白い結婚のまま、旦那様は薔薇のような美人に夢中になりました

柴田はつみ

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第26章 彼女を見ている人

レオンハルトが女子学院を訪れてから、三日が過ぎていた。

 それだけしか経っていないのに、あの日のことは妙に鮮明に残っていた。
 机の前に座るリディア。

 落ち着いた声で帳面を説明する姿。

 教員たちが当たり前のように彼女へ問いかけ、彼女の返答に安心したように頷く空気。

 あれは、レオンハルトの知らない妻だった。

 いやもう、妻ではないのだと、自分であとで気づく。

 それでも心の中では、まだその言葉でしか捉えられない自分がいた。

「旦那様」

 書斎の扉が叩かれ、ジェラルドが入ってくる。

「学院より、公開日の案内が届いております」

 差し出された厚紙を受け取り、レオンハルトは目を落とした。

 公開日

 寄付者や後援者を招き、生徒たちの学びの様子を見せる小さな催しだと書かれている。

 授業の展示、裁縫作品の発表、簡単な説明会。大げさなものではない。

だが学院にとっては重要な一日なのだろう。

 ルーヴェン侯爵家の名も、招待者一覧の上のほうにあった。

「行かれますか」

 ジェラルドが静かに尋ねる。

 レオンハルトはすぐには答えなかった。
 行くべきかどうかではない。
 行きたいのかどうかを、自分で認めたくなかったのだ。

「……予定は空けておけ」

「かしこまりました」

 ジェラルドが下がる。

 残された招待状を見つめながら、レオンハルトは椅子の背にもたれた。
 行けばまた、リディアと会うことになる。

 会いたいのかと問われれば、否定はできない。

 あの日以降、どうしても考えてしまうのだ。彼女がどうやって働き、どうやって周囲の場を整えているのかを。

 侯爵家にいた頃、リディアはいつも少し後ろに立っていた。

 目立たず、穏やかに、静かな顔で。
 だからこそ、ああして人の中心で自然に仕事をしている姿が、ひどく意外で、目を引いた。

 意外だと思ったこと自体が、情けなかった。
 何年も隣にいた女なのに、自分は何を見ていたのだろう。

 その日の午後、学院では公開日に向けた準備が続いていた。

 事務室の机の上には、来客用の一覧表と説明資料が広がっている。

 裁縫作品の配置、算術の掲示、茶の準備、暖炉の火の確認。小さなことが多い。だが、そういう小さなことほど手を抜けない。

「ローザ先生、この作品は入口からすぐ見える位置へ置いたほうがいいですね」

 リディアは紙を見ながら言った。

「一年生のものですし、最初に目に入ったほうが保護者の方も足を止めやすいわ」

「たしかに」

 ローザが大きく頷く。

「では、裁縫机を少しずらしましょう」

「ええ。あと、この説明札はもう少し文字を大きく。年配の寄付者の方もいらっしゃるでしょうから」

 言葉にしながら、リディアはひとつずつ紙へ印をつけていく。

 こういう仕事は嫌いではない。
 むしろ、落ち着く。

 何が足りないか。どこを整えれば流れがよくなるか。見ていれば、自然と手順が浮かぶ。

「リディア様」

 若い補佐の女性が、控えめに声をかけてきた。

「来客用の席ですが、辺境伯様のお席はこちらでよろしいでしょうか」

 紙を差し出され、リディアは目を落とす。

 アシュベリー辺境伯カイルの席は、学院長のすぐ隣になっていた。

 それ自体はおかしくない。
後援者としての立場を考えれば自然だ。

「こちらで大丈夫よ。ただ、ルーヴェン侯爵家からも当主がいらっしゃるなら、二家が近すぎないほうがいいかもしれません」

「近すぎない?」

「ええ。どちらも寄付者ですし、学院長のお話を聞く位置にはいていただきたいけれど、並べてしまうと周囲がそちらばかり気にしてしまうでしょう」

 補佐の女性が、はっとした顔で紙を見直す。

「たしかに……」

「ですから、辺境伯様は学院長の右へ。ルーヴェン侯爵様は左へ。その間に、女子慈善会の方をひとり挟みましょう」

「分かりました」

 そう言って、彼女は慌てて席順表を書き直し始めた。

 そのとき、事務室の扉が開いた。

「失礼する」

 低い声がして、全員の視線がそちらへ向く。

 カイルだった。

 以前の視察と同じように、飾り気のない濃色の外套を着ている。

 髪も服もきちんと整っているのに、不思議と華美には見えない。


「辺境伯様」

 クラウスが立ち上がる。

「本日は急なご来訪を」

「公開日の配置について、一点確認したくてな」

 そう言いながらカイルは事務室へ入ると、自然に机の上の資料へ視線を向けた。
 目が止まったのは、花ではなく、リディアが印をつけた席順表だった。

「もう来客席を組んだのか」

「はい」

 リディアが答える。

「寄付者のお席と、保護者の流れを見て調整しております」

