忘れな草の約束を胸に抱く幼なじみ公爵と、誤解とすれ違いばかりの婚約までの物語

柴田はつみ

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第四章 揺らぐ心

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 雨音が遠のき、窓越しに淡い光が差し込んできた。
 書庫の中はまだひんやりとして、開け放した扉の向こうから、濡れた土と緑の匂いが流れ込む。
 エドガーが去った後も、リディアはしばらくその場に立ち尽くしていた。

(……関係ない、なんて)

 唇からこぼれたあの言葉が、自分の胸を締めつけている。
 彼の瞳に宿ったわずかな陰りが、脳裏から離れない。
 関係ないわけがない。それなのに、そう口にしてしまったのは、意地か、それとも……怖さか。

 深く息を吐き、本を胸に抱えて廊下に出る。
 雨上がりの光は、窓の外で銀色の筋を作り、庭の薔薇を濡らしていた。

     

 その日の夕刻。
 晩餐までの短い時間、リディアは庭園を歩いていた。
 湿った芝生の匂い、葉の先から滴る雫の音。空気は少し冷たく、頬を撫でる風に雨の名残が混じっている。

 庭の奥にある古い石造りのベンチに腰を下ろし、スカートの裾を丁寧に広げた。
 足元では、小さな忘れな草が青を取り戻すように咲いている。

(あの日も、こうして隣に……)

 記憶の中の彼は、少し背伸びをして花を摘み、笑って差し出してくれた。
 それは約束の花——困ったら呼べ、と笑った声。
 だが今、その約束は霧の中にあるように遠い。

「こんなところにいたのか」

 不意に背後から声がして、振り返ればエドガーが立っていた。
 黒い外套の肩には、まだ雨粒が光っている。
「晩餐まで時間があるのに、部屋にいないとは思わなかった」
「雨が上がったから、少し歩きたくて」
 彼は頷き、ベンチの端に腰を下ろした。距離は適切すぎるほど適切で、温もりは届かない。

「……さっきの書庫でのことだが」
 低い声に、リディアの心が跳ねる。
「噂の話?」
「ああ。俺は——」
 彼はそこで言葉を切り、視線を庭の奥へ流した。
「……いや、今はいい」
「今はいいって……どうして最後まで言わないの?」
「言えば、お前が困るかもしれない」
「私が困ることなんて——」

 反射的に言いかけて、喉が詰まった。
 困らないはずがない。もし彼がセリーヌとの関係を肯定したら、自分はどうするのか。
 逆に否定されたら——喜びより先に、何を返せばいいか分からなくなる。

 二人の間に沈黙が落ち、遠くで小鳥が濡れた枝を揺らす音だけが聞こえた。

     

 晩餐の時間になると、屋敷の食堂は温かな灯りと料理の香りに満ちた。
 銀の燭台に揺れる炎が、磨かれたカトラリーや水晶のグラスを柔らかく照らす。
 家族と少数の来客が並び、談笑が静かに続く。

「リディア嬢、この前の晩餐会での踊りは見事でしたよ」
 声をかけてきたのは、来客の一人である伯爵令息だった。
 彼は穏やかに微笑み、ワインを傾けながら話を続ける。
「次の舞踏会でも、ぜひ一曲お願いしたい」
「……光栄ですわ」
 社交辞令としての返事を口にした瞬間、ふと斜め向かいの席からの視線を感じた。
 エドガーが、会話を聞きながら表情を変えずにナイフを動かしていた。

 食事の終盤、席を立った伯爵令息がリディアの椅子の背に軽く手を置き、別れの挨拶をする。
 そのわずかな接触にも、エドガーの瞳が一瞬だけ鋭く光った。

     

 晩餐後、客を見送った廊下で、エドガーが声をかけてきた。
「……あの伯爵令息と、ずいぶん親しげだったな」
「ご挨拶を交わしただけよ」
「肩に手を置かれるほどの挨拶か?」
「それは……偶然触れただけでしょう」
「偶然、ね」

 冷ややかに返す声に、リディアの胸がざわつく。
 舞踏会の夜と同じ——あの時も彼は、ジュリアンとの練習を偶然とは言わなかった。

「エドガー、あなたこそ——」
 言いかけた言葉を、彼は遮った。
「俺は、必要な時以外、誰にも触れない」
「……だから?」
「だから、余計に気になる」

 その瞳は真剣だった。
 けれど、素直に喜べない。
 嫉妬なら嬉しいはずなのに、その奥にある本心が見えないから。

     

 夜更け。自室の窓から庭を見下ろすと、月明かりが雨に濡れた芝生を照らしていた。
 石のベンチの脇に、小さな青が揺れている。忘れな草。
 ——困ったら呼べ。
 その言葉が、今夜はひどく遠く感じられた。
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