完璧な夫に「好きになるな」と言われたので、愛されない妻になります

柴田はつみ

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第十四章 「兄が見た夫の変化」


 翌朝、クラウスが公爵家へ来た。

 先触れは、朝食が終わる少し前に届いた。門番から知らせを受けた侍従が食堂へ入り、いつもより少し緊張した声で来客を告げた。

「奥様のご実家より、クラウス様がお越しです。奥様にお会いしたいとのことでございます」

 エリシアは、手にしていたカップを置いた。

 驚かなかったと言えば嘘になる。けれど、来るかもしれないという予感はあった。昨日送った手紙には、一週間待ってほしいと書いた。クラウスなら待ってくれるかもしれないと思った一方で、心配のあまり自分で確かめに来る可能性も十分にあった。

「すぐに応接室へお通ししてください」

 エリシアが答えるより早く、レオンハルトが侍従に言った。

 侍従が下がった後、レオンハルトはエリシアへ向き直った。

「君が一人で会いたいなら、私は同席しない。私もいた方がいいなら、同席する。クラウス殿が私に話があると言うなら、先に私が会う」

 エリシアは、その言葉に少し驚いた。

 決めつけない。命じない。エリシアに選ばせる。

 たったそれだけのことが、今のレオンハルトにとって意識している変化なのだとわかった。

「最初は、私一人で会ってもよろしいでしょうか」

「もちろんだ。ベアトリスを近くに控えさせるか」

「はい。兄が何を言うかわかりませんので」

「私への苦情なら、当然だと思って聞く」

 あまりにも真面目に言うので、エリシアは少しだけ困ってしまった。

「旦那様は、最近ご自分に厳しすぎます」

「厳しくなる理由がある」

「それでも、兄の前で全部を受け止めようとなさらないでください。クラウスお兄様は私の兄ですから、少し感情的になると思います」

「それだけ君を大切にしているのだろう」

 レオンハルトは、静かにそう言った。

 その声に嫉妬や苛立ちはなかった。エリシアを大切に思う兄の存在を、きちんと認めている声だった。

 エリシアは席を立ち、手紙を入れていた小さな引き出しの鍵をポケットに入れた。クラウスに見せるかどうかは、話してから決めるつもりだった。

 応接室へ向かう途中、ベアトリスが廊下の角で待っていた。

「奥様、クラウス様はすでにお越しです。かなりご心配のご様子でございます」

「怒っていましたか」

「怒っているというより、今すぐ奥様を連れて帰る準備をしていらっしゃるお顔でした」

「それは怒っていると言っていいと思います」

 エリシアが苦笑すると、ベアトリスは落ち着いた声で言った。

「けれど、奥様がご自分のお気持ちを伝えれば、必ず聞いてくださる方だと存じます」

「はい。兄は、そういう人です」

 エリシアは応接室の扉の前で一度だけ息を整え、それから中へ入った。

 クラウスは立ったまま待っていた。背が高く、濃い栗色の髪を後ろへ流した兄は、いつもより険しい顔をしていた。騎士ではないが、剣を持たせればそのまま屋敷の者を全員説得して妹を連れ出しそうな迫力がある。

