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第十五章 新たな試練
しおりを挟む執事の声が震えていた。
「……公爵様、侯爵家より“至急”の使いが。社交紙・朝刊への婚約予告の公告を、明け方に掲載する旨——確認と、異議があれば今夜二刻(およそ四時間)以内に書面で届けるように、とのことでございます」
差し出された封筒は重く、封蝋には侯爵家の紋章。
エドガーが受け取って封を切ると、硬い紙の匂いとともに、簡潔で逃げ場のない文面があらわれた。
《両家の親交は円熟し、つきましては社交界の皆様へ春の良日、仮約の旨を告げたく——》
《前回お越しの“顔合わせ”におけるご承諾(※礼状)をもって可と存ずる》
《なお、反故の節は“名誉回復のための告知”を別紙の通り》
“礼状”の語に、エドガーの眉がぴくりと動く。
「……承諾の書ではない。『本日は礼を得たり、厚く御礼申し上げる』——それだけの礼状を、都合よく“可”に読み替えたな」
セリーヌはいつのまにかそばに来ていた。涼しい笑みのまま、目だけがわずかに光る。
「早耳の社交界は、形を求めますの。お家同士の礼儀が進めば、皆“そうなのだ”と理解する。それを覆すには、より強い形が必要……ご存じでしょう、公爵様」
リディアは小さく息を呑み、エドガーを見上げた。
彼は封書を折りたたみ、きっぱりと告げる。
「——覆す。すぐに」
控室。
エドガー、リディア、そして駆けつけた公爵夫妻が向かい合う。
父は苦い顔で文面を読み、低く言った。
「体面を立てつつ退く余地は、用意されていないな。これでは断れば“非礼”の烙印が残る」
「非礼の烙印が欲しくて書いている。——だが、乗らない」
母がリディアへやわらかな眼差しを向ける。「あなたに火の粉がかかる。それでも?」
リディアは青い布切れの上から手首を押さえ、はっきり頷いた。
「私が選んだのは“静かに耐えること”じゃなくて、彼の隣に立つことです」
父は短く息を吐き、諦観と誇りの混じった目で息子を見た。
「ならば方法は一つ。社交評議会の公告窓口に今夜のうちに“訂正と反論”を届ける。——ただし、受付はすでに閉まっている。責任書記官を探し出さねば」
エドガーが即答する。「居場所に心当たりがある。ジュリアンだ。評議会の舞台監督の伝で書記局に通じている」
ちょうどその名が口に上ったところへ、扉が控えめに叩かれた。
「呼ばれた気がしまして」
燕尾服の上着を肩に掛けたジュリアンが、半分冗談の顔で立っていた。
エドガーは余計な前置きを省き、事情を一気に告げる。
ジュリアンは眉を上げ、そして頷いた。
「印刷所の版は今まさに締め。差し込みの“訂正札”なら、まだ間に合う。書記官は今夜、評議会別館の楽屋口にいる。行きましょう」
「私も行くわ」
リディアの声は静かだが退かない。
父が母へ目配せをし、母が小さく微笑む。「——行ってらっしゃい。**“礼儀のための反礼儀”**を、きちんと形にしておいで」
夜の王都を、四人は早駕籠で駆けた。
石畳に車輪が鳴り、春の風がコートの裾をはためかせる。
評議会別館の裏口——舞台装置の木枠が積まれた暗がりに、ランプの灯りが二つ揺れていた。
書記官は痩せ型の男で、羽根ペンを耳に挟んだまま顔を上げた。
「差し込み訂正札? 既に一件、侯爵家から『名誉回復の告知』が入りまして——」
「その“名誉回復”に先んじて、事実の訂正を載せる」
エドガーは自らの名と紋章を記した一筆を差し出す。
《本日記事の“婚約予告”は、当家の承諾によるものにあらず。先日の礼状は社交儀礼の範囲であり、縁組の同意ではない》
《社交界の誤解を避けるため、この訂正を掲げられたい》
書記官は紙面をすばやく追い、顔をしかめた。
「文面は十分。ただ——費用と保証がいる。夜間の版差し替えは高い。万一の係争に備え、質(しち)が必要だ」
エドガーはためらわない。懐から取り出したのは、家の印章ではなく、自分の指に巻いていた褪せた青——
リディアの指が、反射的にそれを押さえる。
「それは、駄目」
彼が目を見張る。
「質に出すなら、私のを」
