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第十二章 慈善音楽会の夜
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慈善音楽会の夜、王都の大劇場は華やかな光に包まれていた。
高い天井から吊るされたシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床と金の装飾を柔らかく照らし、客席には社交界の名だたる人々が揃っている。
舞台上には深紅の緞帳が下り、その向こうから楽器の調律音が微かに漏れ聞こえてきた。
リディアは淡いラベンダー色のドレスに身を包み、胸元には忘れな草を思わせる小さなブローチを付けていた。
青い布切れは見えないよう手首の内側に巻いている。それは目立たないが、彼女にとっては鎧のようなものだった。
伯爵令息が横に立ち、にこやかにエスコートの手を差し伸べる。
「今夜は特等席をご用意しました。舞台がよく見えます」
「ありがとうございます」
柔らかく答えながらも、心の奥では別の視線を探していた。
舞台近くの列に着くと、ほどなくしてエドガーが姿を現した。
黒の燕尾服に控えめな銀のタイピン。背筋はいつも通りまっすぐで、周囲の人々が自然と道を開けていく。
その隣には、薄水色のドレスを纏ったセリーヌが寄り添っていた。
彼女の胸元にも、小ぶりな忘れな草のブローチが光っている。
——同じ花。
偶然か、あるいは意図的か。
リディアの胸がきゅっと縮まる。
エドガーは視線を巡らせ、彼女を見つけた。
一瞬だけ目が合い、何か言いかけたように唇が動いたが、すぐにセリーヌが話しかけ、その言葉は客席のざわめきに呑まれた。
第一部の演奏が始まり、ヴァイオリンの澄んだ音色が劇場全体に広がる。
リディアは音楽に集中しようとしたが、視線はどうしても斜め前の二人に向かってしまう。
セリーヌがエドガーの耳元に何かを囁き、彼が軽く頷く。その何気ない仕草すら胸に刺さった。
「お寒くありませんか?」伯爵令息の声が耳元に落ちる。
「……大丈夫です」
「演奏が終わったら、少し歩きましょう。休憩室の花の飾りが見事だと聞いています」
彼の申し出に曖昧な笑みで頷き、視線を舞台へ戻す。
休憩時間、伯爵令息に導かれて花の飾られた回廊へ向かう途中、背後から低い声が響いた。
「——少し、いいか」
振り返れば、エドガーが立っていた。
伯爵令息は一歩下がり、礼儀正しく会釈する。
「では、後ほど」
二人きりになった回廊は、人の声が遠く、花の香りだけが漂っていた。
「来ると聞いていた」
「慈善の席ですもの」
「伯爵令息と一緒に?」
「ええ。——あなたも、セリーヌ嬢と」
視線が交差し、すぐに逸れる。
「彼女の隣に座ったのは、家の意向だ」
「説明が欲しいときだけ、そう言うのね」
エドガーの眉が寄る。
「俺は、誤解されたままでいる気はない」
「でも……誤解してしまうような光景は、何度も見せるのね」
沈黙が落ちた。
遠くでベルが鳴り、休憩の終わりを告げる。
「——後で、話を続けよう」
「ええ。……できれば、演奏が終わってから」
第二部の演奏。
舞台上ではジュリアンが指揮棒を振り、楽団が一斉に音を紡ぐ。
その旋律は甘くも切なく、どこか言葉にならない感情を抉り出すようだった。
リディアは音に揺れながら、時折、横顔を盗み見た。
エドガーの視線は舞台に向いていたが、その指先は膝の上で小さく動いている。
——呼べ、と言っているように。
終演後、観客が帰路につく中、セリーヌがリディアに歩み寄った。
「素晴らしい演奏でしたわね。公爵様とも、ぜひご感想を語り合って」
促されるようにエドガーが近づく。
伯爵令息もその場に戻り、四人が自然と向かい合った。
花の香りの中で、短い沈黙。
それを破ったのは伯爵令息だった。
「公爵様、今夜の演奏は本当に見事でした。——特に、最後の曲の選び方が」
「ああ、あれは……」とエドガーが答え、会話が始まる。
その間、セリーヌがリディアの腕にそっと触れ、囁いた。
「——彼は、あなたをずっと見ていましたわよ」
その言葉が嘘か真実か、判断する前に心臓が熱を帯びた。
けれど、返事をしようとした瞬間、伯爵令息が「そろそろ参りましょう」と声をかけ、彼女の手を取った。
外へ出ると、夜風が頬を撫でた。
馬車の前で伯爵令息が微笑む。
「……彼と話す時間を、もっと作るべきかもしれませんね」
「どうして、そんなことを?」
「あなたの目が、舞台よりも別の場所を見ていたから」