 エリシアを見るなり、クラウスは大きく歩み寄った。

「エリシア」

「お兄様、お越しくださってありがとうございます」

「礼などいい。手紙を読んだ。お前は本当に大丈夫なのか」

 第一声がそれだった。

 エリシアは胸が温かくなるのを感じた。クラウスは昔からそうだった。言葉は乱暴に聞こえることもあるが、必ずエリシアの安全を一番に考えてくれる。

「大丈夫です。少なくとも、今すぐ連れて帰っていただく必要はありません」

「今すぐ必要がないだけで、後で必要になる可能性はあるという言い方だな」

「お兄様は、言葉の端を拾うのが上手すぎます」

「妹が危ない橋を渡ろうとしているなら、端でも何でも拾う」

 クラウスはソファに座るよう促されても、しばらく座らなかった。ようやく腰を下ろした後も、腕を組んでエリシアを見ていた。

「一週間待てと書いてあった。どういうことだ」

「旦那様と話しました。初夜の言葉についても、私が傷ついたことについても、兄に相談していたことについても、すべて話しました」

「それで、あの男は何と言った」

「謝ってくださいました」

 クラウスの眉が動いた。

「謝っただけか」

「それだけではありません。私の意思を無視して引き留めることはしないと言ってくださいました。その上で、一週間だけ自分を見てほしいと頼まれました」

「頼まれたから待つのか」

「それもあります。でも、それだけではありません」

 エリシアは、昨日のことを順に話した。

 レオンハルトが薬草畑へ来たこと。騎士団の詰め所へ一緒に行き、エリシアの提案を公爵家の仕事として扱ってくれたこと。セレスティアに対して、妻であるエリシアを軽く扱うなと線を引いてくれたこと。今日の朝も、クラウスと会うかどうかをエリシアに選ばせてくれたこと。

 クラウスは最後まで黙って聞いていたが、納得した顔ではなかった。

「行動し始めたことは認める。だが、一ヶ月以上お前を傷つけておいて、二日や三日で帳消しになる話ではない」

「私も、帳消しになるとは思っていません」

「なら、どうして迷う」

 エリシアは膝の上で手を重ねた。

「旦那様が、変わろうとしているからです。私はその変化を見て、少し嬉しいと思ってしまいました。だから、今すぐ離れると決めたら、自分の気持ちに嘘をつくことになる気がしました」

 クラウスの表情が、痛みをこらえるものに変わった。

「お前は、あの男が好きなのか」

 エリシアはすぐに答えられなかった。

 初夜に好きになるなと言われてから、ずっとその感情を否定してきた。認めてしまえば、自分がもっと傷つくと思ったからだ。

 けれど、もう否定することにも限界がある。

「まだ、はっきりとは言えません」

「はっきり言えない時点で、かなり危ないだろう」

「そうかもしれません」

「エリシア」

 クラウスの声が、少し低くなった。

「俺は、お前が公爵家の妻として立派に振る舞うことより、お前自身が傷つかずに生きることの方が大事だ。相手が公爵だろうと王族だろうと関係ない。お前が耐えられなくなるくらいなら、俺は何をしてでも連れ戻す」

「わかっています。だから私は、お兄様に手紙を書きました」

「だったら今すぐ帰れと言いたい」

「お兄様」

「だが、帰れと言えば、お前は自分の気持ちを置いたまま帰ることになるのだろう。それでは、後で必ず苦しくなる」

 エリシアは、兄の顔を見た。

 クラウスは怒っている。心配もしている。だが、それだけではない。妹の決断を奪わないように、必死で踏みとどまっている。

「お兄様、私は一週間だけ見てみます。一週間後、それでも無理だと思ったら帰ります。その時は、迎えに来てくださいますか」

「当たり前だ。馬車どころか、必要なら屋敷ごと動かす」

「屋敷は動きません」

「気持ちの問題だ」

 その言い方があまりにも兄らしくて、エリシアは少し笑った。

 クラウスはようやく腕をほどき、深く息を吐いた。

「レオンハルト公爵と話す。逃げるならその時点で連れて帰る」

「逃げないと思います」

「お前がそう言うなら、今は信じる。だが、俺はあの男をまだ信じていない」

「それでいいと思います」

 エリシアがそう答えると、クラウスは少しだけ驚いた顔をした。

「私も、まだ全部を信じているわけではありません。だから一週間なのです」

 クラウスは、ようやく納得したように頷いた。

「わかった。では、その一週間を俺も見届ける。今日はあの男と話して帰るが、何かあればすぐに知らせろ」

「はい」

「それから、無理に強がるな。公爵夫人だからといって、全部を一人で抱え込む必要はない」

 エリシアは、その言葉を胸の奥で受け止めた。

 以前の自分なら、きっと強がっていた。大丈夫だと繰り返して、傷ついていないふりをしていた。けれど今は、少しずつだが、自分の気持ちを言葉にできるようになっている。

「お兄様、私、ここで少し変わったかもしれません」

「いい方にか、悪い方にか」

「多分、いい方にです」

「なら、その変化をあの男が大切にするかどうか、俺が確かめる」

 クラウスは立ち上がった。

 エリシアは侍女にレオンハルトを呼ぶよう頼んだ。

 

