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第十六章 危険な反抗と、揺らぐ公爵の決意
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リリーは、カイル侯爵の強すぎる独占欲のもとで、静かに耐える日々を送っていた。
彼の視線が常に自分を追っていることを知りながらも、ほんのわずかな隙を見つけては、密やかな準備を進めていた。
彼女が密かに目を通していたのは、侯爵家の古い財務記録だった。
それは反逆でも裏切りでもなく――ただ、自分自身が生き延びるために必要な、慎重な確認作業にすぎなかった。
ある日の午後。
会議のためにカイルが執務室を離れた隙を見て、リリーは棚の奥にしまわれていた簿冊を一冊取り出した。
静かに頁をめくるうち、特定の債務の記録に、わずかな違和感を覚える。
(……この数字)
胸の奥がひやりとする。
彼女はその箇所を忘れぬよう、そっとメモに残そうとした。
その時だった。
「リリアーヌ、どうした?」
背後からかけられた声に、リリーははっと振り返る。
そこに立っていたカイルの表情には、驚きと戸惑い、そして抑えきれない感情が混じっていた。
以前のような冷たい怒りではなく、どこか不安を滲ませた声音だった。
リリーは慌てて簿冊を閉じたが、彼の視線は自然と彼女の手元に向かっていた。
「なぜ、私に断りもなく財務書類を……」
「私を、信用していないのか?」
一拍置き、彼は低く続ける。
「それとも……クリスに、何か伝えようとしているのか」
その言葉には、疑念よりも、失うことへの恐れが色濃く滲んでいた。
カイルの中で、リリーの行動はいつも、クリスの存在と結びついてしまう。
彼女が自分を選んだと信じたい気持ちと、再び奪われるのではないかという不安が、常にせめぎ合っていたのだ。
リリーは一瞬、言葉を選んだ。
真実を語ることが、今は最善ではないと悟り、静かに首を振る。
「違います、カイル様」
柔らかな声で、彼女は続けた。
「公爵家からの干渉を避けるために……私なりに、侯爵家を守る方法を考えていただけです」
「貴方の立場を危うくするつもりなど、ありません」
そう言って、彼女はためらいがちに、彼の手に自分の手を重ねた。
カイルはしばらく黙ったまま、リリーの瞳を見つめていた。
その奥にある感情を確かめるように。
リリーの瞳には、どこか切なげな静けさが宿っていた。
それは演じたものでありながら、同時に彼女自身の真実でもあった。
やがて、カイルは息を吐き、彼女を抱き寄せた。
「……そうか。君は、私の味方なのだな」
腕に込められた力は強かったが、その声には安堵が滲んでいた。
「だが、次からは必ず私に知らせてくれ。君が何かを抱え込むのは……耐えられない」
「君は、私にとって大切な存在なのだから」
その抱擁は、愛情と同時に、逃れがたい重さも含んでいた。
リリーはその胸の中で、静かに目を伏せる。
――この小さな抵抗さえ、彼の不安と支配欲を、より深めてしまうのだと知りながら。
同じ頃、クリス公爵は、公爵家の領地で婚約準備を進めていた。
だが、その心はどこか落ち着かず、常にリリーの面影が胸を離れなかった。
そんな折、侯爵邸に派遣していた顧問から、一通の報告が届く。
――リリー夫人が、侯爵の私的な帳簿を調べていたこと。
――そのことで、侯爵が激しく感情を乱していたこと。
報告を聞いたクリスは、思わず立ち上がった。
(なぜ……?)
