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第六章「エドワードの朝」
三日後だった。
エドワードのもとに、父が来た。
ヴィルヘルム侯爵。
エドワード家の当主であり、幼い頃から一度として甘さを見せたことのない男だった。
白髪の混じった髪をきっちりと撫でつけ、深く刻まれた皺の奥にある目は、今日も少しの揺らぎもない。
年齢を重ねても体格は衰えず、向かい合って座るだけで、部屋の空気そのものが引き締まるような威圧感があった。
応接室には、秋の朝の光が細く差し込んでいた。
けれどその光はやわらかくはない。
冷えた空気の中で白く薄まり、部屋の中のものをただ静かに照らしているだけだった。暖炉には火が入っているのに、なぜか寒かった。
「エドワード」
「はい」
「夜会の件だ」
「……はい」
「説明しなさい」
短い言葉だった。
言い逃れを許さない声だった。
エドワードはすぐには答えられなかった。
視線が、机の上に吸い寄せられる。
そこには、あの封筒がまだ置かれていた。
マリアが夜会で差し出した、あの薄い封筒。
三日も経っているのに片づけられず、ずっとそこにあった。まるで、自分の愚かさを毎朝見せつけるために置いているみたいだった。
「クロエ・フォン・ベルフェルトとは」
「……」
「いつからだ」
「半年前から、です」
「マリアとの婚約中に」
「……はい」
父は黙った。
その沈黙が重かった。叱責の言葉を浴びせられるよりも、ずっと堪えた。
窓の外で風が鳴った。
庭木の枝がこすれ合う、乾いた音だった。
秋はもう深く、朝の空気は張りつめている。その冷たさが、そのままこの部屋にも満ちている気がした。
「エドワード」
「はい」
「マリア・フォン・ハルトは」
「はい」
「どんな令嬢だった」
予想していなかった問いに、エドワードは息を止めた。
どんな令嬢だったのか。
そんなこと、今さら聞かれるまで考えたこともなかった。
いや、考えたつもりでいたのだ。だがそれは、あまりにも浅かった。
大人しい令嬢だった。
怒らない。反論しない。空気を乱さない。
何を言っても、困ったように微笑んで受け流す。
都合がいい婚約者だと、そう思っていた。
――思っていた。
けれど今、机の上にある封筒が、その考えがどれほど傲慢だったかを突きつけてくる。
「……私が思っていたより」
「うむ」
「ずっと、多くのことを見ていた令嬢でした」
声に出してから、その言葉が自分の胸に沈んだ。
見ていたのだ。ずっと。半年ものあいだ、自分とクロエのことを知りながら、何も言わずに。
父はしばらく黙ってから言った。
「半年間、証拠を持っていたそうだな」
「……はい」
「婚約破棄を告げられるまで、黙っていた」
「……はい」
「なぜ、そこまで待ったと思う」
エドワードは唇を結んだ。
分かっている。
あの夜会でこそ、もっとも効果的だったからだ。
婚約破棄を宣言し、クロエを隣に立たせ、マリアを切り捨てた――
その瞬間に突きつけるのが、一番痛手になると彼女は分かっていた。
それでも、ただそれだけではない気がした。
あのときのマリアの顔が脳裏に浮かぶ。
穏やかで、静かで、崩れない微笑み。
けれどその奥に、長い時間をかけて固めた覚悟のようなものがあった。
「……私を、待っていたのだと思います」
「待っていた?」
「はい。私が自分から、その日を招くのを」
父の目が、わずかに細められた。
「賢い令嬢だ」
「……はい」
「そして」
そこで言葉が切れる。
秋の朝の冷気が、いっそう濃くなった気がした。
「お前は、愚かだった」
まっすぐに落とされた言葉に、エドワードは何も返せなかった。
愚かだった。
その通りだった。
三年間。
隣には、あれほど静かで、賢くて、よく見ている令嬢がいたのに。
自分はそれを、都合がいいの一言で片づけていた。
机の上の封筒が、薄い朝の光を受けている。