リディアは胸元から小箱を取り出し、押し花の忘れな草をそっと差し出した。
ジュリアンが苦笑して止める。「さすがに花は質草になりません」
場の空気がわずかに和らぎ、エドガーは代わりに自身のサイン入り手形と、袖口の銀のカフリンクスを外した。
「これで足りるか」
「足ります」
書記官は頷き、羽根ペンを走らせる。「版に“訂正札”を差す。明朝の一面右上、見出し下に必ず載る」
紙が交わされ、印が捺される音が、夜の静けさにくっきり響いた。
用件を終え、外へ出ると、薄雲の切れ間に月。
石畳に落ちる四人の影がほどけ、ジュリアンが気を利かせて一歩退いた。
「私は印刷所へ回ります。——お二人は、言葉を出す番ですよ」
彼は軽く帽子を持ち上げ、暗がりへ消えた。
残された二人。
エドガーがそっとリディアの手を取る。「あの青を、質に出しかけた」
「出しかけただけで、心が痛かった」
「二度としない。……代わりに、全部の言葉を出す」
彼は深く息を吸い、夜の空気にまっすぐ言葉を放った。
「——俺は、リディア・ハートリーを妻に迎えたい。家の都合でなく、俺の望みで」
言葉は、これまで飲み込み続けた全ての代わりに、短く、正確に落ちた。
胸の奥が熱くなり、リディアはかすかに笑う。
「私も。あなたの隣に立ちたい。家のためでも、社交の形のためでもなく、私の望みで」
二人の距離が一つ分近づき、夜の冷たさが少し和らいだ。
その直後——石畳の端で、ドレスの裾が音もなく止まる。
セリーヌだった。薄いショールを肩にかけ、静かな微笑みだけをまとっている。
「訂正札、間に合わせたのね。——早いわ」
エドガーは目を細める。「見ていたのか」
「侯爵家は形に長けています。あなた方が“形”で返すか、見てみたかったの」
セリーヌはリディアへ視線を移す。「おめでとう、と言うべきかしら。けれど、ひとつ忠告を。形は一度で終わらない。次は“証”を求められるわ」
「証?」
「あなたが“家を揺るがす存在ではない”という証。社交の目は残酷ですもの。噂に抗うには、公の支えが要る」
そう言って、彼女は半歩近づいた。
「私が欲しいのは、“勝ち”ではないの。納得。——彼の選択に、社交界が納得する筋道を用意できる?」
挑むでも刺すでもない、奇妙に平らな声音。
リディアは青の結び目を指でなぞり、まっすぐに頷いた。
「用意します。私たちで」
セリーヌは短く笑い、踵を返した。「では、次の一手を見せて」
夜更けの帰路。
馬車の中で、公爵家の紋章を刻んだシートがきしむ。
エドガーは窓越しに流れる灯りを眺め、ぽつりと言った。
「“証”——何を差し出せばいい」
「私たちが、逃げないこと」
リディアは自分でも驚くほど落ち着いた声で続けた。
「あなたの父上と母上に、私の言葉で話す。社交紙の訂正は形。次は、家族の承認という形を」
「連れていく。……今度は、俺が隣で全部言う」
二人は短く笑い合い、そして黙った。
沈黙は重くなく、同じ方向を向く静けさだった。
翌朝。
王都の角ごとに少年の声が響く。
「朝刊! 訂正告知つきだよ、侯爵家と公爵家!」
広げられた一面右上、見出し下。
《公爵家、婚約予告を否とす》
《礼状は承諾にあらず》
ざわめく通り。眉をひそめる者、安堵の息を漏らす者、面白がって唇を歪める者。
その波の中で、セリーヌは馬車の窓辺に指を添え、短く呟いた。
「——次は、“承認”ね」
同じ頃、公爵本邸の応接間。
父母の前に、エドガーとリディアが並んで立つ。
エドガーが口を開くより先に、リディアが一歩出た。
「私から申し上げます。昨夜、訂正をお願いしたのは……公爵様と、私の選択を守るためです。どれほど時間がかかっても、私は逃げません」
母の目がやわらかく揺れる。父は無言で机に置かれた朝刊の見出しへ視線を落とし、ゆっくりと息を吐いた。
「社交は結果だけを見る。だが、家族は過程を見る。——逃げないなら、見せてもらおう」
“承認”への道は、いま開かれたばかり。
だが廊下の突き当たり、別の扉の向こうでは、侯爵家の使者が新しい文書を携え、到着を告げようとしていた。
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