12 / 51
第十二章 剣と礼節の距離(クリス)
しおりを挟む
王城の朝は早い。
近衛騎士クリス・グレイは、まだ冷たい空気の中を歩きながら、胸元の手袋を整えていた。
(……昨夜のこと。
あれは、きっと“誤解”になっている)
王都に広まった号外。
あの影絵の図版。
シャーロットが、どんな思いで読んだのかと想像すると、
胸が痛んで仕方ない。
(ヴァレンタイン嬢は……どんな顔をされただろう)
彼女は、自分の噂よりも周囲の迷惑を気にする人だ。
きっと、誰より苦しく感じているに違いない。
昼下がり。
王城の回廊で、クリスはようやく彼女の姿を見つけた。
通り雨のせいで、光は薄く揺れている。
シャーロットは濡れた石畳を避け、廊下で侍女と話していた。
(……よかった。お元気そうだ)
安堵しつつも、彼の視線は自然と“あるもの”へ向かってしまう。
――白い箱。
――薄紅の花束。
(……やはり持っている)
胸の奥がざわりと揺れた。
だが、それを顔にも声にも出さず、クリスはゆっくりと近づいた。
「ヴァレンタイン嬢。……少しよろしいでしょうか」
シャーロットの肩が、ふっと震えた。
それでも振り向いた彼女は、気まずそうに微笑む。
「クリス様……ごきげんよう」
「昨日の……夜会の件で。
ご迷惑をかけしてしまったかと……」
言いかけたところで、
シャーロットは小さく首を振った。
「わたしは……大丈夫です。
ただ……」
視線が、花束へ落ちる。
「誤解が広がらないよう……気をつけなくては、と思って」
(やはり……彼女は自分ではなく、“周り”を気にしている)
クリスの胸が、静かに締めつけられた。
「その……」
クリスは意を決して口を開く。
「その花束は……誰から?」
シャーロットは一瞬、言葉に詰まった。
「……それが、わからなくて。
名が書かれていなくて……」
「そう……ですか」
彼女は嘘をついている気配はない。
本当に知らないのだろう。
だがクリスの脳裏に冷たい予感が走る。
(もし……
誰かが意図的に“そう見えるように”したのだとしたら?)
昨夜の影、鏡、照度。
整いすぎた舞台。
クリスは静かに言う。
「……くれぐれも、お気をつけください。
ヴァレンタイン嬢。
“影”は、あなたの心まで揺らしてしまう」
シャーロットは、はっと息をのんだ。
「影……?」
「近衛としての私の助言です」
クリスは、礼節を崩さないまま言葉を続ける。
「影は、見る角度で形を変えます。
その影を、誰かが“物語”として使うことも、ある」
(本当はもっと強く言いたい。
“あなたを守りたい”と――
だが、それは言えない)
彼は騎士。
そして、彼女には“誰を想う人なのか”が、明らかに心にいる。
シャーロットが小さく尋ねる。
「クリス様は……わたしが困っていると……思われましたか?」
「……困っておられるように見えました」
その一言が、彼女の胸にすっと染みた。
(……この方は……どうしてこんなに……やさしいの?)
だが――
その優しさは、別の誤解を生む。
「ヴァレンタイン嬢」
クリスは深く頭を下げた。
「あなたの名誉を守るのは、近衛の責務です。
花束の件も、影の件も――
必ず調べます。
どうか……ご心配なさらず」
「クリス様……」
その誠実な姿を見たとき、
シャーロットの胸に罪悪感が生まれた。
(……わたし……誤解されている?