その中に入っていたのは一通きり。クロエへ宛てた、自分の手紙。たったそれだけで、三年間築いたはずのものは崩れた。
――いや。
崩したのは、その手紙ではない。自分だ。
「エドワード」
「はい」
「クロエ・フォン・ベルフェルトとの件は、今後一切関わるな」
「……」
「先方の父親から、すでに話が来ている」
「どのような話ですか」
「娘は何も知らなかった、と」
「……」
「信じるかどうかは別だ」
ヴィルヘルム侯爵は立ち上がった。
椅子が低く軋み、その音だけがやけに大きく聞こえた。
「お前が招いたことだ」
「お前が収めなさい」
それだけ言って、父は応接室を出ていった。
重い足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。扉が閉まると、部屋にはまた冷たい静けさだけが残った。
エドワードはひとり、動けずに座っていた。
朝の光は少しずつ位置を変えていく。
けれど部屋の寒さは変わらない。
机の上の封筒を見つめながら、エドワードはゆっくりと思った。
たった一通で、全部が変わったのではない。
半年のあいだ、マリアはずっとそこにいて、見ていて、待っていた。
変わるだけの理由を積み重ねていたのは、自分の方だ。
自分が気づかなかっただけで、終わりはずっと前から近づいていた。
その頃、クロエのもとにも変化が訪れていた。
夜会の招待状が、ぱたりと届かなくなったのだ。
昨日までなら、朝になれば使用人が数通は運んできていた。
茶会、観劇、昼食会、小さな夜の集まり――社交界の華として扱われていた彼女のもとには、いつも何かしらの誘いがあった。
それが今朝は、一通もない。
クロエは自室の窓辺に立ち、庭を見下ろしていた。
秋の庭園はひっそりとしている。花は減り、芝の色も少しくすみ、朝露を含んだ空気だけが冷たく澄んでいた。
華やかさのない景色だった。
背後で、侍女のマルタがおそるおそる声をかける。
「クロエ様、本日のお出かけのご予定は……」
「ないわ」
「どこかにお出になられますか」
「……行けないわ」
「なぜですか」
クロエはすぐには答えなかった。
窓ガラスに映る自分の顔が、思ったより疲れて見えた。
なぜ。
それを知りたいのは、クロエ自身だった。
あの夜会で、エドワードは自分を見なかった。
ついさっきまで隣に立っていたのに、マリアが去った途端、その背を追った。
振り返りもしなかった。自分の不安にも、恐れにも、立場にも。
そのとき初めて、胸の奥に冷たいものが落ちたのだ。
もしかしたら。
都合がいいのは、自分の方だったのではないかと。
「……マルタ」
「はい」
「マリア様は、今頃何をされているかしら」
「……存じません」
「庭園を歩いていらっしゃるかしら」
「……クロエ様」
「なに?」
「昨日、レオン侯爵がフォン・ハルト家の庭園へ入られるのを見た方がいるそうです」
クロエはぴくりと指を止めた。
「……レオン侯爵が?」
「はい」
「マリア様の庭園に?」
「はい」
クロエはまた窓の外を見た。
同じ秋の庭なのに、自分のいる場所と、マリアのいる場所とでは、まるで意味が違って感じられた。
マリアはもう前を向いている。
自分はまだ、あの夜会の場所から一歩も動けていない。
その差が、ひどく苦かった。
その日の午後、マリアのもとに一通の手紙が届いた。
クロエからだった。
封を切り、便箋を開く。
短い文面だったが、ためらいながら何度も書き直したような筆跡だった。
――マリア様。
先日の夜会のことを、ずっと考えていました。
一度だけ、お話しさせていただけませんか。
クロエ・フォン・ベルフェルト
読み終えると、隣に立っていたリサが息をつめた。
「お嬢様、どうなさいますか」
マリアはすぐには答えなかった。
窓の外へ目を向ける。
昨夜、レオンと歩いた庭園。
花を落とした薔薇の枝。
その先に、たしかに見つけた小さな芽。
あの景色を思い出すと、胸の奥が不思議と落ち着いた。
「会うわ」
「……よろしいのですか」
「ええ」
「なぜですか」