 レオンハルトは、すぐに応接室へ来た。

 扉が開き、二人の男が向かい合った瞬間、空気が一気に張り詰めた。クラウスは遠慮なくレオンハルトを見据え、レオンハルトは逃げずにその視線を受け止めた。

「レオンハルト公爵」

「クラウス殿。遠いところを来ていただいた」

「妹が一週間待つと言いました。俺はそれを尊重します。ですが、その前に確認したいことがあります」

「どうぞ」

 クラウスは、エリシアのいる前で言葉を濁さなかった。

「あなたは初夜に、妹へ好きになるなと言ったそうですね」

「ああ。言った」

「なぜです」

「私が、夫婦として向き合うことから逃げたからです。エリシアに問題があったわけではありません。私の弱さと身勝手さのせいです」

 クラウスの眉がぴくりと動いた。

 言い訳を予想していたのかもしれない。だが、レオンハルトは最初から自分の非を認めた。

「それを今さら謝って、一週間で取り戻せると思っているのですか」

「思っていない」

「なら、なぜ一週間など求めた」

「彼女に離れてほしくないからです」

 その答えに、クラウスだけでなくエリシアも胸を突かれた。

 レオンハルトは言葉を飾らなかった。公爵家の体面とも、王家との関係とも言わなかった。ただ、離れてほしくないと言った。

「だからといって、彼女の意思を無視して引き留めるつもりはありません。一週間で、私がどれだけ変われるかを見てほしいと頼みました。彼女がその後で離れると決めるなら、私は止めません」

「本当に止めないと言えますか」

「止めたいとは思うでしょう。だが、力で縛ることはしません。王太子殿下にも、必要なら彼女の意思を尊重すると伝えています」

 クラウスは一瞬だけ、意外そうな顔をした。

「王太子殿下にも話が通っているのですか」

「昨日、呼び出されました。あなたが面会を求めた件です」

「それで殿下は何と」

「間に合うかどうかを決めるのは私ではなく、エリシアだと」

 クラウスは、少しだけ息を吐いた。

「殿下はまともなことをおっしゃる」

「その通りです」

 レオンハルトは否定しなかった。

 クラウスは一歩近づいた。礼儀としてはぎりぎりの距離だったが、威圧を隠すつもりはなさそうだった。

「妹は、我慢する癖があります。相手を責めるより、自分が足りなかったのではないかと考える。あなたの屋敷で公爵夫人として立つために、無理をしても笑っていたはずです」

「わかっています。いや、今になってようやくわかりました」

「遅い」

「はい」

「認めればいいという話ではありません」

「はい」

「あなたが次に同じことをしたら、俺は遠慮しません。公爵家だろうと王宮だろうと関係なく、妹を連れて帰ります」

「その時は、止める資格がないと思っています」

 クラウスは、レオンハルトをしばらく見ていた。怒りをぶつける相手が、すべて受け止める姿勢でいるため、かえってやりにくそうだった。

「あなたは、以前からそんな男でしたか」

「仕事では、そう見えていたかもしれません。家の中では違いました。私は大事なことほど避けてきた」

「今後は避けないと?」

「避けないようにします、では足りない。避けません」

 レオンハルトの声は落ち着いていたが、そこに迷いはなかった。

 エリシアは、その言葉を聞きながら、胸の奥が少しずつ温かくなるのを感じた。自分の前だけではない。兄の前でも、レオンハルトは逃げなかった。体面を保つために取り繕うのではなく、自分の失敗を認めた上で言葉を選んでいる。