この優しさを……“特別な想い”と……
もし誰かに思われたら……)
彼女の顔色が薄く変わる。
クリスは気づく。
だが、それを誤って解釈してしまう。
(……やはり“あの図版”が……
嫌悪や不信を生んでしまっているのか)
「本当に……申し訳ありません」
深く礼をする。
距離は近いのに、心はまた遠くなる。
立ち去る前、クリスは小声で言った。
「……その花束。
“誰からか”がわかるまでは、温室に置いておいてください」
「……はい」
「そして……」
クリスは振り返らずに続けた。
「マリナ嬢とは……できる限り“距離”を」
「え……?」
「礼節と善意の仮面は、ときに……
最も鋭い刃になりますので」
その言葉は、
シャーロットの胸に不思議な冷たさを残した。
騎士の足音が遠ざかる。
残されたシャーロットは、
花束を抱えたまま静かに目を伏せた。
(……どうしよう。
わたし……誰にも聞けない)
温室の窓が揺れ、
一瞬だけ、薄紅の花弁が影を伸ばした。
近衛騎士クリス・グレイは、まだ冷たい空気の中を歩きながら、胸元の手袋を整えていた。
(……昨夜のこと。
あれは、きっと“誤解”になっている)
王都に広まった号外。
あの影絵の図版。
シャーロットが、どんな思いで読んだのかと想像すると、
胸が痛んで仕方ない。
(ヴァレンタイン嬢は……どんな顔をされただろう)
彼女は、自分の噂よりも周囲の迷惑を気にする人だ。
きっと、誰より苦しく感じているに違いない。
昼下がり。
王城の回廊で、クリスはようやく彼女の姿を見つけた。
通り雨のせいで、光は薄く揺れている。
シャーロットは濡れた石畳を避け、廊下で侍女と話していた。
(……よかった。お元気そうだ)
安堵しつつも、彼の視線は自然と“あるもの”へ向かってしまう。
――白い箱。
――薄紅の花束。
(……やはり持っている)
胸の奥がざわりと揺れた。
だが、それを顔にも声にも出さず、クリスはゆっくりと近づいた。
「ヴァレンタイン嬢。……少しよろしいでしょうか」
シャーロットの肩が、ふっと震えた。
それでも振り向いた彼女は、気まずそうに微笑む。
「クリス様……ごきげんよう」
「昨日の……夜会の件で。
ご迷惑をかけしてしまったかと……」
言いかけたところで、
シャーロットは小さく首を振った。
「わたしは……大丈夫です。
ただ……」
視線が、花束へ落ちる。
「誤解が広がらないよう……気をつけなくては、と思って」
(やはり……彼女は自分ではなく、“周り”を気にしている)
クリスの胸が、静かに締めつけられた。
「その……」
クリスは意を決して口を開く。
「その花束は……誰から?」
シャーロットは一瞬、言葉に詰まった。
「……それが、わからなくて。
名が書かれていなくて……」
「そう……ですか」
彼女は嘘をついている気配はない。
本当に知らないのだろう。
だがクリスの脳裏に冷たい予感が走る。
(もし……
誰かが意図的に“そう見えるように”したのだとしたら?)
昨夜の影、鏡、照度。
整いすぎた舞台。
クリスは静かに言う。
「……くれぐれも、お気をつけください。
ヴァレンタイン嬢。
“影”は、あなたの心まで揺らしてしまう」
シャーロットは、はっと息をのんだ。
「影……?」
「近衛としての私の助言です」
クリスは、礼節を崩さないまま言葉を続ける。
「影は、見る角度で形を変えます。
その影を、誰かが“物語”として使うことも、ある」
(本当はもっと強く言いたい。
“あなたを守りたい”と――
だが、それは言えない)
彼は騎士。
そして、彼女には“誰を想う人なのか”が、明らかに心にいる。
シャーロットが小さく尋ねる。
「クリス様は……わたしが困っていると……思われましたか?」
「……困っておられるように見えました」
その一言が、彼女の胸にすっと染みた。
(……この方は……どうしてこんなに……やさしいの?)
だが――
その優しさは、別の誤解を生む。
「ヴァレンタイン嬢」
クリスは深く頭を下げた。
「あなたの名誉を守るのは、近衛の責務です。
花束の件も、影の件も――
必ず調べます。
どうか……ご心配なさらず」
「クリス様……」
その誠実な姿を見たとき、
シャーロットの胸に罪悪感が生まれた。
(……わたし……誤解されている?
この優しさを……“特別な想い”と……
もし誰かに思われたら……)
彼女の顔色が薄く変わる。
クリスは気づく。
だが、それを誤って解釈してしまう。
(……やはり“あの図版”が……
嫌悪や不信を生んでしまっているのか)
「本当に……申し訳ありません」
深く礼をする。
距離は近いのに、心はまた遠くなる。
立ち去る前、クリスは小声で言った。
「……その花束。
“誰からか”がわかるまでは、温室に置いておいてください」
「……はい」
「そして……」
クリスは振り返らずに続けた。
「マリナ嬢とは……できる限り“距離”を」
「え……?」
「礼節と善意の仮面は、ときに……
最も鋭い刃になりますので」
その言葉は、
シャーロットの胸に不思議な冷たさを残した。
騎士の足音が遠ざかる。
残されたシャーロットは、
花束を抱えたまま静かに目を伏せた。
(……どうしよう。
わたし……誰にも聞けない)
温室の窓が揺れ、
一瞬だけ、薄紅の花弁が影を伸ばした。
21
あなたにおすすめの小説
王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
【本編完結・番外編不定期更新】
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます
旦那様に学園時代の隠し子!? 娘のためフローレンスは笑う-昔の女は引っ込んでなさい!