 カイルは一歩近づき、席順表を見下ろした。

「ルーヴェン侯爵家の席が左へずれているな」

「辺境伯様との間に一席入れました」

「理由は」

 問い返し方は淡々としている。
 だが、試すような響きではなかった。ただ本当に理由を知りたいのだと分かる。

「公開日の主役は学院ですもの」

 リディアは紙の一点を指で示した。

「大きな寄付者が並びすぎると、どうしてもそちらへ視線が集まります。ですから、あえて少しだけ距離を置きました」

 カイルは紙を見たまま、短くうなずいた。

「なるほど」

 それから顔を上げる。

「正しいと思う」

 その一言だけだった。
 でも、きちんと見て、理解したうえで言っているのが分かった。

「ありがとうございます」

 リディアは自然にそう返した。

 カイルはそれ以上その話を引き延ばさない。

 別の資料へ目を移し、教室の回り方、展示の順番、暖炉の位置まで、必要なことだけを確認していく。

「この流れなら、最初に裁縫を見せて、そのあと算術か」

「はい。作品展示のほうが足が止まりやすいので」

「理にかなっている」

 やり取りは短い。
 それでも、リディアには不思議な心地よさがあった。

 話を聞いてもらえる。
 理由を尋ねられる。
 答えたら、その答えごと評価される。

 それが、こんなにも息のしやすいことだとは、少し前まで知らなかった。

 夕方近くまで確認を終え、クラウスがほっと息をつく。

「これで公開日も何とか形になりそうです」

「形にするのが目的ではない」

 カイルが静かに言う。

「当日、学院長が説明に集中できるようにしておくことだ」

 その言葉に、クラウスが少し目を見開いたあと、苦笑する。

「おっしゃる通りです」

 事務室の空気がやわらいだ。

 そしてその直後、カイルは何気ない調子で言った。

「リディア様がいれば、その点は問題ないだろう」

 その場にいた全員の視線が、一瞬だけリディアへ向く。

 重い言い方ではなかった。
 当然のことを口にしただけ、という声だった。

 でも、その響きは強かった。

 問題ない。
 あなたがいれば。

 リディアは少しだけ驚いた。

「……そう言っていただけるよう、努めます」

 やっとそれだけ返すと、カイルは短く答えた。

「すでに十分そう見える」

 
 ただ、見たままをそのまま口にする。

 その真っすぐさに、リディアは言葉を失いかけた。

 その日の夜、侯爵家ではレオンハルトが公開日の招待状をもう一度見返していた。

 文字は変わらない。

 女子学院、公開日、寄付者来訪。

 だがその紙切れの向こうに、どうしてもあの場所の空気が浮かぶ。

 整った机
 静かな声

 リディアを当然のように頼る人々。

 そこへ、さらに別の男の気配が重なる。

 アシュベリー辺境伯。

 視察の日、あの男がリディアを見る目を、レオンハルトは思い出していた。

 見惚れるのでも、憐れむのでもない。
 ただ、仕事をする人間として見ていた目。

 しかもそこには、敬意があった。

 自分は一度でも、あんなふうに彼女を見ただろうか。

 屋敷を整える人間として信頼はしていた。
 任せれば安心だと、助かると、そういう言葉は何度もかけた。

 だがそれは、あくまで自分にとって都合のよい形で役に立つという意味ではなかったか。

 あの男の目は違った。

 彼はリディアを、自分と同じように判断できる人間として見ていた。

 だから席順の理由を尋ね、答えを聞き、その答えを正しいと認めたのだ。

 その差が、思った以上に胸へ刺さる。

 机の上の招待状を伏せる。
 行けばまた、それを見ることになるのだろう。

 自分が一度も向けなかった目を、別の男が彼女へ向けているところを。

 そのことを想像しただけで、胸の奥が冷たく沈んだ。

 学院を出たあと、リディアは馬車の中でしばらく黙っていた。

 今日のカイルとのやり取りを思い出していたのだ。

 席順の理由を尋ねられたこと。

 答えをきちんと聞いてもらえたこと。
 それが正しいと、まっすぐ言われたこと。

 特別なことではない。
 仕事をしていれば、あって当然のやり取りなのかもしれない。

 でも自分にとっては、少し違った。

 侯爵家では、整っていて当然だった。

 何かを先回りしても、乱れが出なければ気づかれないことも多かった。

 だからこそ、理由ごと見てもらえることが、こんなにも胸に残るのだろう。

 窓の外は、淡い夕暮れだった。

 リディアはそっと目を閉じる。

 必要とされることが苦しくないのは、たぶんこういうことなのだ。

 自分の役目だけではなく、考えまで見てもらえること。

 都合のよい便利さではなく、そこにいる人間として信頼されること。

 それが、今の自分には嬉しかった。

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