 クラウスは、ようやくソファへ戻った。

「では、一週間です」

「はい」

「その間、妹の意思を最優先にしてください。あなたがしたいことではなく、妹がどう感じるかを考えてください」

「そうします」

「そして、妹が離れたいと言ったら、受け入れてください」

 レオンハルトは一度だけエリシアを見た。

 その顔には苦しさがあった。けれど、エリシアを責める色はなかった。

「受け入れます」

 クラウスはその返事を聞いて、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

「わかりました。今日のところは帰ります」

「もう帰るのですか」

 エリシアが言うと、クラウスは少しだけ苦い顔をした。

「本当は一晩泊まって見張りたいが、俺がいるとお前が自分の気持ちを確かめにくいだろう。それに、あの家にも仕事がある」

「お兄様、ありがとうございます」

「礼を言うな。兄として当然のことをしているだけだ」

 クラウスは立ち上がり、エリシアの前に来た。

「一週間後、必ず手紙をよこせ。少しでもつらいなら、遠慮なく書け」

「はい」

「それから、公爵」

 クラウスはレオンハルトへ向き直った。

「妹を泣かせるなとは言いません。人と人が向き合えば、傷つくこともあるでしょう。ですが、妹が一人で泣くような状況だけは作らないでください」

 その言葉に、レオンハルトの表情が変わった。

「約束します」

「その約束を破ったら、俺はあなたを許しません」

「覚えておきます」

 クラウスはそれ以上何も言わず、エリシアの頭に軽く手を置いた。子どもの頃のような仕草だったが、すぐに手を引いた。

「無理をするな」

「はい」

 クラウスは応接室を出ていった。

 

 兄を見送った後、エリシアとレオンハルトは玄関ホールに残った。

 馬車が門を出ていくまで、エリシアはその場で見送っていた。クラウスが最後に窓からこちらを見たので、エリシアは小さく手を振った。

 馬車が見えなくなると、レオンハルトが静かに言った。

「いい兄上だな」

「はい。心配性ですが、とても大切な兄です」

「彼が怒るのは当然だ。むしろ、あれだけで済ませてくれたことに感謝すべきだと思っている」

「お兄様は、本当はもっと怒りたかったと思います」

「わかる」

 レオンハルトは、少しだけ苦く笑った。

 その表情を見て、エリシアは思い切って言った。

「旦那様、先ほど兄の前で言ってくださったことは、本心ですか」

「どれだ」

「私が離れたいと言ったら、受け入れるという言葉です」

 レオンハルトは、すぐには答えなかった。だが、逃げるためではなく、正直な言葉を探しているようだった。

「本心だ。だが、平気ではない」

「平気ではないのですか」

「ああ。君が離れると決めたら、私はかなり苦しいと思う。それでも、君の意思を奪ってまで残ってもらうことはできない」

 エリシアは、その答えに胸を押さえたくなった。

 以前のレオンハルトなら、苦しいなどとは言わなかった。自分の感情を見せず、何も感じていないように振る舞ったはずだ。

 けれど今は違う。

 苦しいと言いながら、それでもエリシアの意思を尊重すると言ってくれる。

「旦那様は、変わりましたね」

「まだ変わり始めたばかりだと思う」

「それでも、変わろうとしてくださっていることはわかります」

 レオンハルトは、少しだけ安堵したように見えた。

「今日の予定は、どうする。クラウス殿が来たことで疲れただろう。薬草の説明書は明日にしてもいい」

「いえ、予定通り進めます。兄と話して、かえって気持ちが整理できました」

「無理はしていないか」

「していません。もし無理だと思ったら、今日は休むと言います」

「それならいい」

 レオンハルトは、エリシアの言葉をそのまま受け取った。疑わず、勝手に決めず、ただ信じた。

 そのことが、また嬉しかった。

 

