように。
 穏やかに。静かに。

(また、クロエ様と話していた)
(今夜で、何度目だろう)

 数えるのをやめていた。
 怒りは、あった。
 静かな、冷えた怒りだった。
 でも表に出さなかった。
 出しても、意味がないと思っていたから。

 本を読んでいると、侍女のリサが入ってきた。

「お嬢様、お手紙が届いております」
「誰から」
「……エドワード様からとのことですが」

 マリアは本を置いた。
 手紙を受け取った。

 白い封筒だった。エドワードの家紋が押されていた。
 いつもと変わらない封筒だった。
 でも今朝は、少し重く感じた。

 封を開けた。
 丁寧に、一枚ずつ広げた。
 読み始めた。

 一行目
 二行目
 三行目で、止まった。

(これは)
(私への手紙では、ない)

 エドワードの字だった。
 間違いなく、エドワードの字だった。
 流れるような、しかし力強い字。
 三年間、見続けてきた字だった。

 しかし書かれていたのは、マリアの名前ではなかった。

「クロエへ」

 そう書いてあった。

 マリアは最後まで読んだ。
 静かに
穏やかに
 一言も、読み飛ばさずに。

 読み終えた。
 窓の外の薔薇を見た。
 白い花びらが、朝風にゆらりと揺れた。
 鳥の声が、まだ聞こえていた。

 美しい朝だった。
 変わらない、美しい朝だった。

(なるほど)
(そういうことか)

 怒りが、胸の奥でじわりと広がった。
 熱かった。
 三年間で、初めて感じる熱さだった。

 悲しみも、少しあった。
 窓の外の薔薇を見た。
 白くて、美しい薔薇だった。
 朝露が、花びらの上で光っていた。

(三年間)
(婚約者として隣に立ってきた)
(それが)
(これ‥‥。)

 でも、その二つより先に。
 静かな、冷えた何かが、胸に広がった。
 澄んでいた。
 透明だった。

(では)
(取っておこう)
(この手紙を)

「リサ」
「はい」
「この手紙、誤って届いたようね」
「……はい、申し訳ございません。エドワード様の使用人が、誤ってこちらに」
「いいえ」

 マリアは微笑んだ。
 穏やかに。静かに。
 しかし今朝の微笑みは、いつもと少し違った。
 その奥に、何かが静かに灯っていた。

「謝らなくていいわ」
「でも」
「ちょうどよかったから」

 リサは少し首を傾けた。

「……ちょうど、よかった、とは」
「ええ」

 マリアは手紙を見た。
 エドワードの字で、丁寧に書かれた手紙を。
 クロエへの、言葉が綴られた手紙を。

「取っておくわ」
「……よろしいのですか」
「ええ」
「しかし、それはエドワード様の」
「エドワード様が書いた手紙よ」


「エドワード様の字で、書かれている」
「誰が見ても、分かる」
「エドワード様が書いたものだと」

 リサは黙った。
 窓の外の薔薇が、また揺れた。
 白い花びらが、一枚、ひらりと落ちた。

「いつか、必要になるから」
「いつ、ですか」
「婚約破棄を告げられた日よ」

 リサは固まった。

「……来ると思っていらっしゃいますか」
「ええ」
「なぜ、分かるのですか」
「この手紙が、誤って届いたから」

 リサは少し首を傾けた。

「それが、なぜ」
「誤って届くほど、あわてているということよ」

 マリアは静かに続けた。

「あわてているということは、動き始めているということ」
「動き始めている、とは」
「クロエ様を、正式に選ぼうとしているということ」
「……」
「そしてそれは」

 

「私に婚約破棄を告げる日が、近いということ」

 リサは言葉を失った。
 窓の外の薔薇が、朝風に揺れていた。
 白い花びらが、また一枚、落ちた。
 しばらく、部屋の中が静かだった。

「……何通、集めるおつもりですか」

 リサが、おそるおそる聞いた。

「一通よ」
「一通だけ、ですか」
「ええ」
「……足りますか」
「エドワード様の字で書かれた、クロエ様への手紙よ」
「はい」
「誰が見ても分かる」
「エドワード様が書いたものだと」
「……はい」
「それだけで」


「十分よ」

 リサは少し黙った。
 それから、静かに言った。

「……お嬢様は、怒らないのですか」
「怒っているわ」
「……え」
「怒っている」

 マリアは手紙を引き出しにしまった。
 丁寧に。完璧に。

「ただ」
「‥」
「今は、まだ使わない」
「なぜですか」

 マリアは引き出しを閉じた。
 窓の外の薔薇を見た。
 朝露が、まだ残っていた。

(婚約破棄の日まで)
(取っておく)

「その日が来たとき」
「はい」
「一番、効果的に使えるから」

 リサは少し間を置いた。
 窓の外を見た。
 それから、マリアを見た。

「……お嬢様」
「なに?」
「傷ついていませんか」

 マリアは少し驚いた。
 窓の外の薔薇を見た。
 春の光が、今日も白い花びらを照らしていた。

(傷ついていないと言えば嘘になる)
(三年間、婚約者として隣に立ってきた)
(それが)
(これか、と思った)
(でも)

「大丈夫よ」
「本当に、ですか」
「ええ」


「やることが、できたから」

 リサは少し間を置いた。
 春の風が、窓から流れ込んできた。
 薔薇の香りが、漂った。
 甘くて、少し切ない香りだった。

 それから、リサが静かに言った。

「……お嬢様」
「なに?」
「そばにいます」
「え?」
「その日が来るまで」

 リサはまっすぐ、マリアを見た。

「ずっと、そばにいます」

 マリアは少し驚いた。
 それから――本物の笑顔で、微笑んだ。

「……難儀な侍女ね」
「はい、存じております」
「でも」
「はい」
「ありがとう」

 リサが、ぐっと目を潤ませた。
 泣くまいとしているのが、分かった。

 その日の夕方、マリアは引き出しを開けた。
 一通の手紙が、そこにあった。
 エドワードの字で書かれた、クロエへの手紙が。
 蝋燭の光が、白い封筒を静かに照らしていた。

(一通だけ)
(でも)
(十分だ)

 引き出しを閉じた。
 窓の外に、春の夕暮れが広がっていた。
 庭園の薔薇が、橙色の光に照らされていた。
 朝露は、とうに消えていた。
 でも薔薇は、まだ咲いていた。
 白く、美しく。

(婚約破棄の日まで)
(待つ)
(大人しいだけで)
(無能ではないことを)
(その日、証明する)

 春の夕暮れが、静かに深くなっていった。
 薔薇の香りが、窓の隙間から流れ込んできた。
 甘くて、少し切ない香りだった。


偶然の一通が、全ての始まりだった。
 そして半年後の秋の夜。
 その一通が、使われた。
 広間で。
 社交界の全員の前で。
 穏やかに。静かに。
 完璧に。

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