彼の中では、どうしても腑に落ちなかった。
(リリーは、カイルを愛し、彼を守ろうとしているはずだ)
(それなのに、危険を承知で帳簿に触れる理由があるのか……)
彼の脳裏に浮かぶのは、二つの姿。
自分を拒み続け、侯爵夫人として振る舞う、毅然としたリリー。
そして、誰にも知られぬところで、危うい行動に踏み出すリリー。
(……愛だけでは、説明がつかない)
ふと、胸の奥に、別の可能性が浮かんだ。
(彼女は、望んでそこにいるのではないのではないか)
(守るためではなく……耐えるために、そうしているのでは)
その考えに至った瞬間、クリスの胸は静かに痛んだ。
だが同時に、それを認めることは、彼自身の過去の選択を否定することでもあった。
それでも、目を背けるわけにはいかない。
クリスは婚約準備を一時止め、侯爵邸でのリリーの状況を、より詳しく探るよう密かに命じた。
かつて断ち切ったはずの想いは、
彼女の小さな、しかし危うい行動によって、再び静かに揺れ始めていた。
彼の視線が常に自分を追っていることを知りながらも、ほんのわずかな隙を見つけては、密やかな準備を進めていた。
彼女が密かに目を通していたのは、侯爵家の古い財務記録だった。
それは反逆でも裏切りでもなく――ただ、自分自身が生き延びるために必要な、慎重な確認作業にすぎなかった。
ある日の午後。
会議のためにカイルが執務室を離れた隙を見て、リリーは棚の奥にしまわれていた簿冊を一冊取り出した。
静かに頁をめくるうち、特定の債務の記録に、わずかな違和感を覚える。
(……この数字)
胸の奥がひやりとする。
彼女はその箇所を忘れぬよう、そっとメモに残そうとした。
その時だった。
「リリアーヌ、どうした?」
背後からかけられた声に、リリーははっと振り返る。
そこに立っていたカイルの表情には、驚きと戸惑い、そして抑えきれない感情が混じっていた。
以前のような冷たい怒りではなく、どこか不安を滲ませた声音だった。
リリーは慌てて簿冊を閉じたが、彼の視線は自然と彼女の手元に向かっていた。
「なぜ、私に断りもなく財務書類を……」
「私を、信用していないのか?」
一拍置き、彼は低く続ける。
「それとも……クリスに、何か伝えようとしているのか」
その言葉には、疑念よりも、失うことへの恐れが色濃く滲んでいた。
カイルの中で、リリーの行動はいつも、クリスの存在と結びついてしまう。
彼女が自分を選んだと信じたい気持ちと、再び奪われるのではないかという不安が、常にせめぎ合っていたのだ。
リリーは一瞬、言葉を選んだ。
真実を語ることが、今は最善ではないと悟り、静かに首を振る。
「違います、カイル様」
柔らかな声で、彼女は続けた。
「公爵家からの干渉を避けるために……私なりに、侯爵家を守る方法を考えていただけです」
「貴方の立場を危うくするつもりなど、ありません」
そう言って、彼女はためらいがちに、彼の手に自分の手を重ねた。
カイルはしばらく黙ったまま、リリーの瞳を見つめていた。
その奥にある感情を確かめるように。
リリーの瞳には、どこか切なげな静けさが宿っていた。
それは演じたものでありながら、同時に彼女自身の真実でもあった。
やがて、カイルは息を吐き、彼女を抱き寄せた。
「……そうか。君は、私の味方なのだな」
腕に込められた力は強かったが、その声には安堵が滲んでいた。
「だが、次からは必ず私に知らせてくれ。君が何かを抱え込むのは……耐えられない」
「君は、私にとって大切な存在なのだから」
その抱擁は、愛情と同時に、逃れがたい重さも含んでいた。
リリーはその胸の中で、静かに目を伏せる。
――この小さな抵抗さえ、彼の不安と支配欲を、より深めてしまうのだと知りながら。
同じ頃、クリス公爵は、公爵家の領地で婚約準備を進めていた。
だが、その心はどこか落ち着かず、常にリリーの面影が胸を離れなかった。
そんな折、侯爵邸に派遣していた顧問から、一通の報告が届く。
――リリー夫人が、侯爵の私的な帳簿を調べていたこと。
――そのことで、侯爵が激しく感情を乱していたこと。
報告を聞いたクリスは、思わず立ち上がった。
(なぜ……?)
彼の中では、どうしても腑に落ちなかった。
(リリーは、カイルを愛し、彼を守ろうとしているはずだ)
(それなのに、危険を承知で帳簿に触れる理由があるのか……)
彼の脳裏に浮かぶのは、二つの姿。
自分を拒み続け、侯爵夫人として振る舞う、毅然としたリリー。
そして、誰にも知られぬところで、危うい行動に踏み出すリリー。
(……愛だけでは、説明がつかない)
ふと、胸の奥に、別の可能性が浮かんだ。
(彼女は、望んでそこにいるのではないのではないか)
(守るためではなく……耐えるために、そうしているのでは)
その考えに至った瞬間、クリスの胸は静かに痛んだ。
だが同時に、それを認めることは、彼自身の過去の選択を否定することでもあった。
それでも、目を背けるわけにはいかない。
クリスは婚約準備を一時止め、侯爵邸でのリリーの状況を、より詳しく探るよう密かに命じた。
かつて断ち切ったはずの想いは、
彼女の小さな、しかし危うい行動によって、再び静かに揺れ始めていた。
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