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第八回
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健太との再会は、カレンの心を奇妙な波紋で溢れていた。
翔が送ってきた「信じていいんだな?」というメッセージに、カレンは、既読をつけたものの、 返信はしなかった。
彼の言葉が、本心なのか、それとも単なる「夫」の演技なのか、判別がつかなかったからだ。そんなモヤモヤを抱えたまま、一週間が過ぎた。
ある日の午後、カレンは自宅のリビングで、翔が仕事の電話をしているのを耳にした。
「ああ、渋谷。その件は、明日の会議で改めて説明する。‥‥いや、その必要はない。私が直接対応する」
翔の声は、普段よりも幾分か鋭い。カレンは、美咲との間に何かあったのかと耳をそばだてた。電話を切った翔が、大きなため息をついてソファに深く沈み込む。
「どうしたの?渋谷さんと何かあった?」
カレンが問いかけると、翔は眉間に深い皺を刻んだ。
「君のせいで、また面倒なことになった」
「私のせい?何よそれ」
カレンは思わず声を荒げた。
「あの時、渋谷に『公私をきっちり分けるべきだ』と言っただろう?それを間に受けたのか、彼女、今朝からやたらと距離を置いてくるんだ。仕事の報告も、必要以上に丁寧で、むしろやりにくい」
しょうの言葉に、カレンは呆れてものも言えなかった。美咲が落ち込んでいたのは知っていたが、まさかここまで露骨に態度を変えるとは。
「それは、あなたがそうしろって言ったからでしょ?私のせいじゃないわよ」
「だが、あそこまでやる必要はないだろう!おかげで、社内の空気も妙なことになっている」
翔は頭を抱えた。カレンは、翔が困っているすがたを見るのは嫌いではなかった。
カレンが皮肉っぽく言うと、翔は顔を上げた。
「‥‥‥君は、俺が渋谷をどうしたいと思ってるんだ?」
翔の真剣な眼差しに、カレンは一瞬、息を呑んだ。
「さあ?でも、あの秘書さん、あなたに本気みたいよ?まるで、自分が正妻だとでも言いたげな態度だったじゃない」
カレンは、あえて挑発するように言った。翔は再びため息をついた。
「彼女の気持ちは、俺には関係ない。俺はただ、スムーズに仕事をしたいだけだ」
「だったら、もっとはっきり言ってあげれば?期待させるとか、そういうのは一番残酷よ」
カレンの言葉に、翔はハッとしたように目を見開いた。そして、カレンの顔をじっと見つめた。その視線に、カレンは少しだけ居心地の悪さを感じた。
翌日、翔は美咲を自分のオフィスに呼び出した。カレンは、何となく気になって、執務室のドアの隙間から二人の様子を伺っていた。
「渋谷、先日言った件だが」
翔の声は、いつもよりも真剣だった。美咲は、緊張した面持ちで翔の前に立っている。
「はい、社長。わたくし、社長のご指示通り、奥様にご迷惑をおかけしないよう、常に公私の区別をつけさせていただきます」
美咲は、まるで模範解答を読み上げるかのように言った。翔は、深いため息をついた。
「いや、そうじゃない。君には、感謝している。これまで、本当に俺を支えてきてくれた。君がいなければ、今の高見沢グループはなかっただろう」
翔の言葉に、美咲の表情が少し緩んだ。
「もったいないお言葉です、社長」
「だが‥‥俺は、君をそういう目で見たことは一度もない」
翔は、真っ直ぐに美咲の目を見て言った。その言葉に、美咲の顔から血の気が引いていくのが、カレンにもわかった。
「‥‥‥え?」
美咲の震える声が、執務室に響いた。
「君は、あくまで俺の優秀な秘書であり、かけがえのないパートナーだ。それ以上でも、それ以下でもない」