マリアは便箋をたたみながら、静かに言った。
「クロエ様には、悪意がなかったから」
「ですが……」
「エドワード様に利用されていたのかもしれないでしょう」
「……」
「それは」
少しだけ言葉を探してから、続ける。
「私と、少し似ているもの」
リサが目を見開いた。
その反応に、マリアはかすかに苦く笑う。
似ている。
そう認めるのは少しだけ悔しい。
けれど事実だった。
誰かの言葉を信じ、相手の都合のいい場所に立たされていた
――その点では、自分もクロエも同じだった。
「お嬢様は、お優しいです」
「優しくないわ」
「でも……」
「ただ、同じ場所にいた人間だから」
窓の外の薔薇の枝を見つめながら、マリアはそう言った。
「話を聞いてあげてもいいと思っただけよ」
翌日、クロエがやって来た。
応接室に通され、向かい合って座る。
クロエは前の夜会で見たときより、ずっと小さく見えた。
豪奢な衣装も宝石もないせいだけではない。
勝ち誇ったような華やかさが消え、ただ年若い一人の令嬢の顔になっていた。
「マリア様」
「はい」
「お時間をいただいて、ありがとうございます」
「ええ」
「……謝りたくて参りました」
クロエは膝の上で指を強く握りしめていた。
細い指先が、うっすらと白くなっている。
「マリア様に、申し訳ないことをしました」
「……」
「婚約者のいらっしゃる方だと知っていたのに」
「ええ」
クロエはゆっくり顔を上げた。
目元が少し赤い。
昨夜、泣いたのだろうと分かった。
「でも、エドワード様が……」
「はい」
「マリア様とは形だけの婚約なのだと、おっしゃっていたから」
「……」
「それを、信じてしまいました」
形だけの婚約。
その言葉が、マリアの胸に小さく刺さった。
三年間、自分はたしかに婚約者だった。けれどエドワードにとっては、その程度の重みしかなかったのだ。
痛みはあった。
だが、それはもう以前のように胸をかき乱す痛みではない。静かに、冷たく、事実として沈む痛みだった。
「クロエ様」
「はい」
「一つだけ、お聞きしてもよろしいですか」
「はい」
「エドワード様のことを、お好きでしたか」
クロエは息を呑んだ。
それから小さく目を伏せる。
「……好きだと思っていました」
「思っていた、のですね」
「ええ。今は……分かりません」
その答えは、どこか正直で、少し痛々しかった。
「あの夜会で」
「はい」
「エドワード様は、マリア様の後を追いかけました」
「……そうですね」
「私のことは、一度も見ませんでした」
クロエはそこで唇を噛んだ。
自分で口にして、あらためて傷ついたのだろう。
「あの瞬間、少し分かった気がしたんです」
「何を、ですか」
「エドワード様にとって、私も……都合のいい存在だったのかもしれない、と」
マリアは一瞬だけ黙った。
都合がいい。
その言葉は、自分にもあまりに馴染み深い。
胸の奥に苦いものが広がる。
けれどそれと同時に、妙な納得もあった。
「クロエ様」
「はい」
「エドワード様は、たぶん誰にとっても都合がよかったのだと思います」
「……」
「私にとっても。クロエ様にとっても」
「ただ、気づいた日が違っただけで」
クロエの瞳に、じわりと涙が浮かんだ。
「……マリア様は、お怒りにならないのですか」
「怒っていないわけではありません」
「でも」
「はい」
マリアは窓の外へ目を向けた。
秋の光の中、薔薇の枝が静かに立っている。
「怒ることより、前を向くことの方が、今の私には大事だから」
その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
怒りはまだ残っている。傷も消えてはいない。けれど、そればかり抱えていては次へ進めない。ようやくそれが分かるところまで来たのだ。
クロエはしばらく黙っていた。
そして、かすれた声で尋ねた。
「……私も、前を向けるでしょうか」
マリアは少し考えた。
窓の外の薔薇の枝を見つめる。
花はない。
