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第六章 仮面の舞踏会
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王都社交評議会が主催する仮面舞踏会は、年に一度、春の終わりに開かれる。
会場は評議会の迎賓館——白大理石の柱が並ぶ広間に、百を超える仮面の視線が揺れていた。
燭台の灯りが仮面の金銀を照らし、色とりどりのドレスが花園のように咲き乱れる。
リディアは淡い空色の仮面をつけていた。
頬の半ばまでを覆うその仮面の内側には、忘れな草を思わせる細い青のリボンが縫い込まれている。
ジュリアンからの贈り物——けれど、色は彼を思い出させる色だった。
鏡の前で仮面を整えると、侍女が笑みを浮かべた。
「仮面をつけると、どなたも素顔より少し大胆になるそうですよ」
「……そうかしら」
「ええ。顔が見えないぶん、言葉が軽くなるのです」
——顔が見えないなら、本心を隠せる。
そう考えた瞬間、胸の奥にひそかな緊張が走った。
迎賓館の広間は、いつもの舞踏会よりもざわめきが濃い。
金色の仮面が笑い、黒い仮面がささやき、誰もが名前よりも仮面の印象で相手を記憶する。
リディアは壁際でグラスを手に、遠くの様子を眺めていた。
——彼は、来ているのだろうか。
視線を巡らせても、蒼い瞳を探すことはできない。
けれど、仮面越しでも、あの歩き方、あの肩の線を見れば分かるはずだ。
そう信じながら、人波の奥を探す。
「——失礼」
低く抑えられた声が、背後から落ちてきた。
振り返ると、黒と銀を組み合わせた仮面の男が立っている。
マントの裾がわずかに揺れ、その奥から覗くのは見慣れた輪郭だった。
「……踊っていただけますか」
仮面のせいで表情は見えない。けれど、その声音の温度は知っている。
「最初の曲、でしょうか」
「ええ」
差し出された手に、躊躇いながらも自分の手を重ねる。
音楽が始まり、二人は輪の中へ溶け込んだ。
手と手、腰と腕。
距離は規定どおり——けれど、触れるところから熱がじわじわと伝わってくる。
「……仮面越しに見る瞳も、悪くない」
「お世辞?」
「本心だ」
「仮面だから?」
「仮面でも、わかることはある」
ステップを踏みながら、彼の声は低く耳元に落ちる。
「呼べば、来る」
その言葉に心が跳ねた。
「……呼んだ覚えはないわ」
「じゃあ、俺が勝手に来た」
「勝手に、ね」
くすくすと笑いをこらえる声が、音楽に紛れて消えた。
曲が終わっても、手はすぐには離れなかった。
次の曲が始まる前に、彼はリディアを人混みから離れた回廊へと導く。
大理石の柱が並び、窓の外には月明かりが庭園を照らしている。
「ここなら、少し静かだ」
仮面越しに向けられる視線が、月光に淡く光る。
「……セリーヌ嬢とは踊らないの?」
「踊る必要があるときにだけ」
「必要、ね」
「お前とは——理由がなくても踊る」
心臓が、仮面の下で小さく跳ねた。
けれど、その熱を悟られたくなくて、わざと視線を逸らす。
「仮面があると、嘘も言いやすいでしょう?」
「じゃあ、この言葉が嘘かどうか、確かめるか」
軽く顎を傾けられ、息が触れる距離に近づく。
その瞬間——
「——公爵様」
遠くからセリーヌの呼ぶ声がした。
彼は一度だけ小さく舌打ちし、距離を取る。
「行かなくていいの?」
「行きたくはない」
「でも、行くのでしょう」
「……そうだな」
彼は踵を返し、人混みへ消えていった。
残された回廊に、月光と沈黙だけが残る。
夜も更け、最後の曲が流れる。
リディアは仮面を外さずに、壁際で静かに見送っていた。
中央では、黒と銀の仮面が別の令嬢と踊っている。
それが社交の義務だと分かっていても、胸の奥が少しだけ痛む。