 午後、二人は書斎で薬草の説明書を作り直した。

 レオンハルトは騎士たちが実際に動く場面を想定し、エリシアは薬草の効能と注意点を書き加えた。最初は仕事の話だけだったが、少しずつ会話は自然に広がっていった。

「若い騎士は、怪我を隠すのですか」

「隠す者はいる。訓練から外されたくないとか、弱いと思われたくないとか、理由はいろいろだ」

「それは危ないですね」

「だから、簡単に手当てできるものが詰め所にあるのは役立つ。君の提案は、思った以上に実用的だ」

「旦那様にそう言われると、少し自信が持てます」

「少しだけか」

「昨日よりは増えました」

「なら、明日はさらに増やしたい」

 レオンハルトが真剣に言うので、エリシアは笑いをこらえきれなかった。

「旦那様は、私の評価点を上げることに熱心ですね」

「熱心にもなる。期間は一週間しかない」

「期間が終わった後は、どうされるのですか」

 何気なく聞いたつもりだった。

 けれど、口にした瞬間、エリシアは自分でも大切なことを聞いてしまったと気づいた。

 レオンハルトはペンを置き、エリシアを見た。

「一週間で終わらせるつもりはない」

「ですが、一週間だけ見てほしいと」

「あれは、君に返事を待ってもらうための期間だ。私が君に向き合うことは、一週間で終えるものではない」

 エリシアの胸が、ゆっくりと熱くなった。

「では、一週間後に私が残ると決めたら」

「その後も、私は君を知りたい。君の仕事も、好きな茶葉も、苦手なことも、怒ることも、傷つくことも。夫として、今度こそ知っていきたい」

 エリシアは、視線を説明書へ落とした。

 嬉しい。そう思った。けれど、すぐに頷くには、まだ怖さがあった。

「私が残ると決めるかどうかは、まだわかりません」

「ああ。だから今は、私が言いたいことだけ伝えた」

「旦那様は、言葉が増えましたね」

「君に伝えなければならないことが多すぎる」

 エリシアは、胸の奥に広がる温かさを持て余しながら、ペンを手に取った。

 説明書の端に、騎士が布を巻く簡単な絵を描き加える。手元が少しだけ震えたが、今度は怖さだけではなかった。

 これから先を、考えてしまったからだ。

 もし一週間後、この屋敷に残ると決めたら。

 もしレオンハルトが本当に変わり続けてくれるなら。

 もし、好きになってはいけないと思い続けてきた気持ちを、もう隠さなくてもいいのなら。

 その未来を想像した瞬間、エリシアの胸は苦しさではなく、期待でいっぱいになった。

 

 夕方、説明書が完成した。

 エリシアが清書したものをレオンハルトが確認し、フェリクスに複製を頼むことになった。騎士団の詰め所へ渡す分と、屋敷の救急箱へ入れる分、さらに厨房や庭師の詰め所にも置くことになった。

「屋敷の中にも置くのですか」

「庭師や厨房の者も怪我をする。騎士だけに限る必要はないだろう」

「そこまで広げてくださるのですか」

「君の仕事は、それだけ価値がある」

 エリシアは、何度目かわからないほど胸を揺らされた。

 言われ慣れていない言葉だった。認められることも、必要とされることも、嬉しいと思っていいのだと少しずつ思えるようになっていた。

 その夜、エリシアの部屋には、また小さな盆が届けられた。

 カモミールティーの横に、紙が添えられている。

 今日は、君が兄上に大切にされている理由がよくわかった。

 私も、その信頼に値する夫になりたい。

 レオンハルト

 エリシアは、その紙を両手で持ったまま、しばらく動けなかった。

 兄に大切にされている理由。

 信頼に値する夫。

 レオンハルトは、簡単に甘い言葉を並べているのではない。自分に足りないものを見つめて、それを埋めようとしている。

 エリシアは引き出しを開け、クラウスの手紙の隣にレオンハルトの紙を置いた。

 一方には、妹を守ろうとする兄の言葉。

 もう一方には、夫として変わろうとする男の言葉。

 エリシアはその二つを見つめ、そっと引き出しを閉めた。

 一週間後に出す答えは、まだ決まっていない。

 けれど少なくとも今夜、エリシアは初めて思った。

 離れるために数える一週間ではなく、隣に残る理由を見つける一週間になり始めているのかもしれない。

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