華やかさもない。
けれど、そこにはもう次の季節の支度がある。
「ええ」
「どうして、そう思えるのですか」
「来春の芽があるから」
「来春の芽……?」
マリアは微笑んだ。
穏やかに。静かに。けれどその笑みは、今までの作りものではない。胸の底から自然に浮かんだものだった。
「今はまだ、枝だけに見えるかもしれません」
「……」
「でも、春になれば咲きます」
「必ず?」
「ええ。時間はかかっても」
「……」
「それだけで、十分だと思うのです」
クロエはゆっくりと窓の外を見た。
秋の庭に立つ薔薇の枝は、ひどく静かだった。
けれど、その静けさの中に何かが潜んでいるようにも見えたのだろう。
「……そうですね」
ぽつりと、クロエは言った。
「来春、咲きますね」
その声は、夜会のときよりずっと小さく、でもずっと本当らしかった。
クロエが帰ったあと、リサが部屋に入ってきた。
「お嬢様、いかがでしたか」
「話せたわ」
「……クロエ様は、どのような方でしたか」
マリアは少し考えた。
「普通の令嬢だったわ」
「普通の、ですか」
「ええ。華やかで、少し無邪気で」
「……」
「そして、エドワード様に利用されていた令嬢だった」
リサは何も言わなかった。
部屋の中に、しばらく沈黙が落ちる。
その静けさは重くはなかった。
言葉にしなくても分かることが、少しずつ増えてきた気がした。
「お嬢様」
「なに?」
「やはり、お優しいです」
「優しくないわ」
「ですが……」
「ただ」
マリアは窓の外を見た。
秋の庭園が、午後の光の中で静かに広がっている。
「同じ場所にいた人間だから」
少し間を置いて、続けた。
「それだけよ」
けれどそのそれだけが、前の自分にはなかったものだと、マリアは分かっていた。
痛みを知ったからこそ、他人の痛みを想像できる。
そう思うと、過ごした半年にも無意味ではなかったのかもしれないと、ほんの少しだけ思えた。
その夜、マリアはレオンへの手紙を書いた。
机の上に便箋を置き、ペンを取る。
窓の外では月が昇りはじめていた。
白い光が薄いカーテンを透かし、机の端を淡く照らしている。
夜は静かで、紙にペン先が触れる音さえ、いつもより大きく聞こえた。
書いたのは、ほんの短い文だった。
――今日、クロエ様と話しました。話せてよかったです。明日も、庭園に出てもよろしいですか。
書き終えて、マリアは手を止めた。
自分で書いた文字を、しばらく見つめる。
自分から誰かに手紙を書きたいと思ったことが、あっただろうか。
三年間、一度でも。
思い返しても、なかった。
必要だから書くことはあった。礼儀として返すこともあった。
けれど、会いたいから。話したいから。明日も同じ場所にいたいから
――そんな気持ちでペンを取ったことは、一度もなかった。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
それは激しい喜びではなく、小さな灯りのようなものだった。
でも、その小ささがかえって本物に思えた。
これで十分だ、とマリアは思った。
今はまだ大きな幸せなんて分からなくてもいい。
自分から書きたいと思えた。それだけで、昨日までとは違う。
封をして、リサを呼ぶ。
「リサ」
「はい」
「レオン様に届けてくれる?」
「かしこまりました」
「……急がなくていいわ」
「はい」
「でも」
「はい」
「今夜中に」
リサが小さく笑った。
「かしこまりました、お嬢様」
扉が閉まったあと、マリアは窓辺に立った。
秋の夜長。
月は高く、庭園の薔薇の枝を銀色に照らしていた。
昼のやわらかな光の下で見るのとは違い、夜の枝は少しだけ凛として見える。
花はない。けれど、そこにはたしかに来春の芽がある。
来春、咲く
本物の場所で
本物の人と、一緒に。
そう思ったとき、胸の奥が静かに満たされた。
誰かに与えられる場所ではなく、自分の足で向かいたいと思える場所が、ようやく見えた気がした。
静かな令嬢が、初めて自分から手紙を書いた夜だった。