答えられないまま、リディアは馬車に乗り込む。
夜の王都の灯りが流れ、胸の中では言えなかった言葉が重なり続けていた。
高い天井から吊るされたシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床と金の装飾を柔らかく照らし、客席には社交界の名だたる人々が揃っている。
舞台上には深紅の緞帳が下り、その向こうから楽器の調律音が微かに漏れ聞こえてきた。
リディアは淡いラベンダー色のドレスに身を包み、胸元には忘れな草を思わせる小さなブローチを付けていた。
青い布切れは見えないよう手首の内側に巻いている。それは目立たないが、彼女にとっては鎧のようなものだった。
伯爵令息が横に立ち、にこやかにエスコートの手を差し伸べる。
「今夜は特等席をご用意しました。舞台がよく見えます」
「ありがとうございます」
柔らかく答えながらも、心の奥では別の視線を探していた。
舞台近くの列に着くと、ほどなくしてエドガーが姿を現した。
黒の燕尾服に控えめな銀のタイピン。背筋はいつも通りまっすぐで、周囲の人々が自然と道を開けていく。
その隣には、薄水色のドレスを纏ったセリーヌが寄り添っていた。
彼女の胸元にも、小ぶりな忘れな草のブローチが光っている。
——同じ花。
偶然か、あるいは意図的か。
リディアの胸がきゅっと縮まる。
エドガーは視線を巡らせ、彼女を見つけた。
一瞬だけ目が合い、何か言いかけたように唇が動いたが、すぐにセリーヌが話しかけ、その言葉は客席のざわめきに呑まれた。
第一部の演奏が始まり、ヴァイオリンの澄んだ音色が劇場全体に広がる。
リディアは音楽に集中しようとしたが、視線はどうしても斜め前の二人に向かってしまう。
セリーヌがエドガーの耳元に何かを囁き、彼が軽く頷く。その何気ない仕草すら胸に刺さった。
「お寒くありませんか?」伯爵令息の声が耳元に落ちる。
「……大丈夫です」
「演奏が終わったら、少し歩きましょう。休憩室の花の飾りが見事だと聞いています」
彼の申し出に曖昧な笑みで頷き、視線を舞台へ戻す。
休憩時間、伯爵令息に導かれて花の飾られた回廊へ向かう途中、背後から低い声が響いた。
「——少し、いいか」
振り返れば、エドガーが立っていた。
伯爵令息は一歩下がり、礼儀正しく会釈する。
「では、後ほど」
二人きりになった回廊は、人の声が遠く、花の香りだけが漂っていた。
「来ると聞いていた」
「慈善の席ですもの」
「伯爵令息と一緒に?」
「ええ。——あなたも、セリーヌ嬢と」
視線が交差し、すぐに逸れる。
「彼女の隣に座ったのは、家の意向だ」
「説明が欲しいときだけ、そう言うのね」
エドガーの眉が寄る。
「俺は、誤解されたままでいる気はない」
「でも……誤解してしまうような光景は、何度も見せるのね」
沈黙が落ちた。
遠くでベルが鳴り、休憩の終わりを告げる。
「——後で、話を続けよう」
「ええ。……できれば、演奏が終わってから」
第二部の演奏。
舞台上ではジュリアンが指揮棒を振り、楽団が一斉に音を紡ぐ。
その旋律は甘くも切なく、どこか言葉にならない感情を抉り出すようだった。
リディアは音に揺れながら、時折、横顔を盗み見た。
エドガーの視線は舞台に向いていたが、その指先は膝の上で小さく動いている。
——呼べ、と言っているように。
終演後、観客が帰路につく中、セリーヌがリディアに歩み寄った。
「素晴らしい演奏でしたわね。公爵様とも、ぜひご感想を語り合って」
促されるようにエドガーが近づく。
伯爵令息もその場に戻り、四人が自然と向かい合った。
花の香りの中で、短い沈黙。
それを破ったのは伯爵令息だった。
「公爵様、今夜の演奏は本当に見事でした。——特に、最後の曲の選び方が」
「ああ、あれは……」とエドガーが答え、会話が始まる。
その間、セリーヌがリディアの腕にそっと触れ、囁いた。
「——彼は、あなたをずっと見ていましたわよ」
その言葉が嘘か真実か、判断する前に心臓が熱を帯びた。
けれど、返事をしようとした瞬間、伯爵令息が「そろそろ参りましょう」と声をかけ、彼女の手を取った。
外へ出ると、夜風が頬を撫でた。
馬車の前で伯爵令息が微笑む。
「……彼と話す時間を、もっと作るべきかもしれませんね」
「どうして、そんなことを?」
「あなたの目が、舞台よりも別の場所を見ていたから」
答えられないまま、リディアは馬車に乗り込む。
夜の王都の灯りが流れ、胸の中では言えなかった言葉が重なり続けていた。
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