翔の言葉には、残酷なほど明確だった。みさきの瞳が潤み、唇が小さく震えている。
「社長‥‥‥それは、どういう‥‥‥」
「君が俺に対して、何らかの特別な感情を抱いているとすれば、それは‥‥誤解だ。俺には、今のところ、君をそういう風に見てやることはできない」
翔は、言葉を選びながらも、はっきりと美咲の想いを否定した。美咲は、その場に崩れ落ちそうになりながらも、何とか耐えていた。
「‥‥っ、承知いたしました、社長。わたくし、自分の立場をわきまえず、大変失礼いたしました」
美咲は、絞り出すような声でそういうと、深々と頭を下げた。そして、顔を上げることなく、執務室を後にした。
ドアの隙間から一部始終を見ていたカレンは、驚きと同時に、言いようのない感情を抱いた。翔は、自分の言葉を受け入れ、美咲にきちんと区切りをつけた。
それは、カレンが望んだことだったはずだ。なのに、なぜか心がざわつく。
翔が振り返り、ドアの方を見た。カレンは咄嗟に隠れたが、彼の視線がこちらを向いたような気がした。
「‥‥そこにいるんだろう、カレン」
翔の声に、カレンはゆっくりと執務室に入った。
「どうしてわかったのよ」
「気配でな。それで、今の話、全部聞いていたんだろ?」
翔は、どこか疲れたような表情でカレンを見た。カレンは気まずそうに頷いた。
「‥‥うん。全部」
「どうだ?これで文句はないだろう?君が望んだ通りにしたんだから」
翔は、どこか試すような目でカレンを見つめた。カレンは、言葉に詰まった。
「‥‥別に、文句はないけど」
「なのに、どうしてそんな顔をするんだ?」
翔の問いに、カレンは答えられなかった。美咲の悲しい顔が、脳裏に焼き付いている。そして、翔がこんなにも自分の言葉に真剣に向き合ってくれたことに、カレン自身の心が、契約では割り切れない感情を抱き初めていることに気づかされた。
この偽装結婚は、もう、後戻りできないところまで来てしまっているのかもしれない。
翔が送ってきた「信じていいんだな?」というメッセージに、カレンは、既読をつけたものの、 返信はしなかった。
彼の言葉が、本心なのか、それとも単なる「夫」の演技なのか、判別がつかなかったからだ。そんなモヤモヤを抱えたまま、一週間が過ぎた。
ある日の午後、カレンは自宅のリビングで、翔が仕事の電話をしているのを耳にした。
「ああ、渋谷。その件は、明日の会議で改めて説明する。‥‥いや、その必要はない。私が直接対応する」
翔の声は、普段よりも幾分か鋭い。カレンは、美咲との間に何かあったのかと耳をそばだてた。電話を切った翔が、大きなため息をついてソファに深く沈み込む。
「どうしたの?渋谷さんと何かあった?」
カレンが問いかけると、翔は眉間に深い皺を刻んだ。
「君のせいで、また面倒なことになった」
「私のせい?何よそれ」
カレンは思わず声を荒げた。
「あの時、渋谷に『公私をきっちり分けるべきだ』と言っただろう?それを間に受けたのか、彼女、今朝からやたらと距離を置いてくるんだ。仕事の報告も、必要以上に丁寧で、むしろやりにくい」
しょうの言葉に、カレンは呆れてものも言えなかった。美咲が落ち込んでいたのは知っていたが、まさかここまで露骨に態度を変えるとは。
「それは、あなたがそうしろって言ったからでしょ?私のせいじゃないわよ」
「だが、あそこまでやる必要はないだろう!おかげで、社内の空気も妙なことになっている」
翔は頭を抱えた。カレンは、翔が困っているすがたを見るのは嫌いではなかった。
カレンが皮肉っぽく言うと、翔は顔を上げた。
「‥‥‥君は、俺が渋谷をどうしたいと思ってるんだ?」
翔の真剣な眼差しに、カレンは一瞬、息を呑んだ。