エドワードのもとに、父が来た。
ヴィルヘルム侯爵。
エドワード家の当主であり、幼い頃から一度として甘さを見せたことのない男だった。
白髪の混じった髪をきっちりと撫でつけ、深く刻まれた皺の奥にある目は、今日も少しの揺らぎもない。
年齢を重ねても体格は衰えず、向かい合って座るだけで、部屋の空気そのものが引き締まるような威圧感があった。
応接室には、秋の朝の光が細く差し込んでいた。
けれどその光はやわらかくはない。
冷えた空気の中で白く薄まり、部屋の中のものをただ静かに照らしているだけだった。暖炉には火が入っているのに、なぜか寒かった。
「エドワード」
「はい」
「夜会の件だ」
「……はい」
「説明しなさい」
短い言葉だった。
言い逃れを許さない声だった。
エドワードはすぐには答えられなかった。
視線が、机の上に吸い寄せられる。
そこには、あの封筒がまだ置かれていた。
マリアが夜会で差し出した、あの薄い封筒。
三日も経っているのに片づけられず、ずっとそこにあった。まるで、自分の愚かさを毎朝見せつけるために置いているみたいだった。
「クロエ・フォン・ベルフェルトとは」
「……」
「いつからだ」
「半年前から、です」
「マリアとの婚約中に」
「……はい」
父は黙った。
その沈黙が重かった。叱責の言葉を浴びせられるよりも、ずっと堪えた。
窓の外で風が鳴った。
庭木の枝がこすれ合う、乾いた音だった。
秋はもう深く、朝の空気は張りつめている。その冷たさが、そのままこの部屋にも満ちている気がした。
「エドワード」
「はい」
「マリア・フォン・ハルトは」
「はい」
「どんな令嬢だった」
予想していなかった問いに、エドワードは息を止めた。
どんな令嬢だったのか。
そんなこと、今さら聞かれるまで考えたこともなかった。
いや、考えたつもりでいたのだ。だがそれは、あまりにも浅かった。
大人しい令嬢だった。
怒らない。反論しない。空気を乱さない。
何を言っても、困ったように微笑んで受け流す。
都合がいい婚約者だと、そう思っていた。
――思っていた。
けれど今、机の上にある封筒が、その考えがどれほど傲慢だったかを突きつけてくる。
「……私が思っていたより」
「うむ」
「ずっと、多くのことを見ていた令嬢でした」
声に出してから、その言葉が自分の胸に沈んだ。
見ていたのだ。ずっと。半年ものあいだ、自分とクロエのことを知りながら、何も言わずに。
父はしばらく黙ってから言った。
「半年間、証拠を持っていたそうだな」
「……はい」
「婚約破棄を告げられるまで、黙っていた」
「……はい」
「なぜ、そこまで待ったと思う」
エドワードは唇を結んだ。
分かっている。
あの夜会でこそ、もっとも効果的だったからだ。
婚約破棄を宣言し、クロエを隣に立たせ、マリアを切り捨てた――
その瞬間に突きつけるのが、一番痛手になると彼女は分かっていた。
それでも、ただそれだけではない気がした。
あのときのマリアの顔が脳裏に浮かぶ。
穏やかで、静かで、崩れない微笑み。
けれどその奥に、長い時間をかけて固めた覚悟のようなものがあった。
「……私を、待っていたのだと思います」
「待っていた?」
「はい。私が自分から、その日を招くのを」
父の目が、わずかに細められた。
「賢い令嬢だ」
「……はい」
「そして」
そこで言葉が切れる。
秋の朝の冷気が、いっそう濃くなった気がした。
「お前は、愚かだった」
まっすぐに落とされた言葉に、エドワードは何も返せなかった。
愚かだった。
その通りだった。
三年間。
隣には、あれほど静かで、賢くて、よく見ている令嬢がいたのに。
自分はそれを、都合がいいの一言で片づけていた。
机の上の封筒が、薄い朝の光を受けている。
その中に入っていたのは一通きり。クロエへ宛てた、自分の手紙。たったそれだけで、三年間築いたはずのものは崩れた。
――いや。
崩したのは、その手紙ではない。自分だ。
「エドワード」
