白い結婚のまま、旦那様は薔薇のような美人に夢中になりました

柴田はつみ

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第9章 噂はもう私だけを残していた

 三日後の茶会で、リディアはそれを知った。

 王妃主催の慈善会に関わる夫人たちが集まる、小さな茶会だった。

 会場はシャルム伯爵夫人の邸宅。集まる顔ぶれは十数人ほどで、人数が少ないぶん、ここで交わされる言葉はよく広がる。

「リディア様、ごきげんよう」
「ごきげんよう」

 リディアはいつものように微笑み、席についた。

 薄い藤色のドレス。真珠の耳飾り。華やかではないが、侯爵夫人として不足のない装いだ。

 鏡の前では何度も確かめた。顔色は悪くない。目元も腫れていない。今日の自分は、どこから見てもきちんとした侯爵夫人のはずだった。

 けれど席についてすぐ、空気が少しだけおかしいことに気づいた。

 誰も露骨ではない。
 ただ、視線が一拍遅れて逸らされる。

 会話が一度途切れてから、また別の話題へつながる。
 その小さな間が、どうにも気になった。

 気のせいかもしれない。
 そう思おうとしたとき、向かいの席の夫人がふわりと笑った。

「ルーヴェン侯爵家は、最近お忙しそうですわね」

「ええ。春先はいろいろと動きますもの」

 無難に返す。
 すると別の夫人が、扇を口元に当てた。

「学院への寄付の件も、ずいぶん熱心に関わっていらっしゃるとか」

「旦那様が責任を持っておりますので」

「まあ、そうでしたの」

 そこまでなら、ただの社交辞令だった。

 だがそのあと、小さな笑いとともに、誰かが言った。

「セシリア様も、最近はずいぶん熱心でいらっしゃるそうですものね」

 その名前が出た瞬間、リディアの指先がわずかに止まった。

 止まったのは一瞬だけだ。
 けれど自分にははっきり分かった。

「ヴァレンタイン子爵令嬢ですか」

 できるだけ自然にそう尋ねると、夫人たちは顔を見合わせた。
 その一瞬の躊躇いが、何より雄弁だった。

「まあ、リディア様はお聞きになっていなかったの?」
「いえ、別に大したことではないのですけれど」
「学院支援でご一緒する機会が多いようで」

 大したことではない。
 そう言うときほど、大したことでは済んでいない。

 リディアは静かに微笑んだ。

「旦那様はそのあたりのことを、あまり細かくお話しなさらないのです」

「まあ……」

 その「まあ」に、いくつもの意味が含まれている気がした。

 知らないのだ。
 あの奥方は。
 そんな気配が、もう隠しきれないほど漂っていた。

 シャルム伯爵夫人が慌てたように話題を変える。

「そういえば、春の慈善会では座席をどうなさるのかしら」
「王都からの来賓も増えるそうですわね」
「学院の評判もずいぶんよろしいようで」

 会話は動いた。
 けれど、リディアにはもう十分だった。

 知らなかったのは、自分だけだったのだ。

 それが、じわじわと胸の奥へ落ちてくる。

 茶会は続く。
 焼き菓子が運ばれ、茶葉が変わり、笑い声も上がる。

誰もがいつものように淑女らしく振る舞っていた。

 その中で、話題はまた少しずつ戻っていった。

「セシリア様は本当にお綺麗ですものね」
「ええ、あの方が入ると場がぱっと華やぎますわ」
「ルーヴェン侯爵様も、さぞお話ししやすいでしょうね」

 誰も名前を並べて断言はしない。
 けれど、並べているのと同じだった。

 リディアはカップを持ち上げる。
 紅茶の香りはよかった。けれど味はほとんど分からない。

「リディア様は、本当に落ち着いていらっしゃるのね」

 ふいに、年配の夫人がそう言った。

「わたくしなら、あんなに美しい方がそばにいらしたら、少し気後れしてしまいそうですわ」

 その言葉に、周囲が曖昧に笑う。

 気後れ。
 そう見えているのだろうか。
 侯爵夫人である自分が、薔薇のような美人の前で引け目を感じている女に。

