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第五章:砕かれた誇りと、沈黙の約束
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離宮の冬は、ついにミリアから健康さえ奪い始めていた。
連日の粗末な食事と冷え切った部屋のせいで、彼女は高熱にうなされ、起き上がることすらままならない。
「お嬢様、しっかりしてください……! 今、お薬を……!」
サラが泣きながら厨房へ走ったが、戻ってきた彼女の手にあったのは、泥水のように濁った液体の入った器だけだった。
「……それは、何?」
「執事が……『王妃様に与える薬などない。これを飲んで大人しく寝ていろ』と……」
それは家畜に与えるような汚れた飲み水だった。
側近たちの嫌がらせは、ついに命の一線を踏み越えていた。
ミリアは震える手で器を払いのける。
ガシャリ、と割れた音とともに、汚水が床に広がった。
「……私は伯爵家の娘よ。こんな屈辱……死んでも受け入れないわ」
その夜、事件が起きた。
熱に浮かされて眠るミリアの部屋の扉が、乱暴に開かれる。
踏み込んできたのは、バルカスの息がかかった兵士たちだった。
「夜分に失礼する、王妃様。陛下のご命令だ。『王妃の贅沢を戒めるため、離宮の価値ある物をすべて没収せよ』とのことだ」
「……何ですって? 陛下が……そんな……」
兵士たちは答えることもなく、部屋中の調度品を荒々しく引き倒し始めた。
やがて一人が、机の上の青いインクの瓶と、書き溜められた手紙の束を掴み上げる。
「これはいい燃料だな。陛下も、こんな呪いの手紙は二度と見たくないと仰っている」
「待ちなさい……! それだけは……それだけは返して……!」
ミリアはベッドから転がり落ち、必死に兵士の足元に縋りついた。
それは、彼女の三年間の生きた証だった。届かなくても、彼を想い続けた唯一の繋がりだった。
だが、兵士は容赦なく彼女を蹴り飛ばした。
床に倒れ伏すミリアの目の前で、インク瓶が石床に叩きつけられる。
――パリン。
鮮やかな**「リナリアの青」**が、白い絨毯に飛び散った。
それはまるで、彼女の心臓から溢れ出た血のようだった。
「あ……ああああ……!」
声にならない悲鳴が、凍てつく離宮に響く。
兵士たちは手紙の束を掴み、暖炉へと投げ込んだ。
轟々と燃え上がる炎。
立ち上るのは、あの甘い匂い。
ミリアの純粋な恋心も、献身も、三年間の孤独も、すべてが黒い煙となって消えていく。
兵士たちが去った後、静まり返った部屋で、ミリアは床に這いつくばり、割れたインク瓶の破片を拾い集めた。
指先が切れ、青いインクと赤い血が混ざり合う。
「……もう、いいわ」
涙は、もう流れなかった。
熱で赤かった頬は、死人のように白く冷えきっている。
血と青に染まった指先を見つめ、彼女は静かに――けれど呪いのような声で呟いた。
「アルティス……あなたは私の言葉を焼いたのではない。……私という人間を、今、この手で殺したのよ」
ミリアの中にあった王妃としての愛は、完全に凍りついた。
残ったのは、骨の髄まで染み込んだ、真っ黒な恨みだけ。
一方、本宮。
アルティスは、窓の外に立ちのぼる離宮の煙を見つめていた。
バルカスから「王妃様がご自身で贈り物を焼き払い、陛下との絶縁を宣言されました」と報告を受け、彼は執務室で一人、声を殺して泣いていた。
同じ空の下にいながら、二人の距離は――
天と地ほどに、引き裂かれていた。
連日の粗末な食事と冷え切った部屋のせいで、彼女は高熱にうなされ、起き上がることすらままならない。
「お嬢様、しっかりしてください……! 今、お薬を……!」
サラが泣きながら厨房へ走ったが、戻ってきた彼女の手にあったのは、泥水のように濁った液体の入った器だけだった。
「……それは、何?」
「執事が……『王妃様に与える薬などない。これを飲んで大人しく寝ていろ』と……」
それは家畜に与えるような汚れた飲み水だった。
側近たちの嫌がらせは、ついに命の一線を踏み越えていた。
ミリアは震える手で器を払いのける。
ガシャリ、と割れた音とともに、汚水が床に広がった。
「……私は伯爵家の娘よ。こんな屈辱……死んでも受け入れないわ」
その夜、事件が起きた。
熱に浮かされて眠るミリアの部屋の扉が、乱暴に開かれる。
踏み込んできたのは、バルカスの息がかかった兵士たちだった。
「夜分に失礼する、王妃様。陛下のご命令だ。『王妃の贅沢を戒めるため、離宮の価値ある物をすべて没収せよ』とのことだ」
「……何ですって? 陛下が……そんな……」
兵士たちは答えることもなく、部屋中の調度品を荒々しく引き倒し始めた。
やがて一人が、机の上の青いインクの瓶と、書き溜められた手紙の束を掴み上げる。
「これはいい燃料だな。陛下も、こんな呪いの手紙は二度と見たくないと仰っている」
「待ちなさい……! それだけは……それだけは返して……!」
ミリアはベッドから転がり落ち、必死に兵士の足元に縋りついた。
それは、彼女の三年間の生きた証だった。届かなくても、彼を想い続けた唯一の繋がりだった。
だが、兵士は容赦なく彼女を蹴り飛ばした。
床に倒れ伏すミリアの目の前で、インク瓶が石床に叩きつけられる。
――パリン。
鮮やかな**「リナリアの青」**が、白い絨毯に飛び散った。
それはまるで、彼女の心臓から溢れ出た血のようだった。
「あ……ああああ……!」
声にならない悲鳴が、凍てつく離宮に響く。
兵士たちは手紙の束を掴み、暖炉へと投げ込んだ。
轟々と燃え上がる炎。
立ち上るのは、あの甘い匂い。
ミリアの純粋な恋心も、献身も、三年間の孤独も、すべてが黒い煙となって消えていく。
兵士たちが去った後、静まり返った部屋で、ミリアは床に這いつくばり、割れたインク瓶の破片を拾い集めた。
指先が切れ、青いインクと赤い血が混ざり合う。
「……もう、いいわ」
涙は、もう流れなかった。
熱で赤かった頬は、死人のように白く冷えきっている。
血と青に染まった指先を見つめ、彼女は静かに――けれど呪いのような声で呟いた。
「アルティス……あなたは私の言葉を焼いたのではない。……私という人間を、今、この手で殺したのよ」
ミリアの中にあった王妃としての愛は、完全に凍りついた。
残ったのは、骨の髄まで染み込んだ、真っ黒な恨みだけ。
一方、本宮。
アルティスは、窓の外に立ちのぼる離宮の煙を見つめていた。
バルカスから「王妃様がご自身で贈り物を焼き払い、陛下との絶縁を宣言されました」と報告を受け、彼は執務室で一人、声を殺して泣いていた。
同じ空の下にいながら、二人の距離は――
天と地ほどに、引き裂かれていた。
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