「はい」
「クロエ・フォン・ベルフェルトとの件は、今後一切関わるな」
「……」
「先方の父親から、すでに話が来ている」
「どのような話ですか」
「娘は何も知らなかった、と」
「……」
「信じるかどうかは別だ」
ヴィルヘルム侯爵は立ち上がった。
椅子が低く軋み、その音だけがやけに大きく聞こえた。
「お前が招いたことだ」
「お前が収めなさい」
それだけ言って、父は応接室を出ていった。
重い足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。扉が閉まると、部屋にはまた冷たい静けさだけが残った。
エドワードはひとり、動けずに座っていた。
朝の光は少しずつ位置を変えていく。
けれど部屋の寒さは変わらない。
机の上の封筒を見つめながら、エドワードはゆっくりと思った。
たった一通で、全部が変わったのではない。
半年のあいだ、マリアはずっとそこにいて、見ていて、待っていた。
変わるだけの理由を積み重ねていたのは、自分の方だ。
自分が気づかなかっただけで、終わりはずっと前から近づいていた。
その頃、クロエのもとにも変化が訪れていた。
夜会の招待状が、ぱたりと届かなくなったのだ。
昨日までなら、朝になれば使用人が数通は運んできていた。
茶会、観劇、昼食会、小さな夜の集まり――社交界の華として扱われていた彼女のもとには、いつも何かしらの誘いがあった。
それが今朝は、一通もない。
クロエは自室の窓辺に立ち、庭を見下ろしていた。
秋の庭園はひっそりとしている。花は減り、芝の色も少しくすみ、朝露を含んだ空気だけが冷たく澄んでいた。
華やかさのない景色だった。
背後で、侍女のマルタがおそるおそる声をかける。
「クロエ様、本日のお出かけのご予定は……」
「ないわ」
「どこかにお出になられますか」
「……行けないわ」
「なぜですか」
クロエはすぐには答えなかった。
窓ガラスに映る自分の顔が、思ったより疲れて見えた。
なぜ。
それを知りたいのは、クロエ自身だった。
あの夜会で、エドワードは自分を見なかった。
ついさっきまで隣に立っていたのに、マリアが去った途端、その背を追った。
振り返りもしなかった。自分の不安にも、恐れにも、立場にも。
そのとき初めて、胸の奥に冷たいものが落ちたのだ。
もしかしたら。
都合がいいのは、自分の方だったのではないかと。
「……マルタ」
「はい」
「マリア様は、今頃何をされているかしら」
「……存じません」
「庭園を歩いていらっしゃるかしら」
「……クロエ様」
「なに?」
「昨日、レオン侯爵がフォン・ハルト家の庭園へ入られるのを見た方がいるそうです」
クロエはぴくりと指を止めた。
「……レオン侯爵が?」
「はい」
「マリア様の庭園に?」
「はい」
クロエはまた窓の外を見た。
同じ秋の庭なのに、自分のいる場所と、マリアのいる場所とでは、まるで意味が違って感じられた。
マリアはもう前を向いている。
自分はまだ、あの夜会の場所から一歩も動けていない。
その差が、ひどく苦かった。
その日の午後、マリアのもとに一通の手紙が届いた。
クロエからだった。
封を切り、便箋を開く。
短い文面だったが、ためらいながら何度も書き直したような筆跡だった。
――マリア様。
先日の夜会のことを、ずっと考えていました。
一度だけ、お話しさせていただけませんか。
クロエ・フォン・ベルフェルト
読み終えると、隣に立っていたリサが息をつめた。
「お嬢様、どうなさいますか」
マリアはすぐには答えなかった。
窓の外へ目を向ける。
昨夜、レオンと歩いた庭園。
花を落とした薔薇の枝。
その先に、たしかに見つけた小さな芽。
あの景色を思い出すと、胸の奥が不思議と落ち着いた。
「会うわ」
「……よろしいのですか」
「ええ」
「なぜですか」
マリアは便箋をたたみながら、静かに言った。
「クロエ様には、悪意がなかったから」
「ですが……」
「エドワード様に利用されていたのかもしれないでしょう」