——仮面の夜は、もうすぐ終わる。
素顔になれば、また言えない言葉ばかりになるのだろうか。
会場は評議会の迎賓館——白大理石の柱が並ぶ広間に、百を超える仮面の視線が揺れていた。
燭台の灯りが仮面の金銀を照らし、色とりどりのドレスが花園のように咲き乱れる。
リディアは淡い空色の仮面をつけていた。
頬の半ばまでを覆うその仮面の内側には、忘れな草を思わせる細い青のリボンが縫い込まれている。
ジュリアンからの贈り物——けれど、色は彼を思い出させる色だった。
鏡の前で仮面を整えると、侍女が笑みを浮かべた。
「仮面をつけると、どなたも素顔より少し大胆になるそうですよ」
「……そうかしら」
「ええ。顔が見えないぶん、言葉が軽くなるのです」
——顔が見えないなら、本心を隠せる。
そう考えた瞬間、胸の奥にひそかな緊張が走った。
迎賓館の広間は、いつもの舞踏会よりもざわめきが濃い。
金色の仮面が笑い、黒い仮面がささやき、誰もが名前よりも仮面の印象で相手を記憶する。
リディアは壁際でグラスを手に、遠くの様子を眺めていた。
——彼は、来ているのだろうか。
視線を巡らせても、蒼い瞳を探すことはできない。
けれど、仮面越しでも、あの歩き方、あの肩の線を見れば分かるはずだ。
そう信じながら、人波の奥を探す。
「——失礼」
低く抑えられた声が、背後から落ちてきた。
振り返ると、黒と銀を組み合わせた仮面の男が立っている。
マントの裾がわずかに揺れ、その奥から覗くのは見慣れた輪郭だった。
「……踊っていただけますか」
仮面のせいで表情は見えない。けれど、その声音の温度は知っている。
「最初の曲、でしょうか」
「ええ」
差し出された手に、躊躇いながらも自分の手を重ねる。
音楽が始まり、二人は輪の中へ溶け込んだ。
手と手、腰と腕。
距離は規定どおり——けれど、触れるところから熱がじわじわと伝わってくる。
「……仮面越しに見る瞳も、悪くない」
「お世辞?」
「本心だ」
「仮面だから?」
「仮面でも、わかることはある」
ステップを踏みながら、彼の声は低く耳元に落ちる。
「呼べば、来る」
その言葉に心が跳ねた。
「……呼んだ覚えはないわ」
「じゃあ、俺が勝手に来た」
「勝手に、ね」
くすくすと笑いをこらえる声が、音楽に紛れて消えた。
曲が終わっても、手はすぐには離れなかった。
次の曲が始まる前に、彼はリディアを人混みから離れた回廊へと導く。
大理石の柱が並び、窓の外には月明かりが庭園を照らしている。
「ここなら、少し静かだ」
仮面越しに向けられる視線が、月光に淡く光る。
「……セリーヌ嬢とは踊らないの?」
「踊る必要があるときにだけ」
「必要、ね」
「お前とは——理由がなくても踊る」
心臓が、仮面の下で小さく跳ねた。
けれど、その熱を悟られたくなくて、わざと視線を逸らす。
「仮面があると、嘘も言いやすいでしょう?」
「じゃあ、この言葉が嘘かどうか、確かめるか」
軽く顎を傾けられ、息が触れる距離に近づく。
その瞬間——
「——公爵様」
遠くからセリーヌの呼ぶ声がした。
彼は一度だけ小さく舌打ちし、距離を取る。
「行かなくていいの?」
「行きたくはない」
「でも、行くのでしょう」
「……そうだな」
彼は踵を返し、人混みへ消えていった。
残された回廊に、月光と沈黙だけが残る。
夜も更け、最後の曲が流れる。
リディアは仮面を外さずに、壁際で静かに見送っていた。
中央では、黒と銀の仮面が別の令嬢と踊っている。
それが社交の義務だと分かっていても、胸の奥が少しだけ痛む。
——仮面の夜は、もうすぐ終わる。
素顔になれば、また言えない言葉ばかりになるのだろうか。
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