 リディアは笑みを崩さなかった。

「セシリア様は本当にお美しいですもの。街を歩けば、誰だってまず目を奪われるでしょう」

「まあ、さすがリディア様。お心が広いこと」

 お心が広い。
 それも違う。
 広いのではない。ただ、ここで顔を変えられないだけだ。

「それに旦那様は、もともとどなたに対してもお優しい方ですから」

 自分で口にしていて、胸が少しだけ痛む。

 優しい。
 ええ、本当に優しい人だ。
 だからこそ、自分はここまで勘違いしてしまった。

 そのとき、隣の席の若い夫人が、悪気なく言った。

「でも、最近はセシリア様のことをずいぶんお気にかけていらっしゃるようですわよ。学院でも、夜会でも」

 周囲の空気が、一瞬だけ固まる。

「ちょっと、あなた」
「まあ、そんな言い方」

 たしなめる声が続いた。
 けれど遅かった。

 学院でも、夜会でも。

 もう一度、はっきりした。
 あの二人のことは、とっくに人の口に乗っている。

 ただ、私の耳にだけ届いていなかった。

「失礼いたしましたわ」

 若い夫人が頬を染めて俯く。
 恥じているのか、それとも余計なことを言ったと気づいただけなのかは分からない。

 リディアは穏やかに首を振った。

「いいえ。お気になさらないで」

 声はちゃんと出た。
 少しも震えていない。

 そのことだけが、今の自分を支えていた。

 茶会が終わる頃には、リディアは自分でも不思議なくらい静かだった。

 怒りはまだない。
 泣きたいわけでもない。
 ただ、ひどく冷えていた。

 帰りの馬車に乗り込み、扉が閉まる。

 向かいに座ったエマが、おそるおそるこちらを見た。

「奥様……」

「大丈夫よ」

 反射のようにそう言ってから、リディアは小さく息を吐いた。

「……いいえ、大丈夫ではないわね」

 エマが目を見開く。

「奥様」

「知らなかったのは、私だけだったの」

 そう口にした瞬間、その事実がようやくはっきり自分の中で形を持った。

 夜会で見た笑顔。
 昼の来訪。
 薔薇の髪飾り。
 そして今日の茶会での、あの空気。

 全部つながっていた。

 社交界の人たちは、とっくに気づいていたのだ。
 ルーヴェン侯爵が、薔薇のような美人を特別に扱っていることに。
 その美人が、当然のように侯爵のそばにいることに。

 それなのに、自分だけが、まだ「気のせいかもしれない」と思おうとしていた。

「奥様は悪くありません」

 エマがきっぱりと言った。

「旦那様が何もおっしゃらないからです」

 その言葉に、リディアは少しだけ笑った。
 慰められているのだと分かったから。

「ありがとう」

 でも、それだけでは済まなかった。

 旦那様は何も言わない
 優しくしてくれる
 気づかってもくれる

 けれど、一番大事なことは何ひとつ言わない。

 その曖昧さの中で、私だけが最後まで取り残されていたのだ。

 馬車の窓の外で、王都の街並みが流れていく。

 人々の姿が小さく揺れ、店先の色が夕方の光に沈んでいく。

 街を歩けば、誰だって美しい人に目を奪われる。
 それは分かる。

 分からないわけではない。

 でもそのあとで、静かな妻には何も言わず、何も選ばず、何も終わらせないままにしておくのはあまりにも残酷だった。

 侯爵家へ戻る馬車の中で、リディアはそっと膝の上で手を組んだ。

 私は今まで、何を信じていたのだろう。

 優しい旦那様
 穏やかな結婚
 少しずつ近づけるかもしれない未来。

 そんなものは、最初からどこにもなかったのかもしれない。

 あったのはただ、
 もう周囲の誰もが知っていることを、私だけが知らされていなかった
 という、それだけだった。

 その事実が、今まででいちばん静かに、いちばん深く、リディアを傷つけた。

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