「さあ?でも、あの秘書さん、あなたに本気みたいよ?まるで、自分が正妻だとでも言いたげな態度だったじゃない」
カレンは、あえて挑発するように言った。翔は再びため息をついた。
「彼女の気持ちは、俺には関係ない。俺はただ、スムーズに仕事をしたいだけだ」
「だったら、もっとはっきり言ってあげれば?期待させるとか、そういうのは一番残酷よ」
カレンの言葉に、翔はハッとしたように目を見開いた。そして、カレンの顔をじっと見つめた。その視線に、カレンは少しだけ居心地の悪さを感じた。
翌日、翔は美咲を自分のオフィスに呼び出した。カレンは、何となく気になって、執務室のドアの隙間から二人の様子を伺っていた。
「渋谷、先日言った件だが」
翔の声は、いつもよりも真剣だった。美咲は、緊張した面持ちで翔の前に立っている。
「はい、社長。わたくし、社長のご指示通り、奥様にご迷惑をおかけしないよう、常に公私の区別をつけさせていただきます」
美咲は、まるで模範解答を読み上げるかのように言った。翔は、深いため息をついた。
「いや、そうじゃない。君には、感謝している。これまで、本当に俺を支えてきてくれた。君がいなければ、今の高見沢グループはなかっただろう」
翔の言葉に、美咲の表情が少し緩んだ。
「もったいないお言葉です、社長」
「だが‥‥俺は、君をそういう目で見たことは一度もない」
翔は、真っ直ぐに美咲の目を見て言った。その言葉に、美咲の顔から血の気が引いていくのが、カレンにもわかった。
「‥‥‥え?」
美咲の震える声が、執務室に響いた。
「君は、あくまで俺の優秀な秘書であり、かけがえのないパートナーだ。それ以上でも、それ以下でもない」
翔の言葉には、残酷なほど明確だった。みさきの瞳が潤み、唇が小さく震えている。
「社長‥‥‥それは、どういう‥‥‥」
「君が俺に対して、何らかの特別な感情を抱いているとすれば、それは‥‥誤解だ。俺には、今のところ、君をそういう風に見てやることはできない」
翔は、言葉を選びながらも、はっきりと美咲の想いを否定した。美咲は、その場に崩れ落ちそうになりながらも、何とか耐えていた。
「‥‥っ、承知いたしました、社長。わたくし、自分の立場をわきまえず、大変失礼いたしました」
美咲は、絞り出すような声でそういうと、深々と頭を下げた。そして、顔を上げることなく、執務室を後にした。
ドアの隙間から一部始終を見ていたカレンは、驚きと同時に、言いようのない感情を抱いた。翔は、自分の言葉を受け入れ、美咲にきちんと区切りをつけた。
それは、カレンが望んだことだったはずだ。なのに、なぜか心がざわつく。
翔が振り返り、ドアの方を見た。カレンは咄嗟に隠れたが、彼の視線がこちらを向いたような気がした。
「‥‥そこにいるんだろう、カレン」
翔の声に、カレンはゆっくりと執務室に入った。
「どうしてわかったのよ」
「気配でな。それで、今の話、全部聞いていたんだろ?」
翔は、どこか疲れたような表情でカレンを見た。カレンは気まずそうに頷いた。
「‥‥うん。全部」
「どうだ?これで文句はないだろう?君が望んだ通りにしたんだから」
翔は、どこか試すような目でカレンを見つめた。カレンは、言葉に詰まった。
「‥‥別に、文句はないけど」
「なのに、どうしてそんな顔をするんだ?」
翔の問いに、カレンは答えられなかった。美咲の悲しい顔が、脳裏に焼き付いている。そして、翔がこんなにも自分の言葉に真剣に向き合ってくれたことに、カレン自身の心が、契約では割り切れない感情を抱き初めていることに気づかされた。
この偽装結婚は、もう、後戻りできないところまで来てしまっているのかもしれない。
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