偽りのの誓い

柴田はつみ

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第六回

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カフェでの一件以来、カレンと翔の間には、これまでとは、違う、妙な緊張感が漂っていた。偽りの夫婦という建前は変わらないのに、翔は以前にも増して「夫」を演じようとするし、カレンもまた、その演技に内心で動揺することが増えていた。

そして、美咲の存在が、二人の間に常に影を落としていた。

ある日の夕食時、翔はソファでタブレットを操作し、カレンはダイニングテーブルで雑誌を読んでいた。

普段と変わらない日常のはずなのに、沈黙が重い。

「‥‥ねえ、翔」

先に口を開いたのはカレンだった。

「何だ?」

翔はタブレットから目を離さずに答える。

「この前の佐伯さんとの件だけどさ‥‥別に、変な関係じゃないから」

「わかってる」

翔はぶっきらぼうに言った。

「わかってないでしょ?あの時の態度、まるで本当の夫みたいじゃない」

カレンは雑誌を閉じ、翔を真っ直ぐ見つめた。翔は、ようやくタブレットを置き、カレンに視線を向けた。

「俺は、契約通り『夫』を演じていただけだ」

「じゃあ、何であんなに不機嫌だったのよ?まるで、私が浮気でもしたみたいな顔して」

カレンの言葉に、翔は顔をしかめた。

「浮気じゃないのはわかってる。だが、人前であんな風に男と親密にしている姿を見たら、誰だって気分良くないだろう」

「それはこっちのセリフよ!あんたこそ、渋谷さんといつもベッタリじゃない!」

カレンは思わず声を上げた。翔の表情が一瞬で険しくなる。

「渋谷は秘書だ。仕事だ」

「仕事で人の腕に触れたり、コソコソ耳打ちしたりするわけ?それに、プライベートな時間に会社の備品を買いに行かせてるんでしょ?私にはただの有能な秘書には見えないけどね」

カレンは、これまで胸に溜め込んでいた不満をぶちまけた。翔は、反論しようと口を開きかけたが、すぐに閉じた。

「‥‥‥君は、俺が渋谷とどういう関係だとでも思ってるんだ」

翔の問いに、カレンは挑発的に答えた。

「さあ?でも社内では『社長と秘書はデキてるらしい』って専らの噂よ」

翔は深いため息をついた。

「くだらない噂だ。俺は、仕事に必要な人材として彼女を信頼しているだけだ」

「へえ。だったら、もっと公私をきっちり分けるべきじゃない?私だって、あなたの『妻』として、変な噂が立つのはごめんだわ」

カレンは腕を組み、不満げな顔をした。翔は、しばらくカレンをじっと見つめていたが、やがて視線を逸らした。

「‥‥‥わかった。少し、彼女に注意しておく」

その言葉に、カレンは少し驚いた。まさか翔が素直に聞き入れるとは思わなかったからだ。

「‥‥‥本当に?」

「ああ。君がそこまでいうならな」

翔は再びタブレットに目を向けたが、その横顔はどこか落ち着かない様子だった。

数日後、カレンは会社を訪れると、美咲が翔の執務室から出てくるのを見かけた。美咲の顔は、いつもと違い、どこか浮かない表情をしていた。

「渋谷さん、どうかしたの?」

カレンが声をかけると、美咲は一瞬、ハッとしたように目を見開き、すぐに作り笑顔を浮かべた。

「奥様。いえ、何でもございません」

「何だか元気がないように見えるけど」

カレンが続けると、美咲はため息を漏らした。

「‥‥‥実は、社長から少し、距離を置くように言われまして」

美咲の言葉に、カレンは内心ニヤリとした。翔が本当に注意したらしい。

「あら、そうなの?なぜかしら?」

「さあ‥‥。ですが、奥様にご迷惑をかけるわけに行きませんから、社長のおっしゃる通りにいたします」

美咲はそう言って、ぺこりと頭を下げた。その言葉は、建前としては完璧だったが、その声のトーンには、明らかに不満と、ほんの少しの恨みが滲んでいるようにカレンには聞こえた。

「そう。わかってもらえて助かるわ。夫婦円満が一番ですものね」

カレンは、わざとらしくにこやかに微笑んだ。美咲は、その笑顔を見て、顔を引きつらせた。

「‥‥‥はい」

美咲はそれだけ言うと、足早に去っていった。カレンは、美咲の後ろ姿を見送りながら、小さくため息をついた。

これで少しは、彼女の態度は変わるだろうか。執務室に入ると、翔はデスクに向かっていた。カレンは彼の背中に向かって言った。

「翔、渋谷さんに何か言ったの?」

翔は椅子を回転させ、カレンの方見た。

「ああ。君が気にしていたようだったからな」

「あら、私の言葉を聞き入れたの?珍しいわね」

カレンが茶化すように言うと、翔は少し不機嫌そうに答えた。

「べつに、いつも君の言葉を聞いてないわけじゃない。だが、これで文句はないだろう?」

「文句はないけど‥‥なんか、変な感じ」

カレンは素直にそう言った。翔が自分の言葉を受け入れたこと、そして美咲があんなに落ち込んでいることに、カレン自身が戸惑っていた。

「変な感じ?」

「だって、私たち、偽装結婚なのに。まるで本当に私が嫉妬したみたいじゃない」

カレンはそう言って、自嘲気味に笑った。翔は、カレンのその言葉に、少しだけ複雑な表情を浮かべた。

「‥‥さあな。だが、これも契約のうちだ。俺も、君の要求には応える」

翔はそう言って、再び仕事に戻ろうとした。カレンは、その背中をみつめながら、自分の心の奥底にある感情に気づき始めていた。この偽りの結婚は、すでに当初の「契約」という範囲を、とっくに超えてしまっているのかもしれない。
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