恋せよ恋
恋愛
結婚五年目。
誰もが羨む夫婦──フローレンスとジョシュアの平穏は、
三歳の娘がつぶやいた“たった一言”で崩れ落ちた。
「キャ...ス...といっしょ?」
キャス……?
その名を知るはずのない我が子が、どうして?
胸騒ぎはやがて確信へと変わる。
夫が隠し続けていた“女の影”が、
じわりと家族の中に染み出していた。
だがそれは、いま目の前の裏切りではない。
学園卒業の夜──婚約前の学園時代の“あの過ち”。
その一夜の結果は、静かに、確実に、
フローレンスの家族を壊しはじめていた。
愛しているのに疑ってしまう。
信じたいのに、信じられない。
夫は嘘をつき続け、女は影のように
フローレンスの生活に忍び寄る。
──私は、この結婚を守れるの?
──それとも、すべてを捨ててしまうべきなの?
秘密、裏切り、嫉妬、そして母としての戦い。
真実が暴かれたとき、愛は修復か、崩壊か──。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 いいね❤️励みになります!ありがとうございます!
好きでした、婚約破棄を受け入れます
たぬきち25番
恋愛
シャルロッテ子爵令嬢には、幼い頃から愛し合っている婚約者がいた。優しくて自分を大切にしてくれる婚約者のハンス。彼と結婚できる幸せな未来を、心待ちにして努力していた。ところがそんな未来に暗雲が立ち込める。永遠の愛を信じて、傷つき、涙するシャルロッテの運命はいかに……?
※十章を改稿しました。エンディングが変わりました。
氷の騎士と契約結婚したのですが、愛することはないと言われたので契約通り離縁します!
柚屋志宇
恋愛
「お前を愛することはない」
『氷の騎士』侯爵令息ライナスは、伯爵令嬢セルマに白い結婚を宣言した。
セルマは家同士の政略による契約結婚と割り切ってライナスの妻となり、二年後の離縁の日を待つ。
しかし結婚すると、最初は冷たかったライナスだが次第にセルマに好意的になる。
だがセルマは離縁の日が待ち遠しい。
※小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
幼馴染の許嫁
山見月 あいまゆ
恋愛
私にとって世界一かっこいい男の子は、同い年で幼馴染の高校1年、朝霧 連(あさぎり れん)だ。
彼は、私の許嫁だ。
___あの日までは
その日、私は連に私の手作りのお弁当を届けに行く時だった
連を見つけたとき、連は私が知らない女の子と一緒だった
連はモテるからいつも、周りに女の子がいるのは慣れいてたがもやもやした気持ちになった
女の子は、薄い緑色の髪、ピンク色の瞳、ピンクのフリルのついたワンピース
誰が見ても、愛らしいと思う子だった。
それに比べて、自分は濃い藍色の髪に、水色の瞳、目には大きな黒色の眼鏡
どうみても、女の子よりも女子力が低そうな黄土色の入ったお洋服
どちらが可愛いかなんて100人中100人が女の子のほうが、かわいいというだろう
「こっちを見ている人がいるよ、知り合い?」
可愛い声で連に私のことを聞いているのが聞こえる
「ああ、あれが例の許嫁、氷瀬 美鈴(こおりせ みすず)だ。」
例のってことは、前から私のことを話していたのか。
それだけでも、ショックだった。
その時、連はよしっと覚悟を決めた顔をした
「美鈴、許嫁をやめてくれないか。」
頭を殴られた感覚だった。
いや、それ以上だったかもしれない。
「結婚や恋愛は、好きな子としたいんだ。」
受け入れたくない。
けど、これが連の本心なんだ。
受け入れるしかない
一つだけ、わかったことがある
私は、連に
「許嫁、やめますっ」
選ばれなかったんだ…
八つ当たりの感覚で連に向かって、そして女の子に向かって言った。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる