『影の夫人とガラスの花嫁』

柴田はつみ

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第29章「夜の別邸行き(影の追跡)」

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白百合の香りが
まだ空気に溶け残っていた。

シャルロットは手帳を胸に抱いたまま、
震える指でページを閉じた。

(わたくしは……
 本物の妻……?
 でも……ミレイユは……
 わたくしを“消したい”……)

心臓が速くなる。
身体が思うように動かない。

カルロスがそばに立っているのに、
その手は、
触れられないまま。

その距離でさえ、
今は痛かった。

「……シャルロット。
 ここを離れるぞ」

「……どこへ……?」

カルロスの目が静かに揺れる。

「影の始まりの場所。
 前妻エリザベラが最後に向かった“別邸”だ」

シャルロットの背筋に冷たいものが走った。

(別邸……
 エリザベラ様の……最後の足跡……)

「そこに……何が……?」

「真実がある。
 ミレイユが生まれた場所であり、“影が育った場所”だ」

ローザが小さく震えながら言う。

「でも……今夜は危険です……
 影が……あの娘が……
 心を乱している時は……近づくべきでは……」

カルロスの声は冷静だった。

「だから行くんだ」

その言葉に、
シャルロットの胸がぎゅっと締まった。

(公爵さまは……
 わたくしを守るために……
 動いてくださっている……)

でも——

なぜ触れられないのか。
なぜ、あの日から一度も抱きしめてくれないのか。

気持ちを聞く勇気がなかった。



玄関に出ると、
夜の空気は冷たく、
風は鋭かった。

森へ続く道は真っ暗で、
灯りを持っていても
周囲は影が揺れて見える。

馬車が準備され、
車輪がきしんだ音を立てる。

シャルロットが近づいた瞬間——
ふわり、と白百合の香りが漂った。

「……また……」

カルロスが即座にシャルロットの腕を掴んだ。
触れられないはずの手が、
初めてほんの一瞬だけ触れた。

シャルロットは驚きに目を開く。

(……触れた?
 公爵さまが……?)

だが次の瞬間には手を放し、
少し距離を取った。

その目に宿っていたのは——
強い恐怖と、痛いほどの愛。

「馬車に乗れ。
 急ぐぞ」

カルロスはシャルロットを守るように乗り込み、
扉が閉まると同時に馬車は動き始めた。

外は雨が降り出した。

窓を叩く雨音。
馬の足音。
揺れる車体。

そのすべてが、
夜の緊張をさらに強くした。

(怖い……
 でも……
 公爵さまが隣にいる……)

隣にいるのに、
触れられない距離。

その距離が、
一番怖かった。



森の入口に差し掛かった時だった。

——ゴッ。

馬車が突然揺れた。

御者の声が響く。

「だ、誰かが……道の真ん中に……!」

シャルロットの血の気が引く。

(まさか……)

カルロスは剣を手に立ち上がった。

「シャルロット、下がれ」

馬車の窓を雷光が照らす。

その一瞬だけ、
森の奥の影が見えた。

白いワンピース。
長い黒髪。
小さな体。

シャルロットの顔に酷似した少女。

——ミレイユ。

シャルロットは息が止まる。

「……ミレイユ……」

雷が鳴り、
影が一歩こちらへ踏み出した。

ミレイユの声が
雨の音に紛れ、震えるほど美しく響いた。

――「どこへ行くの……シャルロット?」
――「“あなたの家”はここじゃない」

カルロスが叫ぶ。

「退け!!
 お前の目的は何だ!!」

ミレイユの輪郭が揺れ、
雷光のたび姿が微妙に変わる。

まるで“シャルロットの顔を借りた影”のように。

――「私は、帰るだけよ。
   “私の席”へ」

シャルロットの身体が固まる。

(席……?
 わたくしの……?)

ミレイユは、
シャルロットだけを見つめながら言った。

――「ねえ、あなた……知らないの?
   わたしは“あなたの人生”をもらうために
   ずっと作られたのよ」

シャルロットの心臓が強く跳ねた。

(……わたくしの……人生……?
 奪う……ために……?)

カルロスが剣を向ける。

「これ以上、シャルロットに近づくな!!」

ミレイユは笑い、雨の中に一歩沈んだ。

――「邪魔しないで、公爵様。
   あなたはいつもそうやって
   “本物の妻”を守れなかった」

カルロスの目が揺れる。

シャルロットは叫んだ。

「行きましょう、公爵さま!!
 ここは危険です……!」

カルロスは瞬時に判断し、
御者へ叫ぶ。

「走れ!!」

馬車は一気に加速し、
ミレイユの影を振り切った。

だが最後の瞬間。
影の声が馬車の後ろで響いた。

――「別邸へ行くのね」
――「いいわ。
   そこで……全部“返して”もらう」

白百合の香りが風に散り、
ミレイユの姿は消えた。

馬車は雨の森を駆け抜け、
闇の奥にある“別邸”へ向かう。

そこに——
この物語の核心が眠っている。

そして、
シャルロットが“本物の妻”として選ばれた理由も。
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