「……」
「それは」
少しだけ言葉を探してから、続ける。
「私と、少し似ているもの」
リサが目を見開いた。
その反応に、マリアはかすかに苦く笑う。
似ている。
そう認めるのは少しだけ悔しい。
けれど事実だった。
誰かの言葉を信じ、相手の都合のいい場所に立たされていた
――その点では、自分もクロエも同じだった。
「お嬢様は、お優しいです」
「優しくないわ」
「でも……」
「ただ、同じ場所にいた人間だから」
窓の外の薔薇の枝を見つめながら、マリアはそう言った。
「話を聞いてあげてもいいと思っただけよ」
翌日、クロエがやって来た。
応接室に通され、向かい合って座る。
クロエは前の夜会で見たときより、ずっと小さく見えた。
豪奢な衣装も宝石もないせいだけではない。
勝ち誇ったような華やかさが消え、ただ年若い一人の令嬢の顔になっていた。
「マリア様」
「はい」
「お時間をいただいて、ありがとうございます」
「ええ」
「……謝りたくて参りました」
クロエは膝の上で指を強く握りしめていた。
細い指先が、うっすらと白くなっている。
「マリア様に、申し訳ないことをしました」
「……」
「婚約者のいらっしゃる方だと知っていたのに」
「ええ」
クロエはゆっくり顔を上げた。
目元が少し赤い。
昨夜、泣いたのだろうと分かった。
「でも、エドワード様が……」
「はい」
「マリア様とは形だけの婚約なのだと、おっしゃっていたから」
「……」
「それを、信じてしまいました」
形だけの婚約。
その言葉が、マリアの胸に小さく刺さった。
三年間、自分はたしかに婚約者だった。けれどエドワードにとっては、その程度の重みしかなかったのだ。
痛みはあった。
だが、それはもう以前のように胸をかき乱す痛みではない。静かに、冷たく、事実として沈む痛みだった。
「クロエ様」
「はい」
「一つだけ、お聞きしてもよろしいですか」
「はい」
「エドワード様のことを、お好きでしたか」
クロエは息を呑んだ。
それから小さく目を伏せる。
「……好きだと思っていました」
「思っていた、のですね」
「ええ。今は……分かりません」
その答えは、どこか正直で、少し痛々しかった。
「あの夜会で」
「はい」
「エドワード様は、マリア様の後を追いかけました」
「……そうですね」
「私のことは、一度も見ませんでした」
クロエはそこで唇を噛んだ。
自分で口にして、あらためて傷ついたのだろう。
「あの瞬間、少し分かった気がしたんです」
「何を、ですか」
「エドワード様にとって、私も……都合のいい存在だったのかもしれない、と」
マリアは一瞬だけ黙った。
都合がいい。
その言葉は、自分にもあまりに馴染み深い。
胸の奥に苦いものが広がる。
けれどそれと同時に、妙な納得もあった。
「クロエ様」
「はい」
「エドワード様は、たぶん誰にとっても都合がよかったのだと思います」
「……」
「私にとっても。クロエ様にとっても」
「ただ、気づいた日が違っただけで」
クロエの瞳に、じわりと涙が浮かんだ。
「……マリア様は、お怒りにならないのですか」
「怒っていないわけではありません」
「でも」
「はい」
マリアは窓の外へ目を向けた。
秋の光の中、薔薇の枝が静かに立っている。
「怒ることより、前を向くことの方が、今の私には大事だから」
その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
怒りはまだ残っている。傷も消えてはいない。けれど、そればかり抱えていては次へ進めない。ようやくそれが分かるところまで来たのだ。
クロエはしばらく黙っていた。
そして、かすれた声で尋ねた。
「……私も、前を向けるでしょうか」
マリアは少し考えた。
窓の外の薔薇の枝を見つめる。
花はない。
華やかさもない。
けれど、そこにはもう次の季節の支度がある。
「ええ」
「どうして、そう思えるのですか」
「来春の芽があるから」
「来春の芽……?」
マリアは微笑んだ。
穏やかに。静かに。けれどその笑みは、今までの作りものではない。胸の底から自然に浮かんだものだった。
「今はまだ、枝だけに見えるかもしれません」
「……」
「でも、春になれば咲きます」
「必ず?」
「ええ。時間はかかっても」
「……」
「それだけで、十分だと思うのです」
クロエはゆっくりと窓の外を見た。
秋の庭に立つ薔薇の枝は、ひどく静かだった。
けれど、その静けさの中に何かが潜んでいるようにも見えたのだろう。
「……そうですね」
ぽつりと、クロエは言った。
「来春、咲きますね」
その声は、夜会のときよりずっと小さく、でもずっと本当らしかった。
クロエが帰ったあと、リサが部屋に入ってきた。
「お嬢様、いかがでしたか」
「話せたわ」
「……クロエ様は、どのような方でしたか」
マリアは少し考えた。
「普通の令嬢だったわ」
「普通の、ですか」
「ええ。華やかで、少し無邪気で」
「……」
「そして、エドワード様に利用されていた令嬢だった」
リサは何も言わなかった。
部屋の中に、しばらく沈黙が落ちる。
その静けさは重くはなかった。
言葉にしなくても分かることが、少しずつ増えてきた気がした。
「お嬢様」
「なに?」
「やはり、お優しいです」
「優しくないわ」
「ですが……」
「ただ」
マリアは窓の外を見た。
秋の庭園が、午後の光の中で静かに広がっている。
「同じ場所にいた人間だから」
少し間を置いて、続けた。
「それだけよ」
けれどそのそれだけが、前の自分にはなかったものだと、マリアは分かっていた。
痛みを知ったからこそ、他人の痛みを想像できる。
そう思うと、過ごした半年にも無意味ではなかったのかもしれないと、ほんの少しだけ思えた。
その夜、マリアはレオンへの手紙を書いた。
机の上に便箋を置き、ペンを取る。
窓の外では月が昇りはじめていた。
白い光が薄いカーテンを透かし、机の端を淡く照らしている。
夜は静かで、紙にペン先が触れる音さえ、いつもより大きく聞こえた。
書いたのは、ほんの短い文だった。
――今日、クロエ様と話しました。話せてよかったです。明日も、庭園に出てもよろしいですか。
書き終えて、マリアは手を止めた。
自分で書いた文字を、しばらく見つめる。
自分から誰かに手紙を書きたいと思ったことが、あっただろうか。
三年間、一度でも。
思い返しても、なかった。
必要だから書くことはあった。礼儀として返すこともあった。
けれど、会いたいから。話したいから。明日も同じ場所にいたいから
――そんな気持ちでペンを取ったことは、一度もなかった。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
それは激しい喜びではなく、小さな灯りのようなものだった。
でも、その小ささがかえって本物に思えた。
これで十分だ、とマリアは思った。
今はまだ大きな幸せなんて分からなくてもいい。
自分から書きたいと思えた。それだけで、昨日までとは違う。
封をして、リサを呼ぶ。
「リサ」
「はい」
「レオン様に届けてくれる?」
「かしこまりました」
「……急がなくていいわ」
「はい」
「でも」
「はい」
「今夜中に」
リサが小さく笑った。
「かしこまりました、お嬢様」
扉が閉まったあと、マリアは窓辺に立った。
秋の夜長。
月は高く、庭園の薔薇の枝を銀色に照らしていた。
昼のやわらかな光の下で見るのとは違い、夜の枝は少しだけ凛として見える。
花はない。けれど、そこにはたしかに来春の芽がある。
来春、咲く
本物の場所で
本物の人と、一緒に。
そう思ったとき、胸の奥が静かに満たされた。
誰かに与えられる場所ではなく、自分の足で向かいたいと思える場所が、ようやく見えた気がした。
静かな令嬢が、初めて自分から手紙を書